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「群系」27号 特集 戦争と文学−昭和文学の水脈- 所収論文 その2





太宰治の転向と戦争期のあり方


       ―中野重治と保田與重郎を視座として




        佐藤隆之




 太宰治の転向は、家父長権への屈服という特異性を持つ。一般的な転向は、権力からの圧力に屈服することから起こる(吉本隆明「転向論」〈『現代批評』昭和三三年一二月〉で言う「大衆からの孤立(感)」も発端としては考えられるが、最終的には権力へ屈服することとなる)わけであるが、その権力は、思想の科学研究会編『共同研究 転向』上中下三巻(平凡社、昭和三四年一月〜三七年四月)や本多秋五『転向文学論〈第三版〉』(未来社、昭和六0年四月)、鶴見俊輔・鈴木正・いいだもも『転向再論』(平凡社、平成一三年一0月)等の成果から考えても、警察権力ないしは国家権力というものが大部分である。特に昭和八年前後に起こった転向は、細部的な違いはあるにせよ、大半の事例が、拷問や拘束等を盾にした警察権力に屈服して起こったという捉え方は間違いではあるまい。中野重治の場合も、「東京控訴院法廷で、日本共産党員であったことを認め、共産主義運動から身を退くことを約束し、懲役二年執行猶予五年の判決を受け」(中野重治の自筆年譜の表現、引用は講談社文芸文庫『村の家・おじさんの話・歌のわかれ』平成六年三月)たという行為そのものが、実生活上の転向であった。但し、中野はその実体験を隠蔽、もしくは作家的操作を施すために、『村の家』(『経済往来』昭和一0年五月)作品中では、小塚原で骨になってこいという父孫蔵の意見に対して、その父の言葉に対する直接的返事ではなく、「やはり書いて行きたいと思います」という、転向はするものの、良心と作家としての信念は貫き通したいという選択をする主人公勉次を描く。『村の家』作品論の中でもよく言われることであるが、この作家的操作は、性急な結論付けとして、また『村の家』作品の破綻として、否定的な評価として扱われる場合も多い。もちろん、それに留まることなく、木村幸雄「『村の家』と『愛しき者』とのあいだ」(『福島大学教育学部論集 人文科学部門 第五四号』平成五年一一月)の表現を借りると、「『村の家』は、家との関係、父との関係という縦軸に沿った転向問題の批判的追求と、父親孫蔵をはじめとする生きた人間の姿を描くことが深く結びつくことによって、転向小説の傑作となり得た」という肯定的な評価に変化するヴァリエーションも見られる。しかし、私が注目するのは、実体験の転向と作品上の転向が乖離しており、そこにはやはり、中野重治の作家としての眼があったという点である。だから、先程、隠蔽もしくは作家的操作という表現を使ったが、それは必ずしも否定的な評価ではなく、中野が作家的視点を持つゆえに、実体験の転向と作品上の転向は必然的に違わざるを得なかったという捉え方をするのである。

 こういう警察権力への屈服という一般的な転向の第一段階をすっ飛ばして、家父長権への屈服という、一般的な転向では第二段階と言えるところからスタートしたのが、太宰の転向の特異性であった。もっとも、その原因はというと、太宰が警察に対しては恐れを殆ど抱かなかった(有力政治家としての父や長兄という存在が盾になっていた)のに対し、家父長権に対しては全くというほど頭が上がらなかった、太宰の心理的要因が大きかったのは確かであろう。太宰が屈服した家父長権の実態は、昭和五年一一月に長兄津島文治との間に交わされた「覚書」中の、社会主義運動に関係した場合は、実家からの送金を減額または停止するという文面であった。親がかり状態であり、自分で稼ぐ手立てもない当時の太宰にとって、この一文は予想以上の重圧を持って太宰に襲いかかって来たのである。

 そして、太宰の場合も別の形での「転向」の隠蔽・改変が必要であった。自分が警察にではなく、身内とも言うべき長兄を代表とする家父長権に屈服したという、恥ずべき事実は隠さなければならなかった。そのため、「狂言の神」(『東陽』昭和一一年一0月)「東京八景」(『文学界』昭和一六年一月)「人間失格」(『展望』昭和二三年六〜八月)をはじめとする作品中では、警察権力に屈服したという形でもなく、もちろん家父長権への屈服という事実そのままでもなく、活動をともにしていた仲間から逃げたという「罪の意識」に置き換えられる。「狂言の神」の叙述を挙げると、「或る月のない夜に、私ひとりが逃げたのである。とり残された五人の仲間は、すべて命を失った」というような具合である。この実生活上の転向の隠蔽操作による結果である「罪の意識」が全くの虚構であり、太宰の内面にはこの意識が全くなかった、というわけではない(太宰の社会主義運動への積極的な関わりから考えても)。しかし、作品中でこの「罪の意識」が強調されることによって、これこそが太宰の本当の転向であるかのように誤解されたことは周知であり、かの奥野健男もまんまと騙された一人であり、そこから有名な「太宰治論」(角川文庫版、昭和三五年六月)が書かれたことを考えると、必ずしも悪い結果だけをもたらしたというわけではなかったが。

 さて、転向の現象に戻ると、第二段階の家父長権への屈服を経て、第三段階が国家体制への取り込み、最終段階の転向の完成と言えるのが天皇制への忠誠、日本国体の讃美である(この転向の段階説は、拙著『太宰治の強さ』〈和泉書院、平成一九年八月〉で詳しく論じている)のだが、その日本国体の讃美は林房雄の「勤皇の心」(『文学界』昭和一七年三月)というタイトルが典型である。すなわち、林房雄の「転向について」の表現を借りると、「無比の国体への自覚」(引用は『現代日本文學大系61 林房雄・保田與重郎・亀井勝一郎・蓮田善明集』筑摩書房、昭和四五年一二月)であり、「忠良なる日本国民としての復活」、「いつさいを捨てて我が国体への信仰と献身に到達すること」というものであった。マイルズ・フレッチャー『知識人とファシズム』(柏書房、平成二三年三月)に取り上げられている、蝋山正道、三木清、笠信太郎の三名は転向の末に、昭和研究会という近衛体制を支える、すなわち、国策の一翼を担う働きを為した者たちである。彼らの転向の実態や過程というものに関して、同書は殆ど触れていないが、戦争最末期の彼らの活動が転向の完成段階に当たっていたことは確かである。幸いなことに、太宰は転向の過程を順序良く踏んで行かなかった(先程述べたように、第一段階の警察権力への屈服を飛ばして、第二段階の家父長権への屈服から始まり、逆に、その後、警察権力につき従った体裁だけ表面的に装った)ために、第三段階以降に至らなかった。さらに、国家という巨大な敵を見据えられる適当な距離感を保ち得た、というのが私の判断である。また、中野の場合は、第一段階、第二段階を経たのだが、第三段階に取り込まれることを辛うじて回避した、数少ない例外的な人物であった(おそらくその理由は、中野が小説も評論も詩も書いていたという事実に帰せられると思う。次の項でも述べるが、一つのジャンルに限定された作家であると、どうしても作品の多重性を実現しづらく、一義的な解釈の罠に陥る危険性が高い。それに比して、中野の場合は、多岐のジャンルにわたり作家精神を発露させることができ、特に小説ジャンルにおいては自己の客観的視点とそれを相対化する作家的操作という多様性の発揮ができ、「村の家」がその結実としてある、こういう点から中野が国家体制へ自己を取り込まれずにすむ、作家的な強さが存在し得たのであろう)。

太宰の戦争期の活動というのは、大まかなまとめ方をすれば、作品解釈の多重性を利用しながら、表面的には戦争体制へ順応しているかのごとく装い、内面的には自己の芸術活動へ邁進するというものであった。例をいくつか挙げると、「新郎」(『新潮』昭和一七年一月)「十二月八日」(『婦人公論』昭和一七年二月)といった太平洋戦争開戦の際に書かれた作品では、主人公の開戦への興奮という姿を前面に出しながら、実はそれを相対化する別の登場人物を登場させ、その人物によって自己の本音をちらりと語らせ、「散華」(『新若人』昭和一九年三月)では、アッツ島で玉砕する三田君の死と、芸術のために死ぬという自己の死を等価のものに扱い、『惜別』(朝日新聞社、昭和二0年九月)では、日本人の愛国心に同化してしまう主人公の「周さん」に対し、東洋本来の連帯を説く藤野先生を配置することにより、一元的な戦争体制への取り込みを避ける、といった具合である。また、『お伽草紙』(筑摩書房、昭和二0年一0月)「カチカチ山」においては、外枠の物語(父が娘に語る形式)では典型的な男と女の登場人物により、戦争順応の姿勢を示しながら、内枠の物語(兎と狸とのお話)では、戦争体制からは明らかにはみ出す、無用な男の狸と、「産めよ、増やせよ」という戦時下のスローガンと正反対になる、女性性の薄い処女の兎とを描き、戦争体制を根本から否定する語りがなされる、という巧みな作家的操作があったことは別稿、「太宰治「カチカチ山」(『お伽草紙』)論―兎・狸・父・娘の造形・役割」(『芸術至上主義文芸36』平成二二年一一月)で詳しく論じているので、今回は割愛したい。

 一例として「十二月八日」における太宰の巧みな作家意識を見ておこう。大本営発表を聞いて、「それを、じつと聞いてゐるうちに、私の人間は変つてしまった」と興奮気味に語る主人公の主婦の対極に、「西太平洋つて、どの辺だね? サンフランシスコかね?」という発言や「伊馬さん」と「紀元二千七百年」を「ぬぬひゃく」とでも言うような言い方ができているかもしれないという、「どうだつていいやうな」議論をする主人公の夫という人物を配置し、その二重性・多重性により、作品解釈の深みを加えるという、これこそが太宰の戦時下の冷静緻密な計算なのである。一義的な解釈を避け、国家の意識に巧みに取り込まれてゆくことを拒否し、あくまで自己の作品創作を忠実に行う、そのためにこそ、この戦争期においてはこういう巧みな作家的操作が必要であり、それを実際に行える技量を併せ持っていたのが太宰の特徴であった。


 保田與重郎の戦争期の活動は、本人の意識以上に国家体制に嵌め込まれてゆくという大いなる不幸があった。保田の意識の中には、渡辺和靖『保田與重郎研究』(ぺりかん社、平成一六年二月)の言い方を借りると、伝統がないからこそ、日本古典への回帰がなされなければならなかった。しかし、そういう機会を利用しながら、保田が自己の評論活動を邁進させていったという事実は消し去るわけにはいかない。そして、保田の主な活動が評論であり、太宰の小説作品にあるような多重性を出しづらかったことも、保田にとっては不幸であった。保田の戦争期における評論活動の例を挙げてゆくと、太宰の「散華」と対比される「玉砕の精神」(『逓信協会雑誌』昭和一八年一0月)における玉砕の讃美であり、また、戦争観の明確に出てくる「大東亜戦争と日本文学」(『東亜文化圏』昭和一八年三月)等の叙述である。簡単に見ておくと、「玉砕の精神」においては、アッツ玉砕を「崇高としての印象」と捉え、「けだしアツツの人々の、玉砕の瞬間にあらはれた神意は、近代の戦争の常識を超越して、神州不滅の道を貫くものであつたにちがひないと思ふ」という表現で現れる。この表現では、保田の意識に関わらず、国策と軌を一にするかのように捉えられても致し方なかったし、また実際に国家は保田を戦意高揚の旗振り役に選んで利用したわけであった。「大東亜戦争と日本文学」においては保田はこう言う。「戦争を云ふことは、御大詔にあるがまゝである。この明白の絶対を、他国原理で説かねばならぬほどに、我々は忠誠を失つてゐない」「共栄圏の思想は、たゞ大御心のゆゑに成立するものであつて、その他の情勢論ではもはや成立し難いものとなつた」すなわち、天皇への絶対的忠誠心が大東亜共栄圏に直結した、という解釈である。こういう保田の思想が、見事なまでに国策の裏付けを果たし、結果として、保田の戦争期における華々しい活躍を生んだということは否定できない事実である。現在、保田の業績をもう一度評価し直そうという動きが見られ、私もそのことには基本的には賛同する方向なのだが、保田の作品自体に見られる表現を洗い直そうとすることと、保田の表現が戦争体制に見事なまでに嵌まり込んでいった事実とは、互いに矛盾するものではない。その両面性を捨象してまで保田評価をすることは不可能なはずである。そして、保田の上に挙げたような作品群の中で、直接的なアッツ玉砕兵たちの讃美と、大東亜共栄圏思想と天皇の御心との直結性という表現は、一義的にしか受け取られないものであり、多面的な解釈はほぼ不可能に近いというものである。

 今までの比較で明らかであろう。太宰の戦争期の活動と、保田の戦争期の活動は、平行線を辿り、全く交わることのあり得ない、対照的なものであった。根底のところに、二人の出発が『日本浪曼派』であって、戦前の著作には共通性なり類似性といったものを見つけ出すことは可能であろう。しかし、こと戦争期、特に太平洋戦争開戦以降の二人の活動を比較対照すると、そこには大きな隔たりが存在するのである。文学的な才能のない輩に限って、太宰の表面的な戦争順応の姿勢のみを大きく扱い、太宰も戦争期は眼を曇らされただの、戦争に迎合した生き方であった等という、馬鹿な評価をするものがいたりする(太宰研究者の中にまでいたりするが、こういう低レベルの奴らにはもう一回文学の修行をやり直して来いと言いたい)が、太宰の小説作品の多重性と、保田の評論活動の一義性というのは拭いがたいまでの事実である。とても同レベルに扱えるものではあり得ない。ここのところをきちんと捉えていかないと、戦時下の作品群の評価はしっかりできないということを、我々は肝に銘じておかねばならないのである。






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太宰治 開戦からの眼差し

  

―「十二月八日」「待つ」を中心に―


              

         相馬明文





 加藤典洋『敗戦後論』(平成九年八月 講談社刊)に、次のような記述がある。


  中野も、太宰も、戦時下、時局に迎合するという姿勢から遠く、よく軍国主義の体制に抵抗し続けた。


太宰が加藤の言うように、戦争当時の国家・時局に「よく」抵抗したと言うべきかどうか、若干疑義が湧かないわけではない。最終的には、一五年戦争なり大東亜戦争なりでの太宰治が、作家として当局に抵抗したか迎合したかということが問われる必要があるとして、今ここでは主に開戦時を題材にした「十二月八日」(昭一七・二)と、約半年後に発表した「待つ」(昭一七・六)をみていき、稿者自身の覚えとしたい(昨今は「アジア・太平洋戦争」という呼称を目にすることが多いが、この稿では昭和六年九月の満州事変から始まり敗戦で終わった一連の対中国状況を「一五年戦争」、後の米英を中心とした連合国陣営との武力対立に「大東亜戦争」を用いることにした)。

開戦時と言えば「十二月八日」が取り上げられる。この小説は、抵抗か迎合かという二項対立的に考察されてきた。「待つ」は〈待つ〉対象が何であるのか、という観点からの論が多く見受けられる。その中に「戦争の終結、平和」(別所直樹)もあり、「作者とその時代を考える場合に重視」(木村小夜)される作品である。たとえば「散華」(昭一九・三)も開戦時ではないが、「このテクストの評価は必然的に時局への太宰の反応――抵抗か協力か――を議論の中心として呼び込んできた」(若松伸哉)という。

しかし、「十二月八日」における抵抗の可否については「このような「十二月八日」に対する全く異なる解釈は何を意味しているのだろうか。これは「十二月八日」には、両方の解釈を可能にさせる二重構造が内包されていることに起因する」(李顕同)という評者の言そのままに、また「待つ」の〈待つ〉対象の多義についても、どれとも解読されるように書かれているのであって、対象の限定は確かに時局における作家の姿勢を決するうえで大きい意味・意義を持つだろう。その意義を充分に認めるところであるが、労多く実り少ない作業といえる。

「十二月八日」は、ある主婦「私」の日記という仮構で、夫のエピソードや近所の人物たちの動静を伴って彼女の開戦のほぼ一日の生活が語られる。

 朝、近所のラジオから開戦の放送が聞えてきた後「私の人間は変つてしまつた」「日本も、けさから、ちがふ日本になつたのだ」と明かしたり、「本当に、此の親しい美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き回るなど、考へただけでもたまらない」「日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼らを滅つちやくちやに、やつつけて下さい」などと自己喚起したりする「私」の告白を真直ぐに受け止めれば、「妻や近隣の者たちの戦争突入に対する心構えを表わしており、まさしく、国策文学の典型ともいえる体裁を成している」(高木知子)ということになるしかない。ただ、この「十二月八日」一篇の主題がいま引用したような部分にあるのかどうか、甚だ疑わしいのである。とは言っても、表層にこのような言説が見られる限り、他の評者にも「大東亜戦争開戦の日の昂ぶりを素直に」「書き上げた戦争文学」(赤木孝之)のように戦争賛美小説の評価がなされていることを受容して置かねばならない。それにしても先の評者(高木知子)の評言は厳しすぎるというか、一面をクローズアップし過ぎているように思えてならない。この点については別の機会を用意したい。

 「主人」が「七百年」を〈「ぬぬひやく」ねん〉と読む例の場面は、その表現内容の滑稽さから時局に対する作家の揶揄、延いては抵抗を見てよいと解するが、〈紀元二千六百年〉に触れず、わざわざ百年後の「七百年」というところに、現実を直視しない(、、、)作家の姿勢を垣間見るのである。これは〈現実逃避〉なのだろうか。また「西太平洋」の場所を「私」に知っていないと思われる物言いで「アメリカが東で、日本が西といふのは気持の悪いことぢやないか」と主人が嘆く場面のことである。夫は場所を知っている、という考察もある(厳大漢)。今はそのどちらでもよいが、ここもかなり戯れ言的な様相の表現である。内容自体が冗談のニュアンスがにじみ出ているうえに、夫の「正気」そうな言い方が、いっそう滑稽感を増幅している。この表現は、カリカチェアの要素が大きい。そうして、「センチメントのあるおかたは、ちがつたものだ」「主人の愛国心は、どうも極端すぎる」「どこまで正気なのか、本当に、呆れた主人であります」等の妻(主婦)の言葉が、「主人」をいっそうそれらしく装う。ここにも、開戦という国家の一大事に直面しない(、、、)作家の態度をみる。

 「十二月八日」の直前には「新郎」(昭一七・一)が発表されている。この小説は冒頭の「一日一日を、たつぷりと生きて行くより他は無い。明日のことを思ひ煩ふな」によく表れている日常生活が語られる。中ほどで、語り手の書く小説を「変った小説」だとする国民学校訓導から抗議めいた手紙が届いたことが、事件といえば言えるような日常である。もちろん表現内容や言説から、さまざまな作品の意味・背景としての作家の意図を読み解くべきである。しかし、小説の構造の上で最も注目されることは、末尾の括弧書きの注である。「昭和十六年十二月八日之を記せり。/この朝、英米と戦端ひらくの報を聞けり」。この開戦の情報は、かなり劇的な出来事だったはずである。そのことは、戯画化や風刺・誇張されて描かれた中にも、次の作品「十二月八日」から知られるところである。それをしも、特別視した感慨もなく、開戦という大事件に見合わない質素で平凡というにふさわしい事柄を書き連ね、とってつけたように開戦の記述を付加する。そこに、この作品に向かう作者のアイロニカルな態度を見ることができる。

もっとも、「新郎」は「十一月下旬か十二月上旬かに起稿され、十二月八日に脱稿した」(山内史)とする推定がある。そうすると、作品本文が先にできてしまっていて、末尾の注は本来の意味での付け足しかもしれないという可能性も出てくる。仮にそうだったとするなら本文には開戦の特別な思いは、もともとないことになり、作家の姿勢に若干の強弱が出てくるが、注に拠り作品にアイロニカルなものを読むことに変りはない。

 先の評者(李)の他にも「新郎」「十二月八日」に「重厚な構造」「二重構造」(佐藤泰正)を読み解く評者は既にいる。その評言と考えを異にしているが、稿者は述べたようなこの開戦直近の二作品にある対比の表現構造そのものを〈二重〉と読む。そして、その構造から分析されるアイロニーに開戦や時局に対する作家の姿勢をみる。

 さて、「待つ」である。

 語り手の「二十の娘」は「いつたい私は、毎日ここに座つて、誰を待つてゐるのでせう。どんな人を? いいえ、私の待つてゐるものは、人間でないかも知れない」「はつきりした形のものは何も無い」「私の待つてゐるものは、あなたでない、それでは一体、私は誰を待つてゐるのだらう。旦那さま。ちがふ。恋人。ちがひます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡霊。おお、いやだ」と語る。

 語り手が「待つてゐる」対象については、「軽々しく口に出してはならぬ、何か」(奥野健男)「キリスト」(佐古純一郎)「自由(に表現できるよう――相馬注)な芸術」(千葉正昭)などいろいろな見解が提出されている。しかし、語り手が述べていることからすれば、具体的に一つに限定することには、そもそも無理があるとしか思えない。「待つてゐる」こと自体に意味があるのだとする評者(鈴木雄史)もいる。その無理を超えて決めるのが文学研究、特に作家研究の仕事ではあろうが、作品を重視した分析では「わからない」という語り手の言葉がもっとも妥当といっておくしかない。「待つ」の語り手は「大戦争」開始後、「私だけが家で毎日ぼんやりしてゐる」ことが「大変わるい事のやうな気がして来て」「不安」で「落ちつかな」いために、〈待つ〉行為に出たのである。このことから逆に言えば、不安を与えない落ち着く何かということになる。その意味では、「待つ」以外の多くの作品をも考察した評者の「この上もない素晴らしい幸福」(柳本博)という結論に賛成する。

 繰り返すが、小説の言説がさまざまに解することができるように作られているのである。ここでは、そのように多義的ないし曖昧につくる小説表現構造そのものに作品としての効果があり、少なくともそこから作家の姿勢を窺うことができる、という方向性を採りたい。

 以上の二作品から、曖昧な言説をする語り手たちを登場させることで、戦争という時局・社会に直接的に対峙してはっきりと態度を示さない人間像が浮かび上がるのではないか。もちろんこの表現が作家の姿勢を投影していることは確かである。しかし、語り手たちや人間像が本質的に非難されるべき筋合いのものではないし、また例の如く語り手・主人公=作者の自画像ととらえて、太宰自身が戦争や開戦の現実に無関心であったとか無視を装ったということの証左とはなり得まい。それは、戦争という現実からの逃避ではない。逃避は、作品を発表しないという行為を選択させるであろう。要するに、太宰の姿勢は〈消極的〉抵抗と言えるのではないか。ついでながら、昭和一七年一〇月の「花火」全文削除事件以降は、抵抗の度合いが、より慎重にあるいはより消極的になっていったのではないかと推察する。

 大東亜の戦時下作品「散華」の「三井君」の病死が、「三田君」の玉砕と「等価」(鳥居邦朗)かどうかはわからないが、「玉砕」のみを賛美しないという意味合いで対比の構造を形作っていると言える。「三井君」が架空の人物(北川透)とすれば、その意図はなおさら認識せざるを得ない。

 果たして、太宰が時局に迎合したのか抵抗したのか。稿者は、少なくとも開戦時から「待つ」頃までについては、迎合を採らない。積極的な抵抗とは言えないが、太宰の深奥にはアイロニカルな思いがあった、と考える。

「よく」創作に向かった時期であった。


 付記 近来は「十二月八日」に抵抗迎合の二項対立を、「待つ」に〈待つ〉対象を、それぞれ論点としない考察も多く見受けられるが、作品研究や作品の分析であったとしても、各々の考察の方法から二項や対象の選択肢に迫る論文も現れて欲しい印象を持った。









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昭和二十年の川端康成


   −鎌倉の川端康成、月を仰ぎ、鹿屋を思った

(昭和二十年五月二十五日)

           


             布施田 哲也

はじめに


 副題は在野の歴史家鳥居民の「昭和二十年」第七巻(平成十三年)の小題よりとったものである。鳥居民の「昭和二十年」は、太平洋戦争の敗戦の年を日記のごとく日を追って描いた全十四巻の構想で、現在第十二巻までが刊行されている。戦史は、もちろん政府高官など関係者の日記・著作、また一般人の日記、企業の社内誌あるいは外交文書を含む当時の機密文書など、厖大な資料を渉猟して考察し、昭和二十年の雰囲気・においまでもまるごと描きだす作品である。

川端康成は自分自身の戦争体験について、「私は戦争からあまり影響も被害も受けなかった方の日本人である。」(「独影自命」1-2 川端康成全集 第十四巻 昭和四十五年)とのべている。

 また、「私達はこの国のほとんど亡びるのさへ眼前に見て過ごしたのであった。あの戦争さへ過ぎ去るのを見通したのであった。人生の悲劇、人間の苦悩や不幸を見る私の目もちがって来ざるを得ない。」(「独影自命」1-3)とも表現している。

 今回は川端康成の昭和二十年四月から五月にかけての鹿屋従軍体験前後に焦点をあてていく。年譜では一行に過ぎないこの時期の戦争最前線での経験は、戦後「生命の樹」を始めいろんな作品、「敗戦のころ」「哀愁」といった随筆、川端康成の戦後全体、人生全部にもつながっているようである。 

鹿屋での生活については記録が不十分で、かつ報道原稿としては一行も記事を残していないため、同行者の作品、日記、手紙、戦後の作品等ではかり知るしかない。川端秀子の「川端康成とともに」(新潮社 昭和五十三年)によれば婦人の手元にこのときの記録として「3号報道班 川端 焼却の事」と表紙の裏にえがかれた小さな手帳が残っており、九十ページにわたってびっしりと書き込まれているものが残っているという。(未公表)



一、海軍報道班員


昭和二十年二月戦況はいよいよきびしく、日本の運命はまさにきわまろうとしていた。いわゆる特攻隊作戦が未曾有の作戦として大々的におこなわれようとしていた。海軍報道班員としては、丹羽文雄、石川達三、山岡荘八、湊邦三がいたが、この事態をより的確に語りつぐべきと海軍報道部では考え、新たに大物の海軍報道班員の選定に入った。当初、志賀直哉・山本有三・武者小路実篤らが候補にあがった。まず志賀直哉に依頼したが、体力不足を理由に固辞されている。   

日本の心を誤りなく次代に伝えることができるのは、横光利一か川端康成ではどうかということになり、「横光は大きく書くか小さく書くでしょう、正しく書くのは川端のほうであろう。」という志賀直哉からの意見で川端康成が候補にあがった。川端は、「場合によっては、原稿は書かなくてもいいんですね。」と念を押し、二、三日考えたのち報道班員を承諾した。川端康成四十五歳のときである。


      

二、鹿屋(海軍航空部隊の攻撃基地)への取材命令


四月十三日には三月十日以来の東京への大空襲があり、宮城大宮御所および赤坂離宮内の一部、また明治~宮の本殿及拝殿は消失という被害もあった。これに対し四月十六日から十七日にかけて沖縄沖では航空部隊が、五隻の航空母艦、一隻の戦艦を含め計十三隻の撃沈を十八日の大本営発表として発表している。これは、沖縄戦の戦果としてみれば(三月二十三日より四月十八日まで)のべ、航空母艦十三隻、戦艦十隻、巡洋艦三十九隻、駆逐艦三十一隻の撃沈となる。このような大本営発表で近く戦況が好転するといううわさの中、海軍は保持する飛行機を全部使い攻撃を仕掛けようとしていた。「いよいよ大きく歴史の変わるところです。とにかくよく見ておいてください。」と海軍省でいわれるのである。また、四月二十日前後には、沖縄の米軍が無条件降伏したという流言も広く流れている。四月二十三日、海軍省に出頭し、川端康成は海軍少佐待遇での海軍報道班員として鹿屋基地への赴任要請を受けた。山岡荘八は、このときのことを戦後以下のように書いている。

「昭和二十年四月二十三日、海軍報道班員だった私は、電話で海軍省へ呼出された。出頭してみるとW(ライター)第三十三号の腕章を渡されて、おりから「天号――」作戦で沖縄へやって来た米軍と死闘を展開している海軍航空部隊の攻撃基地、鹿児島県の鹿屋に行くようにという命令だった。同行の班員は川端康成氏と新田潤氏で、鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった。私も新田氏も大きな陸軍の兵隊ぐつで、川端さんだけが、割合きれいな子供のくつみたいな赤ぐつをはいていた。たしか、徳田秋声氏の遺品だといっていたが、その遺品のくつが、ちょっとうらやましいものに目に映るほど国内の物資は欠乏し、みんなの姿は潮垂れていた。」

(最後の従軍)[昭和三十七年八月六日〜八月十日「朝日新聞」]



三、鹿屋に出発


四月二十四日 早朝、痩身鶴のごとき川端康成は、リュックサックをかついで、朝もやの立ちこめる厚木飛行場にやってくる。飛行場より午前十一時、海軍の大型輸送機ダグラス機が鹿屋に向けて出発する。制空権はすでになく、一度伊豆半島上空をぐるぐるとまわって引き返している。午後一時に再度厚木より飛び立ち鹿屋に到着する。

同時期、川端と共に出発した新田潤は、戦後小説の中で鹿屋の風景をかいている。小説ではあるが、ほぼ事実にちかいと思われる。

「広い飛行場の施設、附属建物なぞ、凡そ地上に姿を見せているものは、すでにすっかり吹き飛ばされており、無残な残骸と化し、あちこちにぼこぼこあけられている穴、焼けただれた立木、そうした中で思い出したように時限爆弾が土砂を吹き上げるという、まことに荒涼とした眺めでしたが、あたりの青く煙った山波の景色は美しく、それに飛行場を出はづれさえすれば、起伏の多い土地柄のいたるところに竹林が青々と茂っていたりして、五月の空の下に思わず戦いをわすれさせるようなゆらゆらと長閑な南国らしい情緒もありました。」

(新田潤「妻の行方」隅屋書房 昭和二十二年)



四、鹿屋での日々


鹿屋についてみると、定期便と呼ばれる朝夕の敵機に備えて、周辺にはアリのように人が動いて壕掘りをやっている。それらはたいてい年取った召集兵か予科練の無邪気な子供たちであった。四月二十六日には、家にはがきをだしている。「安着、安全、安眠」と最初につたえ、特攻隊員が読む書物が少なく、鎌倉からおくってもらえないかとの依頼も出している。五月二日の子・妻にあてた手紙では、「時限爆弾は愛嬌者です。お父さま達は危い事ありません。(略)皆元気で敵艦を沈めに飛び立っていきます。(略)隊に三晩泊った。気をつけて壕に入れ。」と伝えている。その鹿屋で、川端は戦争の進捗状況について新聞・大本営が伝えていないことを知るのである。

昭和十九年十月の比島沖海戦にて、連合艦隊はすでに消滅していること、連合艦隊司令部は海上ではなく陸上にあること、特攻隊の「航空艦隊」がいまや海軍であることを知る。特攻隊がいくら出ても、沖縄周辺の艦船は去らないことを知るのである。「鹿屋出発前には、特攻隊の攻撃で、沖縄戦は一週間か十日で、日本の戦利に終わるからと、私は出発を急がせられたが、九州についてみると、むしろ日々に形勢の悪化が、偵察写真などによっても察しがついた。艦隊はすでになく、飛行機の不足も明らかだった。」「私は特攻隊員を忘れることが出来ない。あなたはこんなところへ来てはいけないという隊員も、早く帰ったほうがいいという隊員もあった。」(「敗戦のころ」)と戦後書いている。

川端は同行の山岡荘八のように隊員とはつき合うことはしなかったが、顔を伏せ、あの深淵のような金壷眼の奥から、いつもじっと隊員の挙措を見つめていた。そして「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と約束している。

鹿屋では同室ですごした川端康成の印象を川端の死後発表している。

「その時の川端さんは小さな手帳に何か記入するだけで、仕事らしい仕事をしようとせずに、狭い部屋で向かい合って筆を走らせている私の原稿用紙を、無遠慮にそばから覗き込んでいた。(中略)その川端さんが、定期便と呼ばれていた敵機の爆撃のおりに、私と躰をつけて狭い防空壕の中で息をひそめていた事がある。文字どおり大地が小波のように揺れる猛爆だった。と、敵機が去ると同時に、「――山岡さん、もう小鳥が鳴き出しましたよ」と、川端さんが私に注意してくれた。爆弾で大地で炸裂する瞬間まで鳴いていた小鳥が、敵機がそれをおとしおわると、人間どものまだ何を考える余裕もないうちに、再び賑やかに囀りだした、この間三秒というのである。」  

(「眼」文芸春秋 昭和四十七年六月号)

また評論家の草柳大蔵が川端らしい鹿屋でのエピソードを次のように書いている。

「他の文士特派員は、涙を流しながら文章を書いている。川端氏は、ある日、仲間の一人に「ごらんなさい。辛夷の花があんなに白く咲いていますよ」と、かなたの花明かりを指さし、相手を唖然とさせている。これとて奇矯な行動のように聞こえるが、川端氏の日常にはもうひとつの前提があった。彼は、偵察機が帰って報告する時間をつかむと、何気ない顔で司令部に入り、沖縄の戦況を的確に把握していたのである。「毎日、私だけが航空写真とやらを見にゆきました。すると、沖縄のまわりのアメリカ海軍が、日ごとに増えてゆくのです。それがたくさんになって、算え切れないとわかったとき、ああ、これで戦争はおわりだと思いましたよ」川端氏は、そのように語ってくれたことがある。」

(「諸君」 昭和四十七年六月号)



五、鹿屋帰宅後


「沖縄戦も見込みがなく、日本の敗戦も見えるようで、私は憂鬱で帰った。」(敗戦のころ)このときも空路帰還している。帰還時の川端康成は次のように描かれている。

「翌朝鹿屋基地を飛びたった飛行機は、鈴鹿空へ燃料補給のためいったん降りた。腹が減ったので、燃料をいれている間に昼食をとることにし士官食堂にはいった。痩せて小さい彼は、飛行機で酔ったのか、顔面蒼白でトボトボとやっと歩く態であり「こりゃ、いかん」と思いながら、ライスカレーをふたつ注文した。(中略)彼はしょぼしょぼしながら、きれいにカレーをたいらげ、だいぶ元気をとりもどして雑談になった。「特攻の非人間性」については一段と声を落として語り合った。私が予備学生であることを知って安心して喋るのである。話しているうちに、私を民間人と錯覚して、熱がこもってくるのだった。」

(杉山幸照「海の歌声」行政通信社 昭和四十七年)

鹿屋から日に焼けて帰ってきた川端の帰還祝いを五月二十五日鎌倉二楽荘でおこなったとき「川端が南九州の航空基地の土産話をなにひとつせず、そこで見たこと、聞いたことをなにも語らないことが、だれもの胸のなかのしこりになる」と鳥居民は書いた。帰還祝いに参加した大仏次郎も高見順も鹿屋のことが聞きたかったけれども、あちらの水交社では酒は無限にあり、すき焼きも伊勢えびも毎日あるといったことだけ話しているのである。川端は、今夜の遠くの月を眺めながら鹿屋を思っていたに違いない。何も話さないが心の中は、鹿屋のことでいっぱいになって、ここ一ヶ月間の鹿屋での日々を思い返していた。今日の鎌倉は月がきれいに見える。鹿屋では、こんな日は月明かりを利用した特攻隊が出発するのである。自分が帰るときにいた顔見知りの隊員たちの幾人かは、今日飛び立っていったかもしれないと考え、一人深い悲しみに包まれるのである。



六、「生命の樹」


鹿屋基地での経験をふまえて、敗戦の翌年七月に発表されたものが「生命の樹」である。冒頭に「あなたはどこにおいでなのでしょうか。」という文章をいれ住吉三部作の中にいれても、違和感のない作品でもある。特攻隊員で亡くなっていった植木と、彼を慕っていた啓子の話である。特攻の前の晩、美しい星を二人で眺める場面は印象的である。「植木さんは、確かに明日死ぬお方だったから、あの五月の星空はきっと不思議に美しくおみえになっていたのではなかったろうか。その植木さんのお傍だったから、私にもあやしい火が燃えたのだったろうか。明日死ぬお方だから、なにをなさってもいいと、私は思ったようなのに、植木さんは、明日死ぬ身だから、なにもしないと、お思いになったのだろうか。」 川端は「生命の樹」の中で若い男女の微妙な気持ち、妖しいきらめきを描き出している。鹿屋で今日生きていた若い隊員が明日には、もうこの世には存在しない日々を目の当たりにしてきた川端康成は、特攻隊員の死について「ほんとうは、あれは死というものではなかったようにも思う。ただ、行為の結果が死となるのであった。行為が同時に死なのであった。しかし、死は目的ではなかった。自殺とはちがっていた。植木さんたちは、死を望んでいらしたわけでも、死を知っていらしたわけでもなかった。」と書いた。



  七、戦後


鹿屋の経験を主たる作品にしたものは、「生命の樹」だけである

が、昭和二十一年の作品、「女の手」「感情の塔」「五拾銭銀貨」「再会」「過去」「さざん花」には、すべて戦争に関連した記載がある。「再会」にはこんな厳しい文章もある。「この戦争のように多くの兵員を遠隔の外地に置き去りにして後退し、そのまま見捨てて降伏した敗戦は、歴史に例はあるまい。」戦後、復員兵を見るたびに言いようのない悲痛に打たれたのである。また、終戦前後に親友を多くなくしており、戦争が友人の短命に影響していた。特に島木健作は敗戦直後の八月十七日になくなっている。戦争が終わってさあこれからという時代で、島木自身「これから仕事のやり直しだ」といったという。島木臨終の場面は八月十七日の高見順日記に記載があり、鎌倉文士(里見ク、久米正雄、中山義秀、小林秀雄ら)が、川端康成の提灯を先頭に、暗い坂道を病院から家まで担架に布団ごと島木健作の亡骸を自宅まではこぶのである。小さいころの身内の死、鹿屋の若い隊員たちの死、終戦前後の多くの友人の死をとおして、明日の命はわからない日々を自分も生きているという意識は常に川端にはつきまとっていたであろう。まさに戦前、戦中、戦後を通じて死を思わない日は一日もなかったのである。



最後に ― 文学は実学である


 詩人で評論家の荒川洋治は随筆集(「忘れられる過去」みすず書房 平成十三年)の中の「文学は実学である」という短いエッセイの中で次のように書いている。

「この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、本当の現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。」

と言い、田山花袋「田舎教師」などの作品を例示した上で、

 「なんでもいいが、こうした作品を知ることと、知らないことでは人生がまるでちがったものになる。それくらい激しい力が文学にはある。読む人の生活を一変させるのだ。文学は現実的なもの、強力な「実」の世界なのだ。」

荒川洋治は、文学の本当の意味についてこのようにいっている。

川端康成の文学の魅力は、簡素な文章で豊かな情景を映し出し、かつ読者にはっと、いろいろなことを思い起こさせ考えさせるところにあると思っている。川端作品を読む前と読んだ後では、いろんなものが違って見えてくる。その点からも「生命の樹」は、際立って魅力的な作品である。自分たちだけではどうすることもできない大きな歴史のうねりの中の若い二人の心の微妙な動き、自然の風景までもが戦争という状況で妖しさをおびてくるのを上手に表現している。戦争そのものにはあまりふれないことで、かえって戦争のもつ意味を開示しているようでもある。このことは、五月ニ十五日川端康成が鹿屋でのことを何も話さなかったということで、かえって日本の圧倒的に不利な状況を雄弁に物語っていたというところに通じており、川端文学全般にもこの特徴がある。

川端康成は、日本の敗戦が間違いないこと、自分の年の半分にも満たない鹿屋の若い隊員の命が日々消えていくこと、美しい日本の国土が日々荒廃していくことなど、戦争の時代を生きているのが哀しかったのであろう。鹿屋での戦争体験は、本人が意識するしないにかかわらず決して「忘れられる過去」にはならず、色濃く川端康成の戦後の人生に影響があった。多くの友人の死も重なり、川端康成の戦後はますます深い哀しみに包まれていくようである。




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