『群系』 (文芸誌)ホームページ
<33号・同人・読者による短評> 2014.8.3.設置
9月14日(日曜)の合評会の参考ともなる、投稿作品の同人相互の<短評>サイトです。 目次掲載順に掲出しています。
「群系」33号(2014年7月25日刊行!) 同人・読者の短評
《特集》昭和戦前・戦中の文学
昭和の哀傷と傷痕
ー小林秀雄・保田與重郎・伊東静雄・逸見猶吉にみる時代−永野 悟 19p
評 草原克芳
■小林秀雄、保田與重郎、伊東静雄、逸見猶吉――。いずれも詩人、もしくは詩人肌の批評家。詩人は「炭鉱のカナリア」であり、時代の動向や危機をいち早く読み取るといいます。ここに挙げられた四人は、時代の抒情の質を触覚的に感じ取った者たちであり、いわゆる「空気感」ぬきの概念的言説を弄した者ではない。
小林秀雄、保田與重郎、伊東静雄、逸見猶吉と並べると、「日本浪曼派+one」というイメージにも読み取れますね。「プラス・ワン」とは、逸見猶吉のことであります。この四人を並べるというアイディアで、昭和のある時期の心象風景が眺望できそうです。
*
■永野氏が最初に挙げている小林秀雄。彼のいう「故郷」とは、いったい何でしょうか。もとより文学者の故郷とは、単なる生まれた土地をさすものではなく、彼をしてより創造的に育んでくれる何らかの詩的伏流水を地中に蔵している場所でなければなりません。となると、故郷のない文学者の存在とは、明治以降の近代日本が、そのポエジーの源泉を失ったということでありましょうか。小林秀雄は批評家ですが、「牡の詩人」の異名もあり、出発点はボードレール、ランボーのフランス象徴詩であったわけですから、詩人の変種と見てもいいかも知れません。また基本的には、詩的直観を軸とした批評文を書く文士でもありました。
面白いのは、小林秀雄が芥川龍之介を批判した「美神と宿命」。いまだ自殺のショック冷めやらぬ昭和二年、芥川を批判すればするほど、この時期の小林の精神的トポスそのものが、彼のいう「人生とは彼の神経の函数」めいた孤独な峡谷ではなかったかと疑われることです。
そういえば二人とも、ボードレールの徒でありました。同じような暗い万華鏡的「自意識の球体」の棲息者でありました。したがって、この芥川論は、自らの「内なる芥川的なもの」への決別……とも、読めないこともない。
『蛸の自殺』『女とポンキン』など初期の小林が試作した「小説」は、物語的才能に恵まれた芥川以上に、自意識の苦い煮汁のように思われます。芥川の文章に散りばめられたレトリックや逆説は、まだしも明治・大正のダンディズムのういういしさがあって、素朴に共感できるところもありますが、昭和を生きる小林のそれは、何とも苦しい。昭和文学は、このような危機感、怖れ、閉塞性、「ぼんやりとした不安」からスタートした、ということでしょうか。
――本稿の論旨とはいささか逸れますが、その後、戦中戦後、小林秀雄は、はたして、日本の中世文学や古典の中に、近代的自我や自意識を超える「故郷」や「詩」を見い出せたのでしょうか。戦後の小林秀雄の「近代の超克」への解答の一つは、「無私の精神」でありました。しかし、自意識の隘路を脱したその後の小林の道程は、かつて正宗白鳥との論争で主張した言葉とは反して、「思想と実生活」を二元論的にわけて、戦争を横目でスルーすること、「思想」を取り下げて、カッコイイ江戸っ子的な啖呵を切ってみせること、そして、あまりお上に逆らわず小理屈もいわない「職人」を称揚すること、――そんなものでしかなかったのでしょうか。
だとするならば、小林秀雄が失ったと嘆いてみせる「故郷」とは、“宵越しの金と思想を持たない”江戸っ子の町人的エートス……といったものではないでしょうか。小林の故郷は、良くも悪くも日本人の気質の中に、まざまざと実在し続けているのかも知れない。
美の鑑定家、人生の達人、江戸っ子的リアリズムの小林秀雄としては、もう一人の小林の道……つまり、“思想がとうとう実生活を食ってしまった”小林多喜二のような分かり切った思想的玉砕を避けることこそ、時代の愚かさと暗い熱狂から疎開しサバイバルする唯一の聡明なる選択、といっているようにも思われます。
*
■二番目の保田與重郎は、なぜかある時期から、再評価とリバイバルの声が高いですね。それまでタブーだったことの反動でしょうか。しかしこの人のいう「イロニー」が、私にはさっぱりわかりません。「保田といえばイロニーの人」ということになっているらしいのだけれども。
どうも彼の預言者ぶった文体、カリスマを偽装したナルシスティックな文章を見てみると、単なる「負けるが勝ち」、クマが来ると仮死状態になって死んだふりをしたり、特殊なフェロモンで腐敗臭を漂わせたりしてクマが去った後でむっくりと起き上がるような森の小動物の擬態を感じて落ち着きません。しかもその戦略のおかげか、戦後もこのヒト、ずいぶん長生きいたしましたね。
これほど通常の意味でいうイロニーからはほど遠い文章を書き連らね、日本の伝統美をダシにしながら、「滅びの美」と、川辺に向かうレミング的なタナトスを無責任に歌い上げてきたエッセイストの、一体どこが、ロマンティシュ・イロニーなのでしょう。むしろ無責任な雰囲気的ニヒリズムの抒情詩人であることこそが、彼の本質なのではないとか邪推します。
これではヘルダーリンやノヴァーリスが、浮かばれません。
「てにをは」すらどうなっているのかわからない朦朧体を駆使する抒情家の保田の美学が、あれでもしイロニーというなら、戦中戦後の花田清輝や、太宰治や、武田泰淳、あるいはトーマス・マンの気質を、いったい何といえばよいのでしょう。
もし絶望を歌うならば、太宰や花田の「笑いの芸」が必要です。じりじりと後退し、生き恥をさらしつつも、権力をねばり強く相対化し続ける武田泰淳の重戦車の如き戦術が必要です。偉大なるイロニーの書『魔の山』の作者トーマス・マンの卓抜なユーモアと、濃厚遠大なる哲学が必要です。
集団の言説がいつのまにかモノローグ化(М・バフチン用語)していく無意識的リビドーの肥大を、異化・相対化す知的意志こそ、先鋭なる刃物としてのイロニーでしょう。保田の存在じたいが、道化的イロニーというのならば、それはそれで、よくわかりますけど。
確かに保田は一種のシャーマンなのかも知れません。シャーマンは、イロニーを云々してはいけません。そもそも、ちっとも、似合わないのだから。
イロニーを弄するのは、巫女の脇にいて、いま憑依しているのは、神なのか悪霊なのかを、慎重に吟味する「審神(さにわ)」でなくてはなりません。時代のデーモン、悪霊化した権力は、エクソシストの放つ聖水に――つまりイロニーに――くしゃみして退散するかも知れません。逆に、エクソシストそのものが悪霊に憑依され、窓から墜死するかも知れません。これは誰にもわからないことです。
筆者の四人並列の試みは大変興味深いのですが、この辺のところも、できればもう少し突っ込んでいただきたかったように思います。
*
■伊東静雄となると、がらりと印象が変わってきます。同じ「日本浪曼派」に属する文学者であり、むしろ伊東は保田に見い出された詩人といってもいいのかも知れません。むろん、萩原朔太郎が決定的お墨付きを与えたわけです。
ただ、戦争に向かう姿勢は、保田などよりはるかに真摯であり、その抒情の純度は、高いものがあると思われます。
こうなってくると、戦争責任うんぬんというのは、逆にナンセンスに思えてしまうから不思議なものです。読者とは、身勝手なものです。
伊東静雄の詩の中には、ギリシャ・ローマの詩人達が、戦いにおける英雄や美女を謳ったように、万葉歌人や、平家物語の琵琶法師が、戦乱の無常を「文学」の中に残したように、戦いの粉塵の中空に漂う虚無や悲しみが、儚くも美しく表象化されています。
美はいつのまにやら、倫理の査定基準をすりぬけてしまいます。もし、詩人や文学者に、それだけの言葉の魔術があれば……ではありますが。
これは、どのような善悪の行為も、通り過ぎてしまえば「思い出」として昇華され、イマージュの世界の論理で、美的に再検証されざるをえないからです。偽カリスマの保田にはそれはなく、伊東には言葉の力があったということでしょうか。あるいは、保田の「もののあはれ」とは、過去の他人事を言葉の世界で再演したナルシスティックな擬態であり、伊東のそれは、実際に詩人が進行形として愚直に体験した民族の悲劇の詩的な証言だった……ということでしょうか。ここに引用されている詩だけでも、美的にそれを実証します。
伊東は朔太郎のような大詩人ではないのかも知れませんが、戦争をすら「永遠の相」のもとに見た詩人ではあるようです。
こうして見ると、保田與重郎と伊東静雄、日本浪曼派内部の二人のコントラストとは、呪術師と詩人との差異のように思われます。
*
■もっとも分量が割いてあるのが、ラストの逸見猶吉。「日本浪曼派+one」の最後を飾るこの論で、筆者は尾崎寿一郎著『詩人逸見猶吉』を引きながら、時代や出生の背景から、逸見の詩を読み解いていきます。
満州で38歳で客死したこの特異な詩人については、本誌周辺では、安宅夏夫氏の論考に触発されて以来、さまざまに言及されてきました。こうしてみると、サブタイトルに挙げられた四人の中でも、格別にユニークな詩的感性を持っていると思われます。何よりも詩そのものが硬質な“抒情ならぬ抒情”を宿していること、逸見猶吉的としかいいえない言語的磁場を持っていること、そしてこの詩的空間と、戦争という時代背景はどのように相互関連しているのかが、大変興味深いところです。
また、日本的な詩情のコンテキストから外れた逸見の「傷痕」「近代の傷痕」は、この論に挙げられた三人の詩人・批評家すべてを、ラストでひっくり返した陰画のように見えてくるから不思議です。
ウルトラマリンとは、「瑠璃」とありますから、いまでいうラピスラズリのことなのでしょうか。しかしその「青」は、決して大らかなる蒼穹の楽天性に向かうものではなくて、北方の深層海流の闇へと向かう、身を凍らせるような戦慄すべきアクアマリンのようです。この詩のカタカナ表記は、朔太郎『氷島』を連想させますが、「氷の歯を持ったテロリスト」は、朔太郎のような書斎派ではなく、より社会や時代に対して、そして何よりも自己そのものに対して、何らかの破壊力あるデスペレートを抱えて大陸をうろついていたアナーキストの風貌をもっています。
鉱物・氷原・凍土・海水・枯枝・咆哮。「血ヲナガス北方 ココイラ グングン 密度ノ深くナル北方」とは、安逸で幸福なる生への拒絶でしょうか。幾時代か続いた「茶色い戦争」(中原中也)への嘲笑でしょうか。
彼は満州に渡り、大陸浪人のように彷徨し、あえて獣性の深みに淪落して、秩序の破壊をもくろむ美的アナーキストの風貌を持っています。かの谷中村出身、しかもその村を仕切ったボスの家柄で、ふるさとを古河財閥と明治国家に売り渡し、足尾鉱毒事件に加担した大野家の「青い血」。
〜ここで最初の小林秀雄の「故郷を失った文学」のモチーフと、本稿は見事に円環的に結びつきます。
その呪われた血を、自らの心臓と血管に感じざるをえなかった「逸見猶吉=大野四郎」の自己処罰的告白の書が、この『ウルトラマリン』なのでしょうか。
となると、詩の冒頭に掲げられた「ソノ時 外套ハ枝ニ吊ラレテアツタカ」の句は、逸見みずからの縊死体のめくるめく幻覚だったのかも知れません。
逸見猶吉については、いまだ研究者も、批評も少ないようですが、「もう一つの昭和の詩塊=傷痕」が、この詩人には隠されていそうです。
(8.31.改訂版 草原克芳)
「近代の超克」試論 ―不可視のジグゾーパズル― 草原克芳 29p
評(1) 鎌田良知
原著を読んでみた。退屈である。これが当時の『知的協力会議』の中身なのだろうか。がっかりする。もしかすると、がっかりこそが鍵ではないかと思いいたる。
当時の戦争の結末を私たちは知っている。戦後の変化も知っている。意識することなく後世から眺めていることに気付く。それはさておき、論文にせよ、座談会にせよ、
陳腐な精神論の羅列にしか感じられないのはなぜだろうか。
著者は『自我論』等を手掛かりにしながら論考を進め、『大正教養主義の最後の晩餐』ではなかったか、と提起する。現代的な息吹を失った大正的な知的営みの『最
後の晩餐』、この視点を得ると、大正教養主義の広がりと『近代の超克』への道筋が見えてくるのかもしれない。手がかりは『漱石・大拙・幾多郎の三連星』になるのかも
しれないが、そうではないのかもしれない。
ここでの『自我』は、日常用語の自我でも心理学用語の自我でもない。『近代』の機能のひとつではあろうが、違う広がりを持っている。(鎌田良知)
評(2) 大堀敏靖
まずサブタイトルにある「ジグゾーバズル」についてですが、jigsaw=糸鋸 でsaw(see=見えるの過去形ではなく)ノコギリですから「ゾー」とは濁らず「ソー」と片仮名で表記すべきだと思います。「ジグソーバズル」。
それからP45下段に晩年の「則天去私」を唱えた頃の漱石の比喩的描写「胃壁をボロボロにした漱石が、もう一度、天空の風に心地よく顔面をさらした」や次頁上段、東洋の精神主義が西洋の近代科学に敗れる例えで「それはぞろりとした袴をつけた未熟な武術家が、筋骨隆々たるヘビー級ボクサーに滅多打ちにされ、ついには血反吐をはき散らしながらダウンされるような」は、絵的にどうも全体の流麗な文体にそぐわないような気が致しました。これでは掲示板投稿の延長になってしまいますから、変に読者にサーヴィスするのではなく、庶民、大衆、低級な読者など蹴落とすようなつもりで孤高の頂点に立って論を展開して頂きたく思います。
「思想的には無内容」と断じつつ、しかし、不思議な「シンボル作用」があると竹内好が言うように、読者を引きつける力がある「近代の超克」座談会を自我、精神の問題がその真髄と喝破されて、夏目漱石、鈴木大拙、西田幾多郎の3人の影響をその背後に見るという独自な視点で、本質に迫ろうとされています。
自我の問題は確かに顕に幽に論じられていたでしょうが、共通しているのは真珠湾攻撃に「知的戦慄」を受けた人々の集まりで、西洋の物質文明と東洋の精神文明の衝突、それから民族と国家という問題、機械文明の受容の問題があったでしょうから、その不思議な魅力が「自我」に集約されるというのは少しムリがあると思われます。
実際、大東亜戦争開戦のときは、ちょうど赤穂浪士が討ち入りを果たしたときのような民族の血を根底から沸き立たせ、人々を「戦慄」させるものがあったことは、文学者、知識人の当時の日記を読んでも伝わってきます。自我を越えた何か、戦後の我々が見えなくなっている何かを見て、日本が世界文明に果たすべき役割のようなスケールで、魂が拡大するような感覚で議論していたのではないかとわたしは考えます。
しかし、筆者に同感するのはP38下段の「《自我−超自我》の問題は、今日なお、新鮮ではあるまいか。逆に言えば、何一つ『近代の超克』に対する答えが出されているわけではないまま、いまやポストモダンという『いつのまにか超克されたかのように見える近代』で迷子になっているというのが、われわれの現在の姿ではないのか。しかも、世界を展望して一元管理、その支配を隅々まで貫徹させるグローバリズムとは、ポストモダンどころか、究極の『近代』の完成であろう」という時代認識をされている箇所です。わたしもグローバリズムこそ日本民族が今後「敵」として戦っていかなければならない対象なのだと最近はっきり認識致しました。
歴史的に見ても漢字、仏教、耶蘇教、黒船、敗戦というグローバリズムの波が押し寄せてきたのを、先人たちは果敢に戦って日本風に解決してきました。現今では新自由主義、TPPなど津波よりも恐るべき見えざる災禍がひたひたと押し寄せて日本を侵食しようとおります。
これに抗えるのはもはやプーチンのロシアと日本だけかもしれません。
何をもって戦うかは、筆者とは見解が分かれてしまうことは、「天皇と戦争ファシズム」という言葉が直後に出てくることやp49「何故に、最終的には天皇制イデオロギーへと回収されてしまったのか、…この国では、〈天皇〉という民族的大我の一点に吸収されてしまう」と首を捻られていることから明らかなのは残念なことです。
同頁下段では、戦後「僕は無智だから反省なぞしない」と言った小林秀雄を「風土病」というように病人扱いされていますが、見事に変節してしまった知識たちよりも、公職追放になってもがんばった人々をむしろ「健全」と思うわたしとしては、天皇が理解できず、国家の意識も薄い戦後のマスコミ、学界、教育界の多くの人々こそ、占領軍の思想弾圧にいまだに拘束されている病的状況なのだと考えます。
「たかが戦争の抑止程度のこと」と恐るべきことを同頁に書かれていますが、筆者が仮に昭和17年にタイムスリップして身体を張って戦争を止めようとしてもあのような世界史の流れを止めることはできたでしょうか。P50「国内外の財閥等に主導された国家同士の利害戦を『聖戦』に変えたのが、彼らの時局哲学の自己欺瞞である」と書かれていますが、白人による世界支配を打ち砕くという世界史の必然的流れの中で大東亜戦争を捉えるならば、「利害戦」というのは一面的な見方ではないでしょうか。
これ以上書きますと「短評」ではなくなりますから、また掲示板でお相手していただきたいと思います。
それにしても、さすが草原さん、一流のシェフが在り合わせの食材(こういっては13人に失礼ですが)を手際よく調理して逸品を完成させてゆく過程を見るような心地よさを、拝読しつつ感じました。お見事です。 (9.4.大堀敏靖)
小林秀雄の歴史像 ―戦前の評論を中心に 大堀敏靖 10p
評 永野悟
新潮社版の前の全集(『新訂 小林秀雄全集』全十三巻・別巻2 昭和五〇年代刊行)の第七巻は『歴史と文学』のタイトルで、その中に「歴史と文学」(24p分)が載っている。小林にとって、このテーマは「ランボー」や「ドストエフスキイ」と並ぶ重要な関心事だったようだ(実際、その論文冒頭に、「いつの時代にもその時代の思想界を席巻し、多かれ少なかれ偶像視されている言葉がある」として、かつては「神」「仏」、徳川時代には「天」があったし、フランス18世紀には「理性」という言葉があったと紹介している。さしずめ、日華事変がこう着状態になっていたこの頃(昭和一六年三月)では、「歴史」が抜き差しならぬ言葉だったのだろう)。
のっけから、時代における関心事まで言及しているわけだが、実際世紀の分かれ目であった、先の大戦中には(直後の「大東亜戦争」を含む)には、「歴史」という語が、小林ならずともアタマをかすめたことであろう(翌十七年の「近代の超克」がその例)。
問題は、小林がどうそれを捉えていたか、ということだが、これには筆者も引用しているように、有名な文がある。
「歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金が、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果のようなものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史事実に対し、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかなことでしょう。母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起ったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけがえのない命が、取り返しがつかず失われてしまったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。」―
よく引用される箇所だが、ここには少し前にこの国の社会を席巻したマルクス主義史観(唯物史観)、あるいはその後の皇国史観などに対する反発と批判が見てとれる。そこには、歴史に必須の「人間」(「感情」)という視点が抜けているというのだ。
さらに続けて、少し後の箇所でも(唯物史観などでいう)「歴史の必然」について反論し、「運命」という言葉について、次のように説いている。
「死なしたくない子供に死なれたからこそ、母親の心に子供の死の必然な事がこたえるものではないですか。僕等の望む自由や偶然が、打ち砕かれる処に、そこの処だけに、僕等は歴史の必然を経験するのである。僕等が抵抗するから、歴史の必然は現れる。僕等は抵抗を決して止めない。だから歴史は必然たることを止めないのであります。これは、頭脳が編み出した因果関係というようなものには何の関係もないものであって、この経験は、誰の日常生活にも親しく、誰の胸にもある素朴な歴史感情を作っている。若しそうでなければ、僕等は、運命という意味深長な言葉を発明した筈がないのであります。」
筆者は、例としてこの四月に起った韓国旅客船(セウォル号)の転覆事故をあげる。「身も世もなく泣き叫ぶ、遭難した高校生の母親たちの姿を見ても、その悲しみを捨象して、事故原因の究明だけでその出来事全体を片付けてしまうことが歴史であろうか」と。こんなことはよくあることだろうが、今日それはマスメディアの責任もおおいに与ってあることだろう。
また、小林の「例えば明治維新の歴史は、普通の人間なら涙なくして読む事は決してできないものだ」についても、筆者は、実際は「幕末維新を勉強しても涙の一粒も流れないばかりか、複雑な諸藩や諸勢力の動きが理解できず、難しい語句を覚えるのが苦痛で、まったくイメージもつかめな」かった、という。いわば冒頭にあるような、「天寿国曼荼羅刺繍帳」や「讒謗律」の漢字を書けることがまず受験の歴史だったと披瀝する。(ま、受験だからそんなものであろうが、後の人生でどれほどの人が、ほんとうの「歴史」に、<推参>できるか、だろう。
「歴史は思い出」という小林の言葉に筆者は引っかかっているようだが(個人的な思い出ならともかく、自分の生まれていない過去なら、記憶はないはず)。だが先の母親の例をみればわかるように、「子供は思い出」なのである。筆者はそのことを「私の人生観」(新訂全集 第九巻)から引いているが、この論稿に即してその直前の部分もひいてみれば、彼我の対照がわかりやすくなろう。
「何故、歴史家というものは、私達が現に生きる生き方で古人とともに生きてみようとしないか。・・・歴史の見方が発達してきますと、過去の時間を知的に再構成するという事に頭を奪われ、言わば時間そのものを見失うといったようなことになり勝ちなのである。」
この直後に筆者も引用する箇所が続く。
「私達が、少年の日の愉しい思い出に耽るとき、少年の日の希望は蘇り、私たちは未来を目指して生きる。老人は思い出に生きるという。だが、彼が過去に賭けているものは、彼の余命という未来である。かくの如きが、時間というものの不思議であります。・・・」
要するに、小林秀雄の「歴史」への見方は、人間の生き方にそった、いわば実存的なものといえよう。それが、「科学的」な歴史観を作ろうとする、歴史学者と対立することであろう。
小林のいっていることは、人生・文学の立場からすればごく自然で当たり前のことである。が今日の諸科学や流行、マスコミ、その他いろいろな立場からくる、目を曇らせるものがある、とそのことをいったまでだ。
筆者は、口語的な・日常経験的な言葉でもって、よくこの小林の歴史をとらえている。
<参考> 文学者と歴史家との「論争」といったものには、「昭和史論争」というものがあった。この場合の文学者は亀井勝一郎だったが、小林と同様な立場であった。相手は、歴史学研究会(唯物史観)の学者だった。「昭和史論争」で検索するお、ウィキぺディアに簡潔な解説がある。 (9月13日 永野悟)
和辻哲郎の「文化的創造に携わる者の立場」を読む 野寄 勉 2p
地動海鳴(連載4) ―私の近代とその超克― 長野克彦 4p
評 白川正芳
「群系23号は「昭和戦前・戦中の文学」を特集。激動の時代を分析。長野克彦「地動海鳴(連載4)−私の近代とその超克― 」は、「近代の超克」を論じるのに「購買力平価」を持ち込む。経済の専門的な視点を文学史の研究の中に持ち込むのは斬新でいい。
私の研究テーマの一つは、何故、日本は奇跡的な戦後復興をなしとげることができたかというものだ。さまざまな分析があるが、ある経済評論家が、経済政策では銀行が土地を担保に金を貸し信用を創造した、というのを大きな理由の一つにあげていたのを記憶している。あまり論じてこられなかったが、為替の問題もあったにちがいない。(「読書人」誌 2014年9月5日号・《文芸同人誌評》白川正芳
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細田源吉のこと 大和田茂
評 永野悟
細田民樹(1892-1972)の名ならかろうじて知っていた。が、細田源吉(1891-1974)は今回初めて聞いた名だった。名前どころか生没年も似通っているし、同じく早大英文科を卒業、ともにプロレタリア作家に一時なったし、小説以外に英文科卒なのにドストエフスキーなどロシア文学の翻訳もやっているのも共通している。でも二人ともネットの青空文庫にその作品が掲出されていないことでいえば、「忘れられた作家」の例になろう。あえていえば、その無名性でいえば、源吉のほうが上回っているだろうか。
こうした作家を取り上げるのはさすがやはりそうした傾向の作家たちの研究者ならではのことであろう(筆者は社会文学会の理事)。
ほとんど無名でも、まったく研究者がいないのでは取りすがる術がない。しかし細田源吉ゆかりの埼玉川越の郷土史家・山田泰男(故人)という人が基本的な作業をなしていたという(『川越出身の作家 細田源吉』)。評伝作者というのは実に貴重であると思う。
細田源吉は、養家を出て日本橋の繊維問屋の丁稚になったという。毎日重い反物を担ぐ辛さは、同じく書店の丁稚になった田山花袋もその苦労を語っている(『東京の三十年』など)。
源吉の小説には、こうした体験から自叙伝風のものもあるという(作品集『はたち前』1924年など)。また、女性にとって厳しい時代にあって、彼女らの立場にたった作品も多いという。「死を恃む女」(1919年初出)、長編『罪に立つ』(1922年)などは標題からもうかがわれるように、ぎりぎりの生を描いた。基本的に「社会の底辺、片隅で生き埋もれていく人々の生態」を描いたという。
しかし、ここで思うのはこうした環境と素材で描いた源吉のような作家がなぜ、今日無名≠ネのか、ということだ。例えば苦学して丁稚奉公をした作家なら山本有三がいるが、その作品「路傍の石」は何度も映画化されているし、本人は戦後にいたるまで比較的恵まれた境遇にあった。また、先の花袋も出身は恵まれていなくとも、時流に遭い、「自然主義」の大作家として、名前も地位も得た。
またこの細田源吉は、文芸雑誌も自ら主宰、薄いが一線の作家を網羅した雑誌を8号まで出しているという。こういう出版経験のある作家の例ではわれわれは、先に国木田独歩のことを知っている(『近事画報』。日露開戦後は『戦時画報』と改題)。出版業は最後はうまくいかなかったし、晩年も不遇だったが、国木田独歩の名前は燦然と文学史に残っている。
又社会の底辺を描いた作家なら、『最暗黒の東京』(1893年)の松原岩五郎や、『日本之下層社会』(1899年)の横山源之助を知っている。彼らが当時流行の小説よりも、あえてルポルタージュという手法を選んだことも(文学の栄誉よりも民衆の実態に身を寄せた)。
「無名の作家」はいわば処女地である。作品論という、功利からだけではない。貧困とはどういうことか、人間の生とは何か、など。
貧困率が世界20何位とかいわれる、21世紀のわが国である。先人がいかにこれらを描いたのかは、人間的興味であろう。 (9月13日 永野悟)
鶴彬・槇村浩・尹東柱 ―治安維持法で消された詩人たち 安宅夏夫 19p
評 ある漱石研究者からのお手紙より
拝啓 玉稿掲載の「群系」を七月二八日に受領したものの、「漱石の恋人」研究に没頭していて、一読することができずにおりました。ようやく論文にまとめられる目途がついた本日、玉稿「鶴彬・槇村浩・尹東柱(ユン・ドンジュ)―治安維持法で消された詩人たち」を拝読することができました。よく調べており、非命にして倒れた三人の詩人の無念を刻んだ力作であると感服いたしました。この三人の名前は勿論知っていましたが、お恥ずかしいことに作品に接した機会がなかったのです。おかげさまで多くを学ぶことができました。有難うございます。
ところで、「漱石の恋人」研究ですが、「鴎外の恋人」研究の手法を用いて、漱石の俳句と詩を資料にすることで、<恋人某女>の実像に迫ってみたのです。その結果、漱石が生涯思慕しつづけた<恋人某女>は宮井一郎氏が主張する<柳橋の芸者>説が正解であると考えるのですが、どうやら田舎から出てきた女性のようです。その出身地は栃木県の大田原市奥州街道大田原宿の手前あたりの豪農の出であると推定するにいたりました。きっかけは明治二九年三月二四日付子規へ送りたる句稿十四のなかの第十句「奈古寺や七重山吹八重桜」の発見なのです。この句が何故重要なのか説明しなければなりません。後ほどお送りします。とりあえず、13ページのプリントをお送りいたします。詩歌読解に優れた安宅さんなので、ご批判いただけるかと期待いたします。 敬具
(安宅夏夫氏への私信・お名前割愛)
評2 草原克芳
■すでに安宅夏夫氏が発表されている反戦川柳人「鶴彬論」の後編として読むべきでしょうか。しかし、タイトルに再度「鶴彬」を入れてあるのは、この若くして亡くなった三人の詩人が、時代のひとつの象徴的群像として読まれることとを筆者が願っているということでしょう。いずれも20代で亡くなった夭折の詩人。最も若い槙村浩は26歳。いま「夭折」とあえて書きましたが、通常の病弱ゆえの夭折ではなく、獄中死、拷問死、人体実験死ですから、言葉の使い方が間違っているかも知れません。
この文章は、しかし読み進めていくに従い、心に痛みを感じるような内容です。詩人達に起こった「事実」を並べることで、戦前の特高刑事や治安維持法といった存在が、どのようなものであったかを具体的に伝えてくれます。安宅氏はこの論考において、戦前の日本の軍国化をそのまま直接糾弾する手法をとらず、詩人一人ひとりの「声なき声」を再現することによって、いわば“代理告発”しているようです。
■鶴彬の川柳における今日性や文明批評性もさることながら、高知生まれの槇村浩、そして抗日運動の地・間島(カンド)出身の尹東柱の不思議な因縁めいた関係も、大変興味深いものがあります。槇村浩は「大日本帝国」に生まれながらも、併合された朝鮮半島の貧者・弱者への想像力を働かせて叙事詩『間島パルチザンの詩』を19歳で書いた。
一方、尹東柱は、まさに槇村が物語詩のロケーションとしたその間島に生まれ、キリスト教徒として短い生をいき、非政治的な詩『空と風と星と詩』を綴った。この時代、星や風を歌うには、どれほどの精神の強靭さを必要としたかを思えば、尹東柱のこの哀切な抒情詩を、星菫派……といって笑ってしまうことはできません。
ともすれば、憎悪、暴力、怒号、熱狂などに走りがちな「鉄の時代」。引用はわずかですが、その暗いエモーションを超えた高い志向性を堅持して、はじめて表出できるようなアンジェリックな輝きを帯びた静謐なイマージュが予感されます。
とはいうものの、ここに掲載されている尹東柱の詩を読んでも、一体どこが官憲から見て問題だったのかがよくわかりません。つまり、戦前の日本の法律、“思想を裁く”治安維持法は、人間が己の魂を歌うこと自体を踏みにじったということでしょう。魂を歌う権利に、日本民族と朝鮮民族の区別はないはずです。
■筆者安宅氏の義憤を押し殺したような筆致に乗せられながら、この重い論考を読み進めていくと、最後にわずかながらも救いがあります。それは、李成轍氏(リー先生)の挨拶のくだりです。
日中交流会の主賓でのスピーチで、植村浩への感謝を述べるところ。これは評者などがここに一部引用するよりも、もう一度、安宅氏の論考で「肉声」の全文を確認して、じっくりと味わっていただいた方がよいでしょう。日本の19歳の詩人のフィクションが、これほど隣国の朝鮮民族の琴線にふれるリアリティを持ちえたというのは、驚きでもあります。
■しかし一方で安宅氏は、若くして亡くなった三詩人を哀悼するだけではありません。
彼らの受難と葛藤を語りながら、さりげなく「進歩派から守旧派」へとカメレオンのように変貌した社会学者・清水幾多郎の詭弁についてもふれています。清水は、進歩的文化人の代表としても知られた人物。『戦後を疑う』は読んでいないのですが、官憲・特高の行為がこの論の通りならば、「詭弁」という言い方はむしろ優しすぎるのであって、「嘘」「欺瞞」というべきでしょう。また「註」では、尹東柱を拷問死させた京都下賀茂署の元巡査部長(後に特高に出世)の興梠定のその後についても報告されています。
こうしてみると、三人の詩人を前景に立たせながらも、遠景として権力の暴走を睨み据えたこの論考の意外に立体的なパースペクティブが浮かび上がってきます。
〜それにしても、わが日本民族は、いつから、弱者や貧者、虐げられた者へのきわめて当り前の人間的感情移入能力を、「左翼」だの、「サヨ」だの、「反日」だの、手垢にまみれたバカな言葉で糾弾するようになったのでしょうか。(9月13日 草原克芳)
徳永直「太陽のない街」の時代 取井 一 2p
評 間島康子
2頁の中に、小説『太陽のない街』のあらすじ、作品が生まれた時代背景、作品解説などがコンパクトにまとめられている。
作者が実体験した共同印刷の争議を題材にした小説であるが(私は読んでいないのだが)、その舞台である町について、取井さんはご自分の記憶を引いて、「やはり貧富の上下は、物理的にも上下なのである。どんなに人類全体が豊かさに恵まれても、資本の論理はその本質を変えることはないだろう。それが過酷であるか穏やかであるかという時代の流れがあるだけである」、と書かれているのは、確かにその通りだと思う。
最後に氏は興味を持ったところとして、最初の章の「P婦人部会」を挙げている。あの時代に婦人問題が、と思われたようだ。この部分に限らず、コンパクトに書かれているそれぞれについて、もっと深入りして書いたならば、より読み応えのあるものであったと思う。それを読んでみたいと思わされた。(9月11日 間島康子)
○
高村光太郎 ―のっぽの奴は黙っている 間島康子 10p
評 市原礼子
前号に引き続いての、高村光太郎という巨きな人の実像に迫ろうという試みが、今号は智恵子亡き後の生活、戦中、戦後の詩作品とそれに対する世間の評価、つき合いのあった身内、文学者から見た人物評と、多くの角度からなされていて、興味深く読みました。
なぜ、戦争詩を書くことになったのか。敗戦後に文学者の戦争責任を追究されるようになり、「暗愚小伝」で答えはしたものの、光太郎の本当の心の中を知ることはできない。
私は最近、会田綱雄の『人物詩』(筑摩書房)を読み、戦争協力詩が書かれて、世に出る過程での詩人の葛藤、後悔の思いを知った。会田は『萩原朔太郎 −全集のことなど』という文章の中で、朔太郎が丸山薫に宛てた手紙を紹介している。朔太郎は「朝日新聞の津村氏に電話で強制的にたのまれ、気が弱くて断り切れず、たうたう大へんな物を引き受けてしまった。南京陥落の詩といふわけです。一夜寝床で考、翌朝速達で送ったが、予想以上に早く陥落したので、新聞に間に合わなかったかもわからない。とにかくこんな無良心の仕事をしたのは、僕としては生れて始めての事。西条八十の仲間になったようで慚悔の至りに耐えない。」と述べて悔やんでいる。
光太郎は案外断り切れずに、求められるままに、道を説く詩人として、明るい戦争を書いたのかもしれない、とふと思った。が、わたしは光太郎の戦争詩を読んでいないので、これは私の思い違いかもしれない。
黙っている巨人光太郎の、心の空洞、智恵子亡き後の心の空洞。まさに「山麓の二人」に書かれていたように、「わたしの心はこの時二つに裂けて脱落し」ていたのかもしれない。(9/3 市原礼子)
「僕には是非とも詩が要るのだ」
―山之口貘・沖縄とともに生きた稀有な魂― 市原礼子 8p
伊藤桂一 入営前の投稿詩群 ―『日本詩壇』掲載の四篇― 野寄 勉 6p
○
正宗白鳥−人間通の文学 澤田繁晴 6p
評 荻野央
澤田氏の批評は独特の趣がある。『炎舞』がそうだったし新作『眼の人々』もそうだ。作家作品を論じながら作者の自分史を伴奏とする手法が、取りあげた作家に読者を馴染み寄せ、読者は作家論を読みながら実は澤田氏のことを読んでいるという仕儀に陥る。その方向で今回の正宗白鳥の論をどういう風に立てるのかが興味深かったし、結果としてわたしは満足した。わたしは、相変わらず澤田氏の論述にまんまと乗せられて、白鳥の神髄のようなものに、あらためて開眼されたと言うところである。
わたしが正宗白鳥を初めて読んだのは退職する直前あたりで、名前は文学史などで見かけていて通り過ぎていた作家の一人だった。何かのきっかけで思い立ち、筑摩の全集を一冊買いこんで読んでもみたが、特段にインパクトを感じなかった。しかし、この論考に登場する小林秀雄が言うように「批評家」としての白鳥は読んでみてとてもいい。歯に衣を着せず大胆に言ってのけるその磊落な人物と文章の雰囲気が今でも新鮮だ。今の批評家にはない(かもしれない)文壇諸家との仲良し連合は関係ないよ、というスタイルと気構えは狎れあいの「同舟」を拒むものだろう。
小林秀雄と戦わされた「思想と実生活」論争の澤田氏の梗概はかなり興味深い。トルストイの思想と妻のヒステリィの因果関係をめぐる両氏の議論が紹介されるのだが、この場面でも澤田氏は自己の見解をきちんと展開する。
生活に拠点の無い思想は無意味であり机上の観念以上のものではない(小林)とする見解は、いっぽうトルストイの家出の理由が「抽象的思想」(小林)にあることにより「意味ない空言」になろうと白鳥は「否」を呈した。その点について澤田氏は「人間の二つの局面の対立」にほかならぬ、と評する。勢いのある若い批評家に超然と「だめなものはだめ」と言う古老は矍鑠として泰然として対峙しているのを見るに、作者の評言がすぱりと決まるのである。
作者の批評の在り方はまさにディアレクティケー。対話の相手は「弁証法的に」高みを狙うべき読者のことにほかならず、「…ではないだろうか」「わたしはこう思うのだが」と氏の筆致にひきずられて、わたしは「眼の人々」を読み、それまで関心の無かった竹久夢二に、知らぬ間に興味を持ってしまったという次第である。わたしは一人の芸術家を識る、と階梯を昇ったのだ。資料引見と分析や書誌作成の批評がある一方で、このような読み手を巻き込む批評に魅力を覚える。 2014.8.6/荻野央
評2 名和哲夫
「群系」の短評を書くということは読んだ事がない作家に触れる機会を作る事でもある。正宗白鳥については、名前だけでほとんど知らなかった。この機会にといくつか読んでみると論理の展開も文章も丁寧で理解しやすい。
批評(学会誌などで書かれる論文と考えれば分かりやすい)と評論の違いは、批評が論証重視で書かれるのに対して、評論はそれ自体が文学作品であってそれ自体でも完結するようなものであると言うのが自分の意見であるが、澤田氏の評論はそういった意味で完成されたものであると思う。
最初の正宗白鳥がいう「明治文学は文学の余技といった感じがしないこともない」に驚かされる。続いて白鳥と小林秀雄の「思想と実生活」論争が紹介されているが、小林が負けている(屁理屈をこねている)感じが読んでいて面白かった。
最後、「時代の息吹を敏感にとらえることに秀でた白鳥のジャーナリストの目に納得させられることであろう」とあるが、白鳥の分かりやすい文章はジャーナリストであるがゆえのものであろうかとも思った。(9月12日 名和哲夫)
志賀直哉と小林多喜二 ―私小説の視点からー 名和哲夫 4
評土倉ヒロ子
一見、対極にあるかに見える志賀直哉と小林多喜二の関係が本稿で明らかになる。
先ず、名和氏は冒頭で「小林多喜二は真面目で真摯であった。だからこそ志賀直哉に親愛の情を抱かせたのである」と述べている。この小林多喜二の人間性に親しみを覚えた志賀直哉は、彼の仕事を注目していたのだろう。
発端
1小林多喜二から志賀直哉への手紙
『私が如きものが読後感を書くなんて、僭越の限りですが、貴方の作品の最も熱心な読者の一人の言葉として、お聞き流しください。』(大正13年1月)
この年、多喜二は21歳、志賀は41歳になる。多喜二は小樽高商時代から短編小説などを投稿して
いたが、まだ無名の文学青年にすぎない多喜二が志賀直哉の作品に感動を覚えて手紙をだす。この文
面からは返事などは期待せずに、この敬愛の念だけが書かれていることがわかる。
2、志賀からの返事
「手紙大変遅れました。君の小説、「オルグ」「蟹工船」最近の小品、「三・一・五」と順で拝見しました。(昭和6年8月)
この志賀の返事はたしかに遅かったが、文学の先達である志賀と多喜二の幸運な出会いであろう。
多喜二虐殺の二年前であった。
3、志賀の多喜二作品評。
「オルグ」は感心しない。「「蟹工船」が中で一番念入って書けていると思い、描写の生生きと新しい点 関心しました。」この返事の要点は「小説が主人持ちである点好みません」という指摘だろう。
これは、「プロレタリア文学」における最大の課題であろう。
すでに、「蟹工船」は昭和4年に『戦旗』(4、5月)に発表。プロレタリア文学の旗手として注目されている。
名和氏は多喜二の文学的出発を志賀文学への傾倒。やがて、志賀からの脱出を手紙、日記、現在までの作品論などを提示しながら論証している。
多喜二の習作時代における志賀作品の模倣。これは文章修業の正攻法ではなかろうか。いわゆるリアリズム文学における表現、描写などを学ぶために。しかし、書いているうちに、志賀の模倣からぬけださなければと、思いはじめる。
「俺は志賀以上、ストリンド以上、ドスト以上になろうと思う。」(昭和元年10月の日記・23歳)
この文学への自負。小林多喜二の作品からは、このひたむきな熱情が感じられる。
故に、この日記の提示は重要になるだろう。
志賀が一度しか会っていないのに「自分は小林よりよき印象をうけ好きなり」、と多喜二死後の日記で書いている。好悪の感情の激しい志賀が、多喜二の手紙、作品、一度の面会で好きになっている。
多喜二の母へのお悔みの手紙とお香典なども、多喜二への親愛のあらわれだろう。
文学史的には日記、手紙、作家論などから二人の接点ともいえる「私小説」という視点から、さまざま論じられるかと思うが、私は、改めて「私小説」というスタイルを考える展望をあたえてくれた論考として貴重な体験を持つことができたことを喜んでいる。(土倉ヒロ子 2014.8.22)
谷崎潤一郎戦禍の華『細雪』
―喰う、書く、会うーエロスの構造 土倉ヒロ子 8p
“戦禍の華『細雪』”を読む
評 布施田哲也
谷崎潤一郎の『細雪』と『疎開日記』の記載に基づいた戦時中の美食の饗宴についての土倉氏の論考である。『細雪』執筆においては「健康な食欲が創作のエネルギー」であったことが『疎開日記』等の記載と共に明らかにされていく。
『細雪』は確かに面白く、阪神の旧家出身の4姉妹の物語というよりは昭和10年代の医療小説として読めると思っていた。「B足らん」から始まり、黄疸、耳の手術、大腿切断、妙子の出産時の海外薬品の特別使用、死産そして最後に止まることのない下痢などの病気、病状の話も延々と続いている。
面白い小説は「かせ」が精妙に用意されているという土倉氏の指摘は、初めて聞いたので面白く感じた。土倉氏によれば、この物語にはいろんな枷(かせ)が用意されていて、それが雪子の婚約をまとめる際のいろんな足かせとなって、結果としてタイミングは遅れ雪子の結婚が遅れていく。
土倉氏の気になるラストシーンについて
「下痢はとうとう止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた。」これが『細雪』最後の文章であるが、止まることのない雪子の下痢のことが1番最後に描かれることがよくわからない。土倉氏のいう「谷崎のマゾヒズムがにじみだした」という解釈は面白いが、私の中の第1感ではなかった。私は、列車の移動もあわせて物語がまだまだ続くという、実は続編を示唆したものなのか、はたまたこれから始まるであろう雪子の結婚生活の不幸を暗示しているのかなどと考えて読んでいた気がする。「それでも人生は続いていく」といった終わり方は、妙にリアルな印象を残こすことに成功しているようである。
戦争中の作家の態度について
昭和十六年の日米開戦の報告を聞いた多くの国民は「長年の鬱積した気分が一気に解消して晴れ晴れとした気持ちになった。」という印象を共通してもった。小林秀雄も晴れ晴れとした気分について開戦当初には語っており、「近代の超克」にもつながっていったものと思われる。しかし戦争も後半に入ると、従軍作家として大いにペンをふるった作家も多かったが、沈黙していった文人も多かった。谷崎は『細雪』の執筆に、小林秀雄は骨董鑑賞に、川端康成は湖月抄の源氏物語を読みふけるなどがあげられるが、戦況の変化に伴う作家の態度の変化はとても面白く谷崎も例外ではなかったと思っている。谷崎の偉大な点は、環境の変化があったにせよ、自分のしたいことを貫いた点にあって、また回りも谷崎の執筆に協力を惜しまなかったことが、土倉氏の挿話から今回よくわかった。(布施田哲也 8.17)
谷崎潤一郎の「疎開日記」を読む 布施田哲也 6p
谷崎「陰翳礼讃」をめぐって 市川直子 2p
評 近藤加津
▼本稿は、ネオジャパニズム」という東京をベースにした英文サイトの研究会で、外国との交流を意識した日本文学研究会で、外国との交流を意識した日本文学研究を興味深く覗いている。全般に好意的な眼差しで、端的にまとめられている。
アメリカ人である報告者モリソンの谷崎『陰翳礼讃』論は、東洋・西洋の二項対立に注目し、オリエンタリズムとオキシデンタリズムという東洋像を緩和させたと結論づけている。このモリソンの着想は、大方のアメリカ人の理解といえるかもしれないと、市川氏は捉えている。
『陰翳礼讃』が英訳された際、訳者ハーパーは「日本のすべての家屋がうす暗く、日本人すべて仄暗さを好むと鵜呑みしないように」と注意書きしたという。
谷崎自身、日本の伝統、東洋趣味は大正12年の関西移住以後である。関西が彼に伝統の回帰を促したといわれている。
『陰翳礼讃』は昭和8年に書かれた。文明の進歩とともに仄暗い場所は少なくなったが、日本人の体質・気質の奥深い無意識下のうちに、「陰翳」の美に惹かれる思いが受け継がれていようか。
本稿は、異文化の文化圏において日本文学の関心、期待度、その中での谷崎文学の立ち位置などが理解できて興味深かった。
と同時に、日本の伝統美の認識を新たにした。 (8月29日 近藤加津)
宮沢賢治「北守将軍と三人兄弟の医者」論 近藤加津 5p
評 間島康子
宮澤賢治の世界は独特で、どこまでも奥深い。
今回「北守将軍と三人兄弟の医者」という作品を読み、またその感を新たにした。何事も声高に言わないことが賢治の作品の特色の一つであると思うが、この作品も童話仕立てで、ソンバーユーなる北守将軍が医者の所に行き、馬と一体化してしまった体を剥され「人間」に戻っていく様子は、戦争がどんなものなのかを暗喩的に表わすことによって、より一層そのむごたらしさを訴えてくる。
近藤さんは、作品中に現れる灰色という色彩、賢治自らも悩まされた脚気に注目し、それらから「憎むことのできない敵を殺さないでいヽやうに」という賢治の願い、戦争観を、兵器を使わずに具現化したものと作品の真意を汲み取る。将軍は三人の兄弟医師によって、人間らしい姿を取り戻し、王に謁見する。自分の傍でこれからも務めて欲しいという王の願いを断り、自分の代わりに三人の兄弟を推薦する。それは、「すべての過ちの元凶は≪慢≫である」とする賢治の常日頃の思いを、作品中に込めての「国の病≪慢≫の治療を期待しての推薦だったのかもしれない」、という考察は頷ける。
また、将軍の最後が判然としないで終わる点を、「朦朧の形」と捉え、それが賢治の「消極的な厭戦気分の表出」とする。
賢治の戦争観とともに、賢治の文学の在り方の一端をも示してくれていると思う。(9月13日 間島康子)
横光利一・考〜『春は馬車に乗って』から『機械』まで〜 荻野央(ひろし) 14p
評 間島康子
私は「機械」を読んだときに、ほとんどショックに近い感覚を味わった。心の内をというのか思考内容・経路をというのか、ここまで怜悧にとことん表すことが可能なのかということだった。しかも、その流れには不自然さは感じられず、好悪はともかくとして見事なものだと思った。革新的・奇矯な新感覚派の文学の旗手として、情調を排除した心理描写は「機械」に最も顕著なのではないか。
荻野さんは「機械」よりも、「春は馬車に乗って」よりも、「花園の思想」が好きだと言われるが、私はむしろ逆に思う。
しかしながら、氏は「春は馬車に乗って」、「花園の思想」から「機械」へと向かう横光の文学の流れを、「新感覚派」とは何かと問いながら追ってゆく。私にとっては相当難解な、荻野氏特有の文章を駆使してであるから、事に依ったら誤読、勘違いがあるかもしれないのだが、〔結論@〕、〔結論A〕によって横光文学のかなり明確な輪郭を示してくれる。
川端康成が「機械」について、「この作品は私に幸福を感じさすと同時に、また一種の深い不幸を感じさせる」、と書いたことを「末期の眼」で言っているが、「機械」後の横光の文学の流れを考えると、意味深い。実験家の宿命を考えざるを得ないが、“ひっかかる”作品を読むことができるのは読者には幸福だ.。
(9月11日 間島康子)
評2 安宅夏夫
作中、論じられている『花園の思想』について、故・由良君美(『言語と沈黙』をはじめ、ジョージ・スタイナ―の紹介・翻訳でしられる)は、とくに取り上げて分析批評をしており、由良が貯え得た批評の力を最大限に揮った「本格的な文芸批評」、目覚ましい・画期のものであったことを想起しました。横光と由良の父親(哲学者哲次)が中学時代一緒であったのが、(子供のころ共に文学少年だった)君美にとっては門外漢の「横光論」の筆を執らせたのです。岩波「文学」に載り完結に到っていなかったようにも覚えているのですが。この人のコールリッジ『老水夫行』の訳以上に安宅は唸りました。
川端より横光を今でも安宅は高く買っているので、論じるひとの少ない荻野「横光」論嬉しいです。ところで安宅は、好きということでは「花園の思想」が第一です。これほで痛切な「愛する者の死の物語」は珍しいからです。
場ちがいですが、いつぞや多磨霊園の「利一の墓所」が荒れ果てているのを見かけましたが、気にかかったことでした。(9月14日 安宅夏夫)
梶井基次郎―非運の蒼穹 間島康子 4
評 荻野央
『蒼穹』(昭和三年)は、長い散文詩のようで、掌編小説のようで、蠱惑する随筆のようで、渾然とした形式をとる作品である。梶井基次郎は”自己への悲哀”を、渓谷と山稜と陽の動きに、そして青空に浮かぶ雲に仮託して、その混沌においてため息をつくように描き出し、間島氏はそのことについて自在に言葉を綾なして作家の心模様を編みあげている。さて、”自己への悲哀”とは何のことだろう。作者は基次郎に「明確な事実」としての死意識の内在が横たわっていると説き(具体的な病名やら羅病に至るまでの顛末を省いて)その若さで生きる時間を考えなくてはならぬ作家の不幸を見た。
土堤に座っている基次郎の側にひっそりと侍るわたし(間島氏)は、彼が空を見上げ雲の成りゆきをじっと見つめるその「眼のありか」と視線の逞しさを認め、作家が何を考えているかを夢想し推し量っている。敬愛する作家の傍在という出発地点、そこからこの批評的感想ははじまり、終わる。
何と言っても一番の情景は青空と雲である。雲は植物によく似て、かたちの不動を騙りつつ流動する”うたかた”のようなものであることは誰しも知るところだ。常時に生まれては消えていく雲の在り様に「茫漠とした悲哀」を、「安逸の悲運」を感じ受ける作家の心性は作者をして「翳り」の忍びこみと批評せしめる。基次郎の「翳り」とは何のことだろう、とわたしは前のめりになった。遠い位置の一読者にしかすぎないわたしには、漠然と「直観」しかできない。だけど「傍にいる」作者には「直感的」に理解されている。それは身と心の死から来る意識のことなのだと言う。
“私は梶井の隣に座って、その心情をおもんぱかる”、そして彼に内在する死意識によって”(梶井は) 彼方を見ている。どれほどのものを呑み込んできたのだろう。熱いような冷たいような体でそこにいるのを感じる。どのような言葉をかけたらよいのか見当もつかぬが、隣から短い声を掛けたら、くっきりとした良い声で返事をしてくれそうに思う。”(p168下段)
この「傍にいる」という工夫にしたがって、読者は梶井の傍にいる作者の隣に座らなければならない。でなければ作者のようにして直観が得られないからだが、かくしてわたしは作品に取り込まれる。じつに巧みな方法だと驚いてしまった。
さて空に在る「(青が)透いて見えるほどの」淡く薄い雲。それは或る一点から「たえず沸いて来る」(作者)、育ち膨れあがる…絶えざる変化は或る一点に、つまり「何処」へ収斂して雲は失われていく。そのかたちの不定は作家の内部に不均衡を呼びさまし、作家の存在自体の危難、「身体の不穏」(作者)を導くものだと言う。闇夜に現れて闇に消えていった人影が、人家から漏れる光を背負っていたという作家の記憶の戦慄が、雲の波動的な生成と消滅に妥当するところに、梶井基次郎のひりつくような想像力による「虚無」感、空の中の「白日の闇」があると作者は指摘するのである。なるほど「何処」とは、けっして人知によって確定し得ない消滅する地点のことだ。そのことが分かっているのに、その在りかを絶望的に想像する作家の様子を「空に眼を見やりながら、遠く覗くように眺めながら、梶井の眼の色は深く沈みながらも澄んでいくようだった」(間島)とたたみこむように描きだすその筆致に、遠い位置の読者のわたしは納得した。この展開、この描写はまことに素晴らしい。
基次郎が青空と雲になぞらえて、悲しく了解してしまう不幸を問い詰め続けるところに彼の生涯はあった、とする神秘的な批評過程にうながされて、わたしはもう一度、いや何度も『蒼穹』を読み直し続けていきたい情熱に見舞われた。
語られる作家と寄り添う批評家は、美意識を自然に共有するpartnershipで理想的に、緊密に結ばれている。また作者固有の「感想的批評」の独特さが、永年大切にしてきた梶井基次郎の姿を鮮やかに、輪郭正しく美しく、わたしに描き出してくれているのに感動したのである。(荻野央) 2014.8.5-6
坂口安吾・廃墟への意志 野口存彌 25p
評 草原克芳
■この論考を私は、ある小説家が描いた風景を注視することにより、その内面の真髄に迫ろうとする野心的な試みとして読みました。野口存彌氏は、坂口安吾の青春時代や、ウヰンザア周辺を舞台とする矢田津世子らとの恋愛遍歴を語りながら、これと並行して幾つかの象徴的な「廃墟」の風景を紹介します。風景や建造物を語ることにより、安吾の思想が、荒涼たる主調低音を持った原風景として、もう一度まざまざと甦ってくる手法が見事です。
矢田津世子への悶々たる思いや、彼女の知られざるレズビアン話などのエピソードもそれはそれで面白いのですが、やはりそれらを超えて迫ってくるのは、むしろ人間的位相を超えた無限へと向かう安吾の“非情なるまなざし”であります。
■その印象的な風景とは、新潟中学時代の松林の砂丘であり、大本教の本部のあった亀岡の爆破された教団跡であり、B29空襲下の東京の豪奢な夜空であります。さらに、建造物としては、灰色の幾何学的な小菅刑務所や、築地のドライアイス工場であり、また海上に浮かぶ駆逐艦であります。どれもこれもまた、愛想のないモノトーンの色調を帯びた荒涼たる空間であります。
とはいうものの、もし、寒そうにオーバーを着た“風博士”坂口安吾の写真を撮すとしたなら、背景としてふさわしいのは、決して龍安寺の寂びた石庭でも、洗練された銀座の街角でもなく、これら砂塵の舞う地の果ての空間なのであります。
このような風景に欠けているのは、家庭的なぬくもりの感触であり、華麗な色彩であり、日本的美のコンテキストとしての「わび・さび・雅」の趣でしょう。
こういった一般的に“洗練された伝統美”といわれる層を打ち破り、その底流にざらつく、もっと荒々しいもの、実存の基底に迫るもの、生と死の境界領域でふるえているもの、宇宙や自然や生命の源泉に近いもの、そういった究極の美でなければ、安吾の魂はついに惹きつけられなかったようです。
■『日本文化私観』に沿って進められるこの論考を読みながら、どうしても読者として連想してしまうのは、やはり『堕落論』です。
敗戦時に「生きよ、堕ちよ」と預言者の如く宣言した坂口安吾の内面を作った原風景が、これらの味もそっけもない、しかし背景に無限と虚無と孤独を湛えた色彩のない独特のランドスケープと重なり合ってきます。
ひょっとしたら、『堕落論』の挿絵がこれらの心象風景であり、反対にこれらの風景を生きる実践マニュアルが、『堕落論』だったのかも知れません。
安易なレディメイドの美や、アンティームな温もりを拒絶し、「必要性・合理性」のみを追究するのが坂口安吾の美学です。しかし、むしろ安吾の言う「合理性」とは、「それ自身に似る以外には、他の何物にも似ていない形」という美的ストイシズムを、一般的な日常語に翻訳したものではないでしょうか。あるいは存在の結晶学のようなもの。
つまり、孤独の中で、形象そのものが自己の内的な論理によって自己相似的に形成されていく宇宙的造形表出の論理にのみ、安吾は共感しえた。基準も、美学も、胚芽としてそれ自身の中に受胎されている自律した存在のみ、彼は承認した。既存の類型や、パターンや、伝統によりかかって安易にコピーされ、再生産される美的な「甘え」の構造を、徹底して嫌った。むしろ喧嘩腰で、ムキになって、その既成的な価値を否定した。
とはいうものの、文学や芸術でも、あるいは風景でも、魂でも、人格でも、「それ自身に似る以外には、他の何物にも似ていない形」という密度ある姿を産出するには、凄まじい軋轢や葛藤を必要とするはずです。
■「廃墟への意志」とは何か。それは、虚無への憧憬であると同時に、「全的崩壊」を潜り抜ける強靭なる意志でもあり、さらには「破壊と創造」へ向かう孤独な意志であるかも知れません。あの『堕落論』や、小説『白痴』の淪落の底から見上げるB29のジュラルミンの美や、星々の冷たい輝きから、もう一度、地上の人間的な秩序を再構成する強靭な意志力こそ、安吾が承認する人間の「魂の力」であるはずです。確かに安吾は「取扱い危険物質」ではあります。しかしその精神は、何とも逞しく、健全であります。
――19世紀初頭のドイツ・ロマン派の領袖F・シュレーゲルによれば、ロマン派文学とは、「自己創造と自己破壊とを交替的に反復しつつ、さらにその肯定と否定の幅を超えた大いなる自己創造へと向かう志向性を持った美学」であるとのこと。それは同時に、「想像力」と「批評的知性」の弁証法的拮抗でもあり、人間的自由の法則でもあります。
ここで重要なのは、「自己破壊-自己創造」を拮抗させつつ、全体としては大いなる自己創造にベクトルを向けていかなければならないということです。
しかしその後、ロマン派文学は隘路に入った。多くの世紀末の耽美派や、破滅型の詩人・小説家・芸術家は、そこを見誤ったように思われます。思索や表現に生きる者たちの死屍累々たる歴史、それは自殺と自己破壊のオンパレードであります。
ロマン派の概念が発生して以降、肥大した想像力の制御法を彼らは見いだせず、自らを人体実験の如く、生の混沌の渦にさらしてしまったように思われます。その陰惨たる光景は、最近の構造主義以降のフランスの“呪われた”思想家たちにまで遠く継承されていそうです。(誰とはいいません。エイズで死んだり、奥さんをピストルで射殺して獄中に入れられたり……。自殺や交通事故死は、まだ健全な方かも知れません。どうも20世紀も後半ともなると、「知」と「倫理」のタガが外れてしまったように思われます)
そして表現者たちの自死は、それだけでは終わらず、どこかで同時代の大衆の集合的無意識にも通底してくるはずです。
■しかし、同じくニヒリストを標榜しつつも、「創造と破壊」に憑かれた坂口安吾は、通常ロマンティストといわれるような病弱でひ弱な詩人や作家以上に、F・シュレーゲルのいう意味における、真のロマン派だったようにも思われます。太宰治と違って心情的には逞しかった。しかしどうも、薬を、やり過ぎた……。
初期に『FARCEに就て』を書き、かつまた、ブルーノ・タウトの『日本文化私観』をそのまま同タイトルで風刺する安吾の強靭な散文は、“イロニー”を感じさせます。なにしろ桂離宮へのあてつけが、小菅刑務所ですから。
しかしこれとは対照的に、同時代を生きた日本浪曼派の保田與重郎は、自己破壊やタナトスをノステルジックに朗々と歌い上げることで、ロマンティッシュ・イロニーを「誤読」したのではないでしょうか。この辺の無頼派や日本浪曼派の「対比列伝」をやると、いろいろと面白そうではあります。
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■野口氏の論考に触発されつつ、話が大幅に逸れてしまいました。どうも、発見と刺激のある文章というものは、読者をして新たな思考の場を彷徨わせるらしい。
本稿で私が個人的に印象に残った光景は、亀岡の大本教本部の廃墟風景です。『日本文化私観』の中にこの一節があったことは印象深く覚えているのですが、これが安吾の“思想”に直結するとは、あまり考えていませんでした。
爆破された神殿跡にごろごろと転がっている巨大な石像の首。つわものどもの夢の跡、王仁三郎の夢の跡。そして現地の者から、同行者とともに、安吾が特高と間違えられたという話すら、これまた何とも安吾らしいエピソードです。
安吾が希求するのは、常にむごたらしいまでの「文学のふるさと」でした。「氷を抱きしめるような孤独」のひしひしとした実存の感触です。
かつて新潟中学時代、一人授業をぬけ出して松林の砂丘で寄せくる海の波を見つめた安吾は、単なる逸脱者ではなく、形骸化しつつある「制度」の否定者・破壊者であると同時に、その「廃墟」の基底から、もう一度、新たなる秩序の原理を再構成する「創造-破壊」を宿命とした魂だったように思われます。
その孤独の周囲、海の轟の響きわたる風景が、このエッセイに散在するモノクロームのスナップのようです。とすると、『私は海を抱きしめていたい』等といったタイトルもまた、単なる一短編を象徴するだけではなさそうです。 (9月12日 草原克芳)
《自由論考》
心は魂に憧れる、魂は心を求める 勝原晴希 18p
―村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を考える―
村上春樹再読(2)「1973年のピンボール」論 星野光徳 10p
フォークナーから村上春樹へ 竹内理矢 10p
―「納屋」への放火、「父」あるいは「母」とのはざま ―
群系33号の村上春樹に関する評論三作について
評 名和哲夫
村上春樹の作品には無意味なようで何か意味ありげな謎めいたものがあって、それを解釈することによって、その作品が意味するもの、決定的な何かを探そうという試みの論(著書)が数多く書かれている。何を隠そう自分自身も書いている。
しかしながら、最近の自分はそういうものは実は存在しないのではないかと考えるようになった。もともと村上春樹が書くものは純文学ではなくて小谷野敦が言うように大衆小説であり、結局その作品にしても、受容側を楽しませるように仕掛けがいくつも施されていて、それを受け手がいかようなりとも、作者が意図しないものも含めて解釈できるようにあえて謎めかされているのではないか、などと思うのである。
さて、群系33号には三つの村上春樹に対する評論が掲載されている。
星野光徳氏の「村上春樹・再読(2)『1973年のピンボール』」はとても興味深く面白く読む事ができた。
「村上の文体には、現代アメリカ小説のような歯切れの良さを装いながら、実は歯切れの悪い何かがある。村上春樹の小説の〈謎〉は、隠された物語やメタファーの謎ではなく、その文体の根底にこそある〈何か〉ではないだろうか。」
すごく面白い。それを続いて、次の『羊をめぐる冒険』の論考でどのように論証して行くのか、期待させられる。
次に竹内理矢氏の「フォークナーから村上春樹へ」だが、これは村上春樹の「納屋を燃やす」がフォークナーの“Barn Burning”との関係を論及したものであり、論理の展開も解りやすく、構成もまとまっていて非常に読みやすい。学術論文としても通用しそうだ。
最後に勝原晴希氏の「心は魂に憧れる。魂は心を求める。」であるが、村上春樹の「読みづらい」小説を、あえて微に入り細に入り詳細に読み解いて行こうとする難しい試み。結局、論者がテクストの中へ入り込んで、読み解いている感じで、少々解りにくい。
また、構想の途中で終わっているのが残念である。
着想が面白いのだから、戦略をたてて読み手にわかるように工夫すればなおよかったと思う。(9月12日 名和哲夫)
日本初の唄う女優 松井須磨子の生きざまをかいまみて 佐藤文行 5p
―島村抱月、中山晋平、野口雨情などの群像の中で ―
シャーキャ・ノオト 原始仏教残影(連載6) 古谷恭介 10p
圓朝の怪談と漱石作品 相川良彦 4p
島尾敏雄「川にて」論―七つの企みから開かれる文学世界― 石井洋詩 11p
【書評】 小林弘子著『泉鏡花 逝きし人の面影に』 安宅夏夫 2p
【書評】 五十嵐亨著『武蔵国外科事始』 土倉ヒロ子 2p
評 鎌田良知
加賀乙彦『頭医者事始め』を連想してしまった。「ああいった小説なのかな?」と思っていたが、内容は全く違うらしい。
書評から推測した物語の内容は、奇想天外なトンデモ話らしいが。トンデモなくリアルな話でもあるらしい。孫引きの空想になってしまうが、平賀源内は江戸時代の武蔵国にタイムスリップした五十嵐亨なのだろうか。漂泊の民とともにいて、漂泊の民でもある、というのが著者の表明のように感じるのは、空想の行き過ぎか・・・
時を移した虚構を通すことによって、日常は生々しい現実となる。自然科学は、日常の感覚からすると突飛に感じられるかもしれない確かな虚構を通して真理に迫ろうとするが、歯切れの悪い「なぜ?」で終わり、「なぜ?」から物語が続いていく。
フィクションと侮るなかれ。「こうだよね」と思っていることは、フィクションの構築・再構築の積み重ねなのだから・・・。 (鎌田良知) 2014.8.8.
【書評】 市原礼子詩集『愛の谷』 鎌田良知 1p
【書評】 澤田繁晴著『眼の人々-夢二・子規・芥川・梶井・古賀・横光・川端』 白川 葎 1p
【書評】 葉山修平著『処女出版―そして、室生犀星』を読んで 澤田繁晴 2p
言 弁護士会の闇 (第13回) 杉浦信夫 6p
評 安宅夏夫
昨日・9月13日午後、千代田区立日比谷図書文化館ホールで、平出修没後100年記念の講演会がありました。
1 辻原登(作家) 管野須賀子が獄中から朝日新聞社杉浦縦横に出した「針文字書簡」、「新宮というトポスと大逆事件との関わり」
2 塩浦 彰(修研究会・日本近代文学会会員) 平出修の生と郷土
3 近藤 典彦(国際啄木研究会名誉会員) 「修の傑作小説ー「計画」「逆徒」−を読む」
どれも充実した内容と講師の人柄・魅力で引き込まれました。
大逆事件は三つの事件からなる。
A、天皇暗殺計画事件
B、大量冤罪捏造事件
C、国家テロ事件
以上のポイントに「まとめられる大逆事件」は、戦後にひきずったヨコハマ事件、最近の村木事件、袴田事件と長い舌をのばしています。
以上の「日本史の根幹」に絡めて書くと、「群系」連載の当「弁護士会の闇」は、そのコンテンツを毎号読むにつれて、正に「大逆時代とパラレル」で、日本弁護士会は、形容矛盾を承知で書くと、無尽蔵の「黒い黄金の延べ棒が積み上げられている、アリババの大洞窟」に見えますね。すでに露天掘りで精錬度も100パーセントの露床が各地・各所にくりひろげられて見えているようすともいえましょう。
群系の同人タフマン杉浦の、そのタフネスは、エンドレスの、この「弁護士会の闇」を基盤に「黄金に七宝もてんこもり」にした「法定利率・年5分をも、忘れずに加えて」の、不当着服・詐欺・ペテンなど悪芸百般の達人として今や日本・市中に隠れ無き弁護士会の面々をあぶり出し、洗いざらいに大掃除することをコンテンツとした大出版のページェント」を企画実現する、次のステージに掛かってきていると、この度の「第13回」を読みあげて、感じ入りました。 (安宅夏夫)
《音楽ノート》 音楽・数学・宇宙 井上二葉 1p
評 佐藤文行
このエッセイでは音楽が本質的持つ「心身への癒やし効果」の存在が、その形式に於いて「黄金比」に基づくことでいっそうの効果を発揮するし、その法則が自然界の創造物・気候現象にも隠れていて、「人間のDNAの中にある比の法則と其の音楽が共鳴するから」と紹介していて、目を見開らかされる思いだ。
音楽は目に見えない故に軽んじられる傾向があるが、音波は物理的な作用をもっている。古代には軍隊のラッパが城壁を崩壊させたといった信じがたい事例もある一方で、ギリシャでは「青年の学習すべき必須項目の一つ」にも位置づけられていたようだ。国歌は精神の統一に寄与し、コマーシャルのBGMは売り上げに影響する。現代はいわば騒音社会であり、ストレスを増加させるような音楽も多い。私たちはむしろ「人を癒やし治療する音楽」を必要としているし、さらに「豊かな芸術創造を導く音楽」をこそもとめている。
筆者は様々な例を挙げて「音楽の効用」を解説しているので、機会あればいつの日にか、さらに詳しい論考を期待したい。 (9月13日 佐藤文行)
《写真ノート》 棄てられる風景 荻野 央 1p
評 赤穂貴志
写真にある「眠る鉄道」という本は、帯紙に「眠れる森の美女」という惹句が書いてあるそうです。
かつては美しい存在であったものが、年月により朽ち果てていくのは自然の摂理ですが、そこに人間のケアがあるか否かで、それが消滅となるか残存となるかというテーマに行き着くような気がしました。
この「眠る鉄道」は、在りし日には颯爽とひとを運んでいたのでしょうが、今は見捨てられた存在です。
皮肉な見方をすれば、会社のためにと身を粉にして働いてきたものの、現役を引退すると誰にも相手にされず、過去の功績をたたえられることもなく、ひっそりと死んでいく元サラリーマンの姿のようにも見えます。
現在、どこの会社も構成年齢がいびつになり、若手が少なく中高年が多いという構造に陥っています。技術の伝承が行われず、現役を引退した後、それに続く世代からのケアが期待できない状態にあります。
この「棄景」が虚無的な相貌として人々の目に映るのも、ひたすら消滅に向かって進んでいるからでしょう。(9月13日 赤穂貴志)
《映画ノート》 戦中の貴公子 上原謙 赤穂貴志 1p
<参考>
上原謙出演の映画 引用 永野悟
有りがたうさん(1936年、松竹蒲田)
人妻椿前篇(1936年、松竹大船) ... 草間俊夫
人妻椿後篇(1936年、松竹大船) ... 草間俊夫
淑女は何を忘れたか (1937年、松竹大船) ... 大船のスター
浅草の灯(1937年、松竹大船)
婚約三羽烏(1937年、松竹大船)
愛染かつら(1938~39年、松竹大船)
西住戦車長伝(1940年、松竹大船)
桜の国(1941年、松竹大船)
敵機空襲(1943年、松竹大船)
花咲く港(1943年、松竹大船)
歓呼の町(1944年、松竹大船) ... 吉川慎吾
君と僕 (1944年) 内鮮一体(日本と朝鮮)国策宣伝映画
君こそ次の荒鷲だ (1944年、松竹大船) ... 三好中尉
野戦軍楽隊(1944年、松竹京都) ... 菅上等兵
陸軍(1944年、松竹大船) ... 仁科大尉(友彦の戦友)
そよかぜ(1945年、松竹大船)
花ひらく(1948年、新東宝)
四谷怪談(1949年、松竹京都)
異国の丘(1949年、新東宝)
影を慕いて(1949年、新東宝)
宗方姉妹(1950年、新東宝) ... 田代宏
雪夫人絵図(1950年、滝村プロ=新東宝) ... 菊中方哉
悲歌(1951年、東宝)
めし(1951年、東宝)
結婚行進曲(1951年、東宝)
煙突の見える場所(1953年、新東宝)
夫婦(1953年、東宝)
妻(1953年、東宝)
日本の悲劇(1953年、松竹大船)
母の初恋(1954年、東宝)
山の音(1954年、東宝)
風立ちぬ(1954年、東宝)
晩菊(1954年、東宝)
夜の河(1956年、大映京都)
あらくれ(1957年、東宝)
氷壁(1958年、大映東京)
東京の休日(1958年、東宝)
ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐(1960年、東宝)... 参謀長
娘・妻・母(1960年、東宝)... 早苗の見合い相手・五条宗慶
大学の山賊たち(1960年、東宝)
大学の若大将(1961年、東宝)*長男加山雄三と初共演
モスラ(1961年、東宝)
香港の夜 A NIGHT HONGKONG(1961年)
世界大戦争(1961年、東宝) ... 外相
銀座の若大将(1962年、東宝)
日本一の若大将(1962年、東宝)
妖星ゴラス(1962年、東宝)
忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1962年、東宝)... 清閑寺中納言
ハワイの若大将(1963年、東宝)
クレージー作戦 くたばれ!無責任(1963年、東宝)... 畑中社長
海底軍艦(1963年、東宝)... 楠見元技術少将
エレキの若大将(1966年、東宝)
時をかける少女(1983年、制作・角川、配給・東映)...深町正治
映画女優 (1987年、東宝映画)... 上原謙
花の季節(1990年、東京ビジュアルネットワーク)
テレビ[編集]
新・必殺仕置人 第13話「休診無用」(1977年、ABC / 松竹)
新・江戸の旋風 第22話「十年振りの手口」(1980年、フジテレビ / 東宝) - 勘助
はらぺこ同志(1982年、TBS)
土曜ワイド劇場・混浴岩風呂連続殺人(1983年、テレビ朝日)
いちばん太鼓(1985年 - 1986年、NHK朝の連続テレビ小説)
忠臣蔵(1985年、日本テレビ)
青春家族(1989年、NHK朝の連続テレビ小説)
超人機メタルダー第1話「急げ!百鬼魔界へ」(1987年、テレビ朝日)
春を待つ家(1990年、フジテレビ)
《都市ノート》 近代への欲望 永野 悟 1p
《創作》
岐路-ある日の宮澤賢治 高岡啓次郎 4p
会長ファイル「福祉バス」 小野友貴枝 10p
評 外狩雅巳
社団法人・地域福祉センター長である英田真希の一年間の行動が描かれている。県庁を定年後に就任して二年目の正月の神社参拝時の決意から翌年の参拝前日まで。
行政の地域高齢者施策を請け負うセンター12名を管理し運営を先導する主人公。事業の大半を占める福祉バス運行を廃止する決意と実践の記録的作品である。
澤事務局長である大曾根班長の二人を説得しセンター再生へ前向きに行動する女性。組織のトップで行動する女性から男社会・行政内部を書いた事にわたしは注目した。
お役所仕事で絡められた事なかれ主義男性幹部達とのやり取りは迫力がある。25枚程度に纏め、行動進捗を時系列で追う記録風な仕立てが読みやすい。
その中に女性視点と内面描写を入れて文芸作品とした著者異色の一作になっている。多分、多くの読者に小説としてより行政施策の内部仕組みに興味が持たれるであろう。
となると、税金使途に厳しい読者からは別の感想も出る可能性がありそうだ。作者に近い主人公を思わせる書きぶりはそのあたりの事に鈍感とも感じた。
重圧をはねのけ行動する女性を描写する意図が題材に阻まれる危険がある。老人ホームでの虐待などの記事も多い昨今、文学作品として読まれるだろうか?
評 2 近藤加津
さまざまな問題を抱えた「福祉バス」をいかにして廃止しようか、なかなか解決策が見つからない主人公。
登場人物のそれぞれの思惑や言動に翻弄されながらも、氏神さまに朝の祈りをし、くじけそうな心を鼓舞しながら、会長として凛とした態度で、旧態依然とした職場に改革のメスを入れていく主人公が、健気であり、頼もしく感じられました。経費削減や人間関係など、現代の世相の断面を切り取った作品と思います。
難を言わせていただけば、最後少しご都合主義というか、急ぎすぎて終わってしまったのが惜しい気がします。 (9月7日 近藤 加津)
越前丸岡の大名有馬氏 柿崎 一 7p
<参考>
有馬晴信について 引用 永野悟
生年: 永禄4頃 (1561) 没年: 慶長17.5.6 (1612.6.5)
キリシタン大名。肥前国高来(長崎県)日野江城に住む。肥前国有馬(長崎県)領主。義貞の次男。元亀2(1571)年兄義純から家督を相続。天正8(1580)年イエズス会のヴァリニァーノから武器と食糧の援助を受けて肥前から筑後,肥後にも勢力を拡大していた竜造寺隆信の脅威を除く。同年受洗してプロタジオを称す。同10年ヴァリニァーノの遣欧使節を支持し従兄弟の千々石ミゲルを名代とする。同15年伴天連追放令が出ると宣教師を多くかくまい,領内におけるキリスト教土着を促した。慶長14(1609)年3月幕府の了承を得て高砂島(台湾)に調査船を派遣。マカオ寄港朱印船に同乗の家臣が殺害されたため,同年来航のポルトガル船ノッサ・セニョーラ・デ・デウス(通称マードレ・デ・デウス)号を12月12日(1610.1.6)長崎沖で沈めた。この恩賞を口実に本多正純の与力でキリシタンの岡本大八から金品を詐取され,また晴信の長崎奉行謀殺計画を告発されたために改易され,甲斐(山梨県)で死を賜った。この事件がキリシタン禁教令発令の引き金となった。<参考文献>「藤原有馬世譜」(『大日本史料12‐9』)