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29号【書評】小林弘子「『吉田長淑』」  高比良直美





 【書評】


小林弘子著「吉田長淑 わが国初の洋方内科医」



                           高比良直美 




 当時、蘭方医は外科を主とし、内科を専門とするものはなかった。吉田長淑(ちょうしゅく)(一七七九?一八二四)は蘭語を学び西洋医学を学んでその内科への有効性に目覚める。殊に伝染性疫病から多くの人々を救うべく江戸の真ん中、日本橋槙町にわが国初の「和蘭(西洋)内科」を開業した。漢方医の反目批判をもろともせず、「日本の医学近代化に確かな一歩を拓いた人物である」という。また、同時に蘭学塾「蘭馨堂(らんけいどう)」を開き、後世に繋がる多くの優れた人材を輩出している。後年、「蛮社の獄」で犠牲となる高野長英も、長淑のもとで二年余りを門人として学び、師から一字をもらい、郷斉から長英へと改めている。門人足立長雋(ちょうしゅん)は、後に西洋産科医として名を成す。また、若き渡辺華山も長淑を師と仰いでいたという。

 ところで、足立長雋は、佐藤泰然が医を志した当初五年間学んだ師である。泰然はその後長崎、江戸を経て佐倉で蘭方外科を主とする私塾順天堂を開き幕末から明治に活躍する人材を輩出している。この本により足立長雋から遡って吉田長淑・高野長英と泰然のつながりに気づいたことは、評者にとって収穫の一つだった。


 著者小林弘子が生まれ育ち現在も住まっている金沢市。城にほど近い石引町の一画に棟岳寺という曹洞宗の寺があり、わが国初の蘭方内科医吉田長淑の墓があるのだという。医療史上著名な人物であるにもかかわらず、今では知る人も少なく、著者も2004年に「加賀藩医・江間三吉(萬里)?幕末から明治へー」をまとめたとき、その存在を初めて知ったのだという。

 吉田長淑は、加賀藩が初めて登用した蘭方医だった。藩主や一族家臣を診察する傍ら、「天下の書府」といわれた加賀藩の江戸藩邸の貴重な洋書の翻訳に尽くしたという。代表的な翻訳に「泰西熱病論」があり、「ショメール百科事典」にも取り組んでいる。著者はこれに関して項目を立てて詳しく述べている。

 文政七年(一八二四)七月、国元で麻疹に罹った前藩主前田斉広(なりなが)の治療を命じられる。酷暑の中を金沢へ向かったが、道中病に倒れる。しかし、藩の強引な要請で旅を続行し、加賀に到着して二十六日後、亡くなっている。享年四十六歳。著者はその無念さを思い、真実に迫ろうとしている。長淑が歩いたのと同じ季節に、その道中の半ばにあたる長野県牟礼町から旧街道を二日かけて金沢迄歩くという体験をして、長淑の実感や気持ちに寄り添ってみたりもしている。

 棟岳寺の長淑の墓に著者は繊細な関心を寄せる。正面は「江戸 吉田長淑之墓」と刻まれ、台石の家紋の位置には、アルファベット文字を組み合わせたようなエキゾチックな文様が彫られている。左面には、法号「天球院月心宗江居士」。右面には「文政七年歳次甲申八月十日卒」

著者は、文様を「既成概念にとらわれない、先進開明な長淑の人柄」の反映と捕らえている。また、「いかにも自然科学者らしく広い宇宙を連想させる「天球」の院号、「月心」「宗江」と次第に絞り込んでゆく過程にも深い哲理がこめられているようで、素人目にも洗練された法名」と、みごとに評価している。さらに、その下の礎石正面に男女十三人の姓名が刻まれていることに注目する。「故人を慕う有志たちの篤い思いで建てられたこと」を推測し、男女の名が大きさも並べ方も公平であることを新鮮に受け止めている。この十三名については、この本の最後で再び触れている。姓名を並べ、現在わかっていることをそれぞれに記している。

 吉田長淑は「於道中死ス」と公的文書に事実とは違えて書き残され、その死の扱いとその後の忘れ去られ方には謎が残る。長淑の最期に関する真実は、長淑が開いた「蘭馨堂の若き塾生高野長英が郷里水沢に住む養父・高野玄斉に送った手紙」によりかろうじて伝えられているという。その長英二十歳の手紙は岩手県の高野長英記念館で国指定重要文化財として所蔵されているそうだが、その文面も本書で詳しく紹介されている。ともあれ、著者は長淑の最後が彼ら十三名に看護されて安らかだったと受け止めて、結びとしている。


 長淑にはもう一つ墓がある。自らが門徒だったという江戸駒込養源寺である。本堂裏手の道路脇の一画に、弟子たちの建てた供養墓が、ひっそりと建っている。著者は探しあぐね、寺の人に訳を話したところ、図面で探してから案内してくれた。墓の文字は読み取りにくく、裏面に彫られた「碑記」も背後に覆いかぶさる竹の葉に隠され、判読不明なほどに剥落している。なんとも寂しげな墓だった。長淑没後養嗣子となった門人の言善が、高野長英ら他の門人と企画し、完成させたものと伝えられているという。寺の資料は戦災で焼け、長淑の曽孫のもとに残されていた遺墨や記録は関東大震災のおりほとんど失われ、資料の現物は極めて少ない。しかし、著者は、書籍にかろうじて残っているものなどを丹念に紹介しつつ、長淑を浮き彫りにしていく。

 

 また、著者は、吉田長淑以前の西洋学問とそれに伴う西洋医学が日本に伝来し浸透して行く歴史を、第二章「蘭学 新しい学問の隆盛」に詳しく書いている。それは、戦国時代、鉄砲、キリスト教の伝来とともに、様々なヨーロッパ文化が伝わったころから始まる。弘治元年、ポルトガル宣教師ルイス・アルメルダが慈善医療活動を行ったのが、「日本における西洋医学の草分けとされている」という。著者は、歴史学会の会員であり、歴史の専門家である。的確にわが国に於ける西洋医学を述べ、医療史上の吉田長淑の位置を明らかにしている。医療の歴史の奥行きに目が開かされる。

 資料の丁寧な紹介と掲載、巻末には年表、索引もあり、わかりやすく、充実している。また、二つの墓を実際に訪ねた折の余録とも言うべきコラム「棟岳寺の『水戸天狗党』慰霊碑」、「夏目漱石『坊ちゃん』ゆかりの養源寺」があるのも楽しい。   

 (橋本確文堂発行1800円)

    



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【書評】

大和田茂著『社会運動と文芸雑誌


         ―『種蒔く人』時代のメディア戦略』



    戸塚麻子




 本書は、T『種蒔く人』、U『文芸戦線』、Vアナキズム系文芸雑誌、W『太陽』、の四部構成となっている。「あとがき」での著者自身の言葉を借りれば、「主に一九一〇年代はじめから二〇年代半ばまでの時期に刊行された社会主義文芸雑誌を対象に論じたもの」が収められている。著者の一貫したテーマである「社会文学」研究の、特に雑誌メディアに焦点を合わせたかたちでの深化ということができる。

 本書の白眉は、半分近くを占める『種蒔く人』についての論考であると言っていいだろう。小牧近江が『種蒔く人』を発刊するに至った経緯、東京版『種蒔く人』に先立つ土崎版『種蒔く人』についての紹介と位置づけ、『種蒔く人』における「地方欄」という読者投稿欄についての考察、平沢計七・細井和喜蔵と『種蒔く人』、など、さまざまな角度からこの雑誌に光が当てられている。同誌に関する研究案内も参考になる。

『種蒔く人』についての論考でも大きく取り上げられていた平沢計七へのこだわりも、著者ならではである。関東大震災下での亀戸事件で虐殺された作家平沢計七に関しては、著者は既に『評伝平沢計七』(藤田富士男共著、恒文社、一九九六年)や『平沢計七作品集』(藤田富士男共編、論創社、二〇〇三年)など多くの研究成果や資料集を物している。本書では、関東大震災や平沢をめぐる記憶や「想い」がどのように残され、また「受け継がれたか」が詳しく検討される。流言蜚語についての考察も含め、著者の「想い」と批判精神が強く感じられる。

 こうした論考群に比して、『太陽』を扱った箇所は、一見場違いに見えなくもない。当時の代表的総合雑誌であった『太陽』は、もちろん「社会主義文芸雑誌」ではないからである。しかし、特に編輯主幹浮田和民を扱った論考を読むと、その印象は変わる。自由主義者浮田の可能 性と限界を指摘しつつ、著者は社会主義・アナキズムのみならず自由主義にまで幅を広げ、批判の精神と運動を模索しているように思える。それは、いささか古い例えであるが、人民戦線的な可能性の探求のようにも感じられた。

(二〇一二年五月、菁柿堂、二〇〇〇円+税)

   




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