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33号 《特集》 昭和戦前・戦中の文学 その1 33号 永野 草原 大堀 野寄 長野
目 次
昭和の哀傷と傷痕
―小林秀雄・保田與重郎・伊東静雄・逸見猶吉にみる時代―
永野 悟
一
小林秀雄の「故郷を失った文学」(昭和八年五月「文芸春秋」)には、この世代の、あるいは昭和という時代の特徴がよく表れている。
東京に生れた私ぐらゐの歳頃の大多数の人々は、私ぐらゐの歳頃で東京に生れたという事がどのくらゐ奇つ怪なことかよく知つてゐる。それは江戸つ児などといふ言葉で言ひ表はせなるものではない。傍人にはなかなかのことでは解つて貰へないものがある。たとへ東京生まれの人達でも、一と廻りも年が上ならもう通じ難いものぢやないかと思はれるものがある。(中略)言つてみれば自分には故郷といふものがない、といふやうな一種不安な感情である。
昭和四年改造懸賞論文二位となった「様々なる意匠」で文壇デビューした小林秀雄(一九〇二-一九八三)はもとからこうした故郷喪失、自己意識の定位のないところ
から出発していた。「蛸の自殺」(大正一一年)「一ツの脳髄」(大正一三年)といった短編から始まった小林の創作は筋のない、ほとんど自意識の所産ともいえる短編で、小説の断念と批評という形式の選択は、その時代意識、境遇から生れたといってもいいかもしれない。同じ「東京生まれ」の「江戸つ児」「一と廻りも年が上」といった芥川龍之介(一八九二-一九二七)の技巧と筋、は一見似合いと見えるが、彼を論じた「美神と宿命」(昭和二年九月「大調和」)にはまったく違う認識が書かれている。「彼は決して人の信ずる様に理智的作家ではないのである。神経のみを持つてゐた作家なのである。「鼻」に始まつて「河童」に終るまで、彼の作品は殆ど逆説的心理の定着で終始してゐるが、僕は嘗て彼の作品に理智の像熱を感じた事がない」と書いた小林は、ここで芸術論にまで敷衍する。これはいえば、小林秀雄という批評家の胚胎ともいえよう。
芸術家にとつて最も驚くべきは在るが儘の世界を見るといふ事である。(中略)あるが儘に見るとは芸術家は最後には対象を望ましい忘我の謙譲をもつて見るといふ事に他ならない。作品の有する現実性とはかかる瞬間に於ける情熱の移調されたものである。
芥川氏は見る事を決して為なかつた作家である。彼にとつて人生とは彼の神経の函数としてのみ存在した。そこで彼は人生を自身の神経をもつて微分したのである。
ここには小林秀雄のリアリズムが見られよう。ここで頻出される「情熱」という言葉は注意していい。「物質への情熱」(昭和五年)において、エログロナンセンスの文壇やジャズの流行に触れてそれらの情熱を計量しているが、それらより以上に、正岡子規の「病床六尺」にある写生の情熱を称揚している。
小林の文壇へのデビューとなった「様々なる意匠」(昭和四年)は、当世の様々な文芸のありようを(意匠)と捉えたものだが、そこでいわれる「マルクス主義文学」(―恐らく今日の批評檀に最も活躍する意匠の構造)やら、「芸術の為の芸術」派やらを語った後、次のようなことをいっている。
芸術の性格は、この世を離れた美の国を、この世を離れた真の世界を、吾々に見せてくれる事にはなく、そこには常に人間情熱が、最も明瞭な記号として存するといふ点にある。(中略)例へば天平の彫刻は、人の言ふが如く非個性的だが、非個性的といふ事は非人間的といふ事にはならない。唯、個性といふが如き観念的な近代人の有する怪物を、彼等は知らなかつたにすぎない。吾々が彼等の造型に動かされる所以は、彼等の造型を彼等の心として感ずるからである。
「彼等の造型を彼等の心として感ずる」「人間情熱」が芸術の根底にあるといったのだが、「『搦め手』から、これが私には最も人性論的法則に適つた軍略」(「様々なる意匠」)といって颯爽と文壇デビューした小林秀雄だったが、実際当時の彼の心奥にどれほどこうした「情熱」があったか。「自分には故郷といふものがない」「故郷といふ言葉の孕む健康な感動」がない(「故郷を失った文学」昭和八年)とわざわざいった小林であった。
「Xへの手紙」(昭和五年九月)は長谷川泰子との恋愛体験を経ての批評だが(「中央公論には〈小説〉として発表された)ここには素の小林のモノローグが続く。有名な部分を引く。
女は俺の成熟する唯一の場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解してゆかうとした俺の小癪な夢を一挙に破つてくれた。(中略)この時くらゐ人は他人を間近で仔細に眺める時はない。あらゆる秩序は消える、従つて無用な思案は消える。現実的な歓びや苦痛や退屈がこれに取つて代る(中略)惟ふに人が成熟する唯一の場所なのだ。
江藤淳は「まさしくこの時小林秀雄は「人生の入り口に立っていた」のである」とする(『小林秀雄』昭和三六年一一月講談社刊)。
思うに小林が、この故郷喪失者の迷いから蝉脱し、「文芸批評家」として活動してゆくのは、昭和十年『文学界』の編集責任になり(昭和八年一〇月創刊。が当初二年間は休刊が相次いだ)、「ドストエフスキイの生活」を連載し出した頃ではないか(昭和一〇年一月〜同一二年二月まで23回連載)。この間に小林は『私小説論』を書き(昭和一年連載、同一〇月刊行)、正宗白鳥とトルストイをめぐって〈思想と実生活論争〉をし(昭和一一年)、さらに昭和一二年には中原中也の死に際会している(一〇月。享年三〇歳)。翌年「文藝春秋」特派員として中国へ渡り、三月杭州で火野葦平に第六回芥川賞を渡した(昭和一三年)。そして、昭和一七年から、「当麻」(四月)「無常といふ事」(六月)「平家物語」(七月)「徒然草」(八月)「西行」(一一月)と日本古典を書きついでいくのである。
二
だがこの「故郷喪失」は小林だけの問題ではなかった。
折から、近代=西洋化への幻滅が生じつつあった。文壇全体も混迷錯綜の中、いま一つの同人文芸誌が創刊された。昭和一〇年三月創刊の『日本浪曼派』(〜同一三年八月)である。『コギト』(昭和七年三月〜一九年九月)同人らによるもので、近代批判・古典回帰などを基調に新たな日本のロマン派を追求しようとした。前年の昭和九年一一月の『コギト』にその広告が掲出された。
平俗低俗の文学が流行してゐる。日常微温の饒舌は不易の信条を昏迷せんとした。僕ら茲に日本浪曼派を創めるもの、一つに流行への挑戦である。(中略)
日本浪曼派は、今日僕らの「時代の青春」の歌である。僕ら専ら青春の歌の高き調べ以外を拒み。昨日の習俗を案ぜず、明日の真諦をめざして滞らぬ。わが時代の青春!この浪曼的なものゝ今日の充満を心情に於て捉へ得るものゝ友情である。芸術人の天賦を真に意識し、現状反抗を強ひられし者の集ひである。日本浪曼派はこゝに自体が一つのイロニーである。
ノヴァーリスやヘルダーリン、シュレーゲルなどドイツ浪漫派を範としつつ、近代批判・古典回帰などを基調にあらたな浪漫派の立ち上げだったが「こゝに自体が一つのイロニー」であるとするのは、この派の出自と性格がよく現れている。広告文を書き、中心となったのは保田與重郎(一九一〇-一九八一)であったが、かれの資性を、例えば饗庭孝男は次のようにいっている。
「保田與重郎はつねに晴朗な悲劇を愛していた。それが彼の詩心にいたく訴える様を文章につづった。たとえば倭健命(日本武尊)や木曾義仲のように自ら行動がそのままに清冽な心のあらわれになると感動させるような人物である。歴史はこうした悲劇によってつくられるとも言いたげな趣きがある」
(『保田與重郎文庫3 戴冠詩人の御一人者』解説)。
ここに彼の美学の性向がうかがわれるが、一方その「近代」批判には独自の方法があった。保田は「文明開化の合理主義が日本近代であった」として立場を闡明している(「文明開化の論理の終焉について」(昭和一四年)。このかんの事情を松本健一は次のように整理している(「方法としてのイロニー 保田與重郎」『滅亡過程の文学』一九八〇年冬樹社刊所収)。
昭和初年代から一〇年代の文学・文化は合理から合理を追う、つまりは「文明開化の論理」(近代主義)であったが、ついには近代の奈洛、頽廃の現実をもたらした。この現実のただなかで、日本浪曼派は、まずみずからを「頽廃」に落とし込むことによって、「文明開化の論理」に終焉を宣告し、旧時代の没落をいったのだ。とすれば「没落」は現実の日本を否定する武器であり、そのことによって、日本浪曼派は「イロニーとしての日本」を体現したのだ。ここにイロニ―が武器であり、本質でもある日本浪曼派の立場は明らかである。だが旧時代のあとは何がみえてくるのか。むろん何も見えてこなかった―。
*イロニ―は、皮肉(「骨髄」の対語。本質ではなく表面)や反語と訳出されるが、大勢に対し正面きって表現するのではなく、自らを韜晦、沈湎させることで、真実を吐露する方法。ドイツロマン派のシュレーゲルはこうしたことで、自我を解放するとした。
保田の言葉に戻れば、「日本の文明開化の最後の段階はマルクス主義文芸であった。マルクス主義文芸運動が明治以降の文明開化史の最後段階であったのだ。さういふ意味では、日本浪曼派は、史的にはこの段階の結論であり、それは次の曙への夜の橋であった」(同前)―。
だが、はたして、「夜の橋」として次代に架橋できたのか。
保田與重郎のこの頃の代表作に「日本の橋」(昭和一一年一〇月・一四年九月)があるが、西洋の立派な石造の橋に対して、日本の細い道に架けられた木の橋を対照するが単なる文明の比較論ではなく、語彙も含んだ日本人の心を論じてもいる。
日本の旅人は山野の道を歩いた。道を自然の中のものとした。そして道の終わりに橋を作った。はしは道の終りでもあった。しかしその終りははるかな彼方へつながる意味であった。(中略)橋も箸も梯も、すべてははし(・ ・)であるが、二つのものを結びつけるはしを平面の上のゆききとし、又同時に上下のゆききとすることはさして妥協の説ではない、しかもゆききの手段となれば、それらを抽象してものの終末にすでにはしのてだてを考えることも何もいじけた中間説ではない。(中略)さらにいへば古典は過去のものではなく、ただ現代のもの、我々のもの、そしてつひには未来への決意のためのものである。
高澤秀次は保田のこの解説に「橋」の概念の換骨奪胎をみ、記号論的組み換えによってイロニ―になっているとする(「戦争とイロニー」『昭和精神の透視図』一九九一年)。「木曾冠者」を論じて、以下のようにいう。
「木曾と九郎の二人は、没落の必然を担って頼朝に滅ぼされる物語の〈(イ)橋(ロニ)〉(ー)である。シャーマン保田は、滔々と物語に仕掛けられたイロニーの橋を歌い上げる。だがその鎮魂歌は、「殺戮と落涙」の美化へとすすむ。「少年の美観の本能は敵味方のモラリズムにとらわれない。つねに運命の中に真実を見出す」。こうした保田のイロニーが、言葉いじりの無償性や知的頽廃のアナクロニズムにとどまらなかったことは注意を要する。強いられたイロニーの代行者である保田は、幻影のごとき大衆が、戦争に動員される昭和十年代の有能なシャーマンであった。影たちの輪舞のごとく、都市に流出して空虚な身ぶりで何者かを演じ、他者の欲望を模倣する大衆という名の幻影は、ここに至って大陸での戦闘を担う実体としての兵士に生まれかわらなければならなかった」―。
「幻影のごとき大衆」「他者の欲望を模倣する大衆」、「シャーマン保田」という対照が注目される。昭和初年代からの時代様相とそこにうごめく大衆の姿、そしてそこにおける一浪漫文学者の役割を形容してあまりある。
松本氏によれば、旧時代の没落後「何もみえてこない状況を創出するために、日本浪曼派は現実を破壊に至らしめた」、「夜の橋」とは破壊の後に何も見えていないことの謂いであった。これは無であるが、それは現実的には無責任、無限責任のことであった。
大東亜戦争の発端において、私はこの戦争が、竹槍の精神だと信じたのである。竹槍は農民が、鉄砲を持つた侵略者に追ひつめられた末に、死を既定として立つ平和の意思表示の象徴である。
(保田「現代畸人伝」昭和三九年)
いったいに日本浪曼派は敗戦によって死せる犬になったといわれる。だが敗戦によって、日本浪曼派が倒れたわけではなかった。竹槍の精神にとって死はすでに既定であり、敗北は既に予定されていた。保田は大東亜戦争を米英による近代戦、つまり「人為・人工の戦」として否定する。近代戦・総力戦を否定するということは必敗の道筋があるがそれを当然とみるのが保田與重郎のイロニ―が導き出した戦争観である。ひとはその戦いに死んでいくことによって、我が国の「偉大なる敗北の史跡」=「日本の橋」は踏み固められる。
保田は『戴冠詩人の御一人者』(日本武尊)「大津皇子の像」『木曾冠者』『後鳥羽院』『萬葉集の精神―その成立と大伴家持』、さらに『芭蕉』などを書き継ぐが、いわば敗者の「没落」の美を賞揚したのである。
三
伊東靜雄(一九〇六-一九五三)は、実にこの昭和戦前・戦中をほとんどその時代精神に忠実に生きたといえよう。中也や朔太郎が戦争の実体を知りえぬままに逝ったのに対し、静雄は十五年戦争をそのまま文字の記憶に銘した。彼の詩集はほとんど国の歴史とともに刊行されているのである。昭和一〇年、処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』を刊行、昭和一五年には第二詩集『夏花』を、そして第三詩集『春のいそぎ』を昭和一八年には刊行している。戦後の昭和二二年には、口語詩篇中心の第四詩集『反響』を刊行した。
代表詩「わがひとに与ふる哀歌」(同題詩集収録)には詩人の凛質がうかがえる。全20行のうちの最初の4行を抄出しておこう。
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
この恋愛詩は最初の二行の対立する歌いこみから讃歌と哀歌がみてとれる。「太陽は美しく輝き」とは「私たち」の恋愛を寿いでいるようにみえるが、次の「あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ」とほとんど翹望ともとれる詩句には、「私」と「わがひと」の恋愛の不可能を予知している感じも受け取れる。詩集一冊にはドイツ浪漫派ヘルダーリンの影響がいわれているが、ここには時代の予兆、葛藤、がその独特の詩美表現、格調のなかに見られよう。
この四つの詩集とその刊行の事情について簡単にまとめておこう。当時の詩壇・文壇の状況も垣間見られようからである。
処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』(コギト社刊)は昭和七〜一〇年にいたる作品二七篇を収めたものだが、特に保田與重郎の尽力があったといわれる。前年昭和九年創刊の『四季』には保田の次の広告文が載った。「伊東静雄の詩は今日以後の日本の新声の一つであらうと僕には感じられる。彼ほど傷つきやすい世界を熾烈に歌ふ詩人は稀有の異質である。彼は心情をうたふのみでなく、心情で歌ふのだ。彼の魂の歌の調べはつねに古来の詩星の如く多分のイロニーとクセニエン(注:風刺詩)に恵まれている―」。また萩原朔太郎からは逸早く「日本に尚一人の詩人があることを知り、胸の踊るような強い悦びと希望を覚えた」と賞賛を受けている。
昭和一〇年一一月二三日、新宿裏の焼き鳥屋の二階で出版記念会がひらかれた。出席者は萩原朔太郎、室生犀星、三好達治、丸山薫、中原中也、保田與重郎、檀一雄、立原道造、淀野隆三、太宰治、山岸外史、肥下恒夫、芳賀檀、辻野久憲、三浦常夫、酒井百合子などの人びとであった(肥下恒夫以下は「コギト」同人。酒井は、京大時代の恩師酒井小太郎の娘)。
この出版会について檀一雄は戦後「伊東さんのこと」と題して次のようなことを書いている。
「この夜の会合は、日本民族の歴史の上においても、稀有な時間だと私は信じている。/私の左には、中原中也、立原道造、右に太宰がゐた。一人おいて保田、萩原朔太郎等の顔が見られた。たへず屈曲し、たへず動揺する猥雑な僕らの談笑の裡に、氏の美しさは、静かな威厳にみちてゐた。/これを何にたとへることができるであらうか。/仮に辰雄を言ひ、カロッサを言つても、このかけがへのない、静謐の憂悶について、比肩することはむつかしいだらう―。」 (「鬱踏」昭和二五年十一月)
第二詩集『夏花』は昭和一五年刊行で、著者二九歳から三四歳までの作品のうちの二一篇が収められた。これは「一冊の詩集としての緊密な内的秩序と構成が重んじられ」「それは、空気の希薄な、連峰の白雪のその山頂から、高原の花畑に出て来たような、むしろ華やいだ印象を受ける。あるいは斜面の断崖にあやしく咲きみだれる花」のようだとして、この『夏花』が「静雄詩の開花の頂点とみなされる」(林富士馬・旺文社文庫解説)のが一般の見方のようだとしている。
いま、その内実としての詩篇の一つでも紹介したところだが、本節の中心テーマ(戦中の第三詩集『春のいそぎ』の屈折、あるいは展開)のために先を急ぐ。ただ、静雄詩について言を尽くしていた萩原朔太郎の言葉の一部を引いておきたい。
「わがひとに与ふる哀歌」は、なんといふ痛手にみちた歌であらう。伊東君の抒情詩にはもはや青春の悦びがどこにもない。たしかにそこには、藤村氏を思はせるやうな若さとリリシズムがながれて居る。だがその「若さ」は、春の野に萌える草のうららかな若さではなく、地下に固く踏みつけられ、ねぢ曲げられ、岩石の間に芽を吹かうとして、痛手に傷つき歪められた若さである。―」(『コギト』昭和一一年一月号 「伊東静雄君の詩について」)
第一詩集についての批評だが、このような「痛手にみちた」「青春の悦びがどこにもない」、凛質の詩人が時代にどう向きあっていったのか。静雄詩の「赴いた場所」に「ほとんど関心がもてない」(菅野昭正)、「詩的創造力」の「急速な退潮」(磯田光一)ともいわれる、昭和一八年の刊行の『春のいそぎ』について考えていきたい。
「春のいそぎ」の「いそぎ」は古語で準備・支度の意味だが、「春の準備」とはどんな意味か。
この詩集には冒頭に自序があって、詩集の名前の由来について書いている。
詩集 春のいそぎ自序
草蔭のかの鬱屈と翹望の衷情が、ひとたび 大詔を拜し皇軍の雄叫びをきいてあぢわつた海闊勇進の思は、自分は自分流にわが子になりとも語り傳へたかつた。そこで、大詔渙發の前二年、後一年餘の間に折にふれて書きおいたものを集めて、一册をつくつたのである。その草稿をととのへて、さて表題の選定に困じてゐた時、たまたま一友人が伴林光平が
たが宿のいそぎかすみ賣の重荷に添へし梅の一枝
の一首を示されて、ただちにそれによつて、「春のいそぎ」と題した。大東亞の春の設けの、せめては梅花一枝でありたいねがひは、蓋し今日わが國すべての詩人の祈念ではなからうか。
昭和一八年四月 伊東靜雄
最初の三行ほどに静雄のこのたびの大戦にたいしての構えが文章・言葉に表れていよう。「草蔭のかの鬱屈と翹望の衷情」「大詔を拜し皇軍の雄叫びをきいてあぢわつた海闊勇進の思」は、いえば当時の政府・国民一体の水位(レベル)をそのまま表していよう。ただ、「春のいそぎ」の標題が出来た経緯について、ここでは文面以上のものが語られている。「一友人」とは保田與重郎のことだが、幕末の国学者・勤王志士の伴(とも)林光(ばやし みつ)平(ひら)、天誅組の変(一八六三年)で刑死したこの志士の歌を紹介した保田の美学と、それに呼応した静雄の心持ちが推量される(保田は、伴林の『南山踏(なんざんしゅう)雲録(うんろく)』という、獄中で書いた義挙の記録の校註書をものしている)。すなわち、「大詔を拜し」て始まったこのたびの戦争、その「大東亞の春の設け」となるべく、詩集が編まれたということである。
当然ながらこの『春のいそぎ』一集には、自序に見られたような、〈戦争詩〉と呼ばれるものが含まれている。が、初の文庫本となった『伊東静雄詩集』(新潮文庫・昭和32)には、それらの詩篇が編者の配慮のもとに割愛されたという事情があるようだ。碓井雄一氏によると(「群系」九号「伊東静雄の「全集」と「文庫本」・覚書」一九九六年)、新潮文庫版は生前に計画されていた創元選書版『伊東静雄集』(昭和二八年)を元型としていたそうだが、「戦後」という時代の空気への見計らいがあった。編者のひとり桑原武夫によると、「(書店からは)戦争詩は必ず除くという条件で承諾が与えられた。彼の戦争詩は便乗的なものではなく、また彼を知る上にも必要だと考えたが、彼は深く恥じている模様なので、やむなく、『春のいそぎ』自序と、『わがうたさへや』『那智』『久住の歌』『述懷』『海戰想望』『つはものの祈』『大詔』の七篇は収録を控えることにした」―。(桑原・解説)
「彼の戦争詩は便乗的なものではなく」また「彼を知る上にも必要だと考えた」が「彼は深く恥じている模様なので」とあるところに注意したい。その通り、「便乗的なものではなく」「彼を知る上にも必要だ」といえよう。ここで、〈戦争詩〉とはそういうものか、これはすべて忌避されるべきものなのか、問題提起も含めて、幾篇か紹介したい。まず、冒頭の典型ともいえる「わがうたさへや」の全部。
わがうたさへや
おほひなる 神のふるきみくにに
いまあらた
大いなる戰ひとうたのとき
酣にして
神讚(ほ)むる
くにたみの高き諸聲(もろごゑ)
そのこゑにまじればあはれ
淺茅がもとの蟲の音の
わがうたさへや
あなをかし けふの日の忝なさは
(昭和一七年「文芸世紀」4月号発表。原題「讃歌」)
旺文社文庫版『伊東静雄集』(林富士馬編・昭和48年)にはその割愛部分も含め二八篇全部が復刻されている。静雄に兄事したという林の愛情のこもった丁寧な解説によると、二連の前のほうは行段を高くして公の詩人として、後の連では行を低くして、その公に対して、「わがうたさへや」と私(わたくし)を歌っている、という。昭和一五年六月中旬、池田勉宛ての手紙には以下が書かれていたという。「そしていよいよ明らかになったことは則天去私といふことが大切といふことと、文学は決して直接個人の生活と体験をのみ土台としてはいけないといふ覚悟であります。それと同時に、各自の苦しみを我慢して公の仕事をして行く、人間のいとほしさをしみじみと感ずるのです」。
漱石の語句も引用されているが、この手紙内容もあわせて考えると、静雄はほとんど万葉の宮廷歌人かと思われる。柿本人麻呂のとき大君は神になった、といわれるが(天武天皇時)、いまの現人神のもと、文字を扱う大君の赤子の任務をまっとうしたいという詩人の赤心が表現されていよう。むろん戦後的な視点からの批判はありえよう。あの時代、国民ならば時代に流されたといえようが、詩人が流されたといいえるのか。戦場の現実、悲惨に思いを致す想像力はなかったのか。確かに、その視点からの批判は免れまい。静雄研究者の三宅武治も「この太平洋戦争のとき、伊東静雄は、多くの国民がそうであったように、興奮し宣戦の詔勅をありがたく拝している」「南方の戦地へ人が徴用されていくことをまるで観光旅行のように思っている」(友人の蓮田善明宛て手紙に対して)「伊東静雄は身体検査で丁種であったため、戦場に狩り出される心配はまずなかった」などと、このたびの戦争に対して、伊東静雄には否定的な感情はうかがえないと、その書簡・日記などから実証している(三宅著『伊東静雄 その人生と詩』一九八二年・花神社)。
が、例えば反戦詩が戦争の実体を描きえないように(そも、反戦詩が詩であるのか)、詩表現はその一語一語の詩句表現の総体を玩賞することによって、その表わさんとした内容があらためて読者に伝わるものである。「戦争」や「戦火」を美しいと表現した詩人の感受性を否定していいものか。その点で「海戰想望」は詩人の凛質をうかがうことのできるものであろう。
海戰想望
いかばかり御軍(みいくさ)らは
まなこかがやきけむ
皎たる月明の夜なりきといふ
そをきけば
こころはろばろ
スラバヤ沖
バタヴィアの沖
敵影のかずのかぎりを
あきらかに見よと照らしし
月讀は
夜すがらのたたかひの果
つはものが頬にのぼりし
ゑまひをもみそなはしけむ
そのスラバヤ沖
バタヴィアの沖
「スラバヤ」はジャワ島の港。「バタヴィア」は現在のジャカルタのこと。先の林富士馬は「独自の物語のような、美しい戦争詩」として、「私には非常に好きな作品」としている。
異国の情景を初めて見た皇軍兵士の視点から書いている。「月讀」は、月の別称。満月は敵影を明らかに照らしている。「月讀」を主語とした述語は「みそなはしけむ」、つまり、我が軍の勝利を寿ごうとしているのだ。
明らかな戦意高揚の〈戦争詩〉であろう。だが、読後に残る印象はそれとははるかにへだたったある情景(シーンナリー)であろう。それこそ初の異国、初の戦い、いつもの月明かりが自分らに味方している、そのういういしさ、「スラバヤ」「バタヴィア」の語彙が新鮮である。
この『春のいそぎ』には、七篇の戦争詩があると書いた。逆にいえば、その他は戦争のことではない日常を描いたものだ。これらの詩篇が挟まれることによって、詩集は複層的な価値があるといえる。
菊を想ふ
垣根に採つた朝顏の種
小匣(こばこ)にそれを入れて
吾子(あこ)は「藏(しま)つておいてね」といふ
今年の夏は ひとの心が
トマトや芋のはうに
行つてゐたのであらう
方々の家のまはりや野菜畑の隅に
播きすてられたらしいまま
小さい野生の漏斗(じやうご)にかへつて
ひなびた色の朝顏ばかりを
見たやうに思ふ
十月の末 氣象特報のつづいた
ざわめく雨のころまで
それは咲いてをつた
昔の歌や俳諧の なるほどこれは秋の花
――世の態(すがた)と花のさが
自分はひとりで面白かつた
しかしいまは誇高い菊の季節
したたかにうるはしい菊を
想ふ日多く
けふも久しぶりに琴(こと)が聽(き)きたくて
子供の母にそれをいふと
彼女はまるでとりあはず 笑つてもみせなんだ
(昭和一六年一二月一日「日本読書新聞」)
この詩の脚注解説(林)をそのまま引きたい。
「大東亜戦争勃発の一二月八日の直前であるが、当時の世相は既にこの詩にある如く、日支事変のために、国民は食糧の不足に困窮し都会の家のまわりの庭や小さな空地は、野菜畑に早変わりして、どこの家でもトマトや芋づくりに励んだものだった。/従って食糧にもならぬ朝顔なんぞは人から見向きもされず、野の花に還ってしまう。朝顔の種を保存しようとするのは子供くらいものである。その朝顔の花が、庭の垣根の隅で、小さい野性の漏斗になって、ひなびたまま、十月の末まで、ざわめく雨に打たれて咲いているのを見ているのは詩人である。/しかしいまは菊薫る空きの季節でもあるのだ。菊というと琴を聴きたくなるのが、我ら風流人を心がけている者の風雅というものでもあるのだ。しかし、子供の母親は生活に追いかけられて、そんなことを言ってみても、とりあっている暇もない」―
これら詩篇からうかがえるのは、庶民生活の哀感(生活苦とも)であり、典雅な伝統への慕いであり、あるいは季節のめぐりへの敏感な感受性ともいいえよう。個の感傷というよりも、家族もあわせた種の感情、思いを書いた。自己勘定を戒めた分だけ、詩には格調と調べが生れているといえる。
生きた時代が不幸だったといえようが、狭小な時代だったからこそ、凝集するものがあった。
四
さて、昭和前半の風景を語るのに、ぜひとも引いてみたい文学者がいる。詩人・逸見猶吉(一九〇七-一九四六)である。没後年からわかるように、敗戦からまもなく死んだ。それも異国の地満州、当時の新京(長春)で。栄養失調と肺結核のためだった。享年三八歳。その人生と残した詩篇は、ほとんど日本という国家の野望、辺境への夢がつづられている。年譜的事実をそのまま引く。
明治四〇年(一九〇七年)〜昭和二一年(一九四六年)。栃木県旧谷中村(現・藤岡町)出身。本名は大野四郎。『詩と詩論』『新詩論』『歴程』などに作品を発表。草野心平、中原中也等と詩誌『歴程』を創刊。昭和一二年、日蘇通信社新京駐在員として渡満、昭和二一年、肺結核、栄養失調のため、現地で死去。享年三八歳。死後に『逸見猶吉詩集』(昭和二三年十字屋書店刊)が刊行された。
詩人の詩篇中もっともこの時代を表象していると思われる一篇を引き、その内実と当時の時代を考えてみたい。
報告(ウルトラマリン第一)
ソノ時オレハ歩イテヰタ ソノ時
外套(ガイトウ)ハ枝ニ吊ラレテアツタカ 白樺ノヂツニ白イ
ソレダケガケワシイ 冬ノマン中デ 野ツ原デ
ソレガ如何(ドウ)シタ ソレデ如何シタトオレハ吠エタ
5 《血ヲナガス北方 ココイラ グングン 密度ノ深クナル北方 ドコカラモ離レテ 荒涼タル ウルトラマリンノ底ノ方ヘ――》
暗クナリ暗クナツテ 黒イ頭巾(ヅキン)カラ 舌ヲダシテ
ヤタラ 羽搏(ハバタ)イテヰル不明ノ顔々 ソレハ
目ニ見エナイ狂気カラ転落スル 鴉ト時間ト
10アトハサガレンノ青褪(ザ)メタ肋骨ト ソノ時オレハ
ヒドク凶(イ)ヤナ笑ヒデアツタラウ ソシテ 泥炭デ アルカ
馬デアルカ 地面ニ掘ツクリ返サレルモノハ 君 モシル
ワヅカニ一点ノ黒イモノダ
風ニハ沿海州ノ錆ビ蝕(ク)サル気配ガツヨク浸ミコン デ 野ツ原ノ涯ハ監獄ダ
15歪(ユガ)ンダ屋根ノ 下ハ重ク 鉄柵ノ海ニホトンド何モ見エナイ
絡ンデル薪ノヤウナ手ト サラニソノ下ノ顔ト
大キナ苦痛ノ割レ目デアツタ 苦痛ニヤラレ
ヤガテ霙(ミゾレ)トナル冷タイ風ニ曝(サラ)サレテ
アラユル地点カラ標的ニサレタオレダ
20アノ強暴ナ羽搏キ ソレガ最後ノ幻覚デアツタラウカ
弾創ハ スデニ弾創トシテ生キテユクノカ
オレノ肉体ヲ塗抹(トマツ)スル ソレガ悪徳ノ展望デアツタ
カ
アア 夢ノイツサイノ後退スル中ニ トホク烽火 ノアガル
嬰児(エイジ)ノ天ニアガル
25タダヨフ無限ノ反抗ノ中ニ
ソノ時オレハ歩イテヰタ
ソノ時オレハ歯ヲ剥(ム)キダシテヰタ
愛情ニカカルコトナク 瀰漫(ビマン)スル怖ロシイ痴呆ノ底
ニ
オレノヤリキレナイイツサイノ中ニ オレハ見タ
30悪シキ感傷トレイタン無頼ノ生活ヲ
顎ヲシヤクルヒトリノ囚人 ソノオレヲ視ル嗤ヒヲ
スベテ痩(ヤ)セタ肉体ノ影ニ潜ンデルモノ
ツネニサビシイ悪ノ起源ニホカナラヌソレラヲ
《ドコカラモ離レテ荒涼タル北方ノ顔々 ウルトラマリンノスルドイ目付
35 ウルトラマリンノ底ノ方ヘ――》
イカナル真理モ 風物モ ソノ他ナニガ近寄ルモノ
ゾ
今トナツテ オレハ堕チユク海ノ動静ヲ知ルノダ
二連37行から成る。「ウルトラマリン」は、群青色のことであるが、元は青金石という鉱物をいい、産地のアフガニスタンからローマなどの文明圏に伝わった、海を越えてきたのでこの名がある(仏教圏では瑠璃色と呼ばれた七宝の一つ)。「ウルトラマリン」と題された詩篇はこの「報告」を含め、三篇ある。つづく二篇は「兇牙利的(ウルトラマリン第二)」「死ト現象(ウルトラマリン第三)」で、これらの発表で詩人は一躍注目された。
この詩のトポス・ベクトルをあげてみたい。まず、10行目「サガレン」とあるのは樺太(サハリン)の別名、14行目「沿海州」はロシアの樺太に隣する地域。そのうち樺太は日露戦争の賠償で得た領土であり(憧れた詩人もい、出身の人も多い)、また沿海州も一九二〇年の尼港事件(六千人にも及ぶ赤軍による住民虐殺事件)の都市尼港(ニコラエフスク)がその北辺にあったことで、当時知られていた。その他3行目「冬ノマン中デ 野ツ原デ」、5行目「血ヲナガス北方」、15行目「鉄柵ノ海」など、イメージを重ねている。
一見して、茫漠とした北辺、そこを歩く人間の荒涼とした内面がうかがわれる。大震災後の経済不況、農村の凶作、そして暗殺などの頻発といった世相のなか、それを外地開拓(侵略)で切り抜けようとした当時の政府・軍部、そして出来た満州国、さらに中国とソ連との隣接での対峙・軋轢が想像される(ノモンハン事件は昭和一四年)。詩篇自体は比較的早い時期(昭和三年秋)に出来たようだが、昭和の外延(情景)と内面(心理)が象徴されていたといえる。
詩篇における「オレ」に真っ先に気づき、高く評価したのは吉田一穂であった。昭和五年三月発行の「詩と詩論」に「詩集に関するノート」が掲出されたが、そこに論じられた批評を引く。
私はこの中から初めて詩人・逸見猶吉の詩「ウルトラマリン」を声をあげて推讃する。その最も新しい尖鋭的な表現・強靭な意志の新しい戦慄美、彼は青天に歯を剥く雪原の狼であり、石と鉄の機構に擲弾して嗤ふ肉体であり、ウルトラマリンの虚無の眼と否定の舌、氷の歯をもったテロリストである。
尾崎寿一郎著の『詩人 逸見猶吉』(二〇一一年一一
月・コールサック社刊)は、群馬谷中村の生地から、北海道根室まで詩人の影を追って歩き聞きつけた、まれに見る実証と思索の労作であるが、そこに詩篇に関しての詳しい註がある。例証と考察、そして詩人への透徹した理解がうかがわれるので、以下それによりながら、「ウルトラマリン第一」とされた「報告」を点検・鑑賞していきたい(各見出しも尾崎氏)。
獣性「オレ」の出現
この詩は、逸見の訣別の「報告」である。一つは自分の中の唾棄すべきものへの訣別、もう一つは世相に背逆することを意志した訣別である。「ソノ時」とは、気付いた「時」であり、「冷静非情な」意志が体内に充満してきた「ソノ時」である。存在理由の不確かだった者が、精神の足場をつかんだ「時」でもあった。逸見の内部に、獣性の「オレ」が巣食った「ソノ時」であった。
「外套」は包み保護してくれるもの。それが「枝ニ吊ラレテアツタカ」。歩行先には、そんなものはない。確かにそれは「白樺ノヂツニ白イ」もので、潔癖の象徴でもあろう。それが険しい「冬ノマン中デ」「野ツ原デ」印象されたが、詩人は即座に「ソレガ如何シタ ソレデ如何シタトオレハ吠エタ」のであった。炉辺の幸福を捨て、険しい道を行く獣性「オレ」の出現である。
ここで詩人の出自を今一度示しておきたい。これは詩篇鑑賞の決定的カナメとなる事項であるからである。冒頭の年譜でも触れたが、逸見猶吉は、群馬県の旧谷中村で生まれた。周知のように、ここは足尾鉱毒事件の現場である。本名は大野四郎。祖父は初代谷中村村長、父は二代目村長であった。その四男として、谷中村の残留者の家が強制破壊を受けた明治四〇年七月の二ヶ月後、谷中村から古河の旅館に避難していて生まれた。大野家は資産家で、渡良瀬川と思川という二つの川を跨いで、下総、下野、武蔵の国を繋ぐ三国橋という舟橋をつくったり、子どもはそれぞれ大学に入れていた(次兄は、二・二六事件取材の新聞記者・和田日出吉であるが、のちに満州にわたり、『満州新聞』の経営をまかされた。その縁もあり四郎(逸見)を満州へ呼ぶことになる)。
足尾銅山は江戸時代から掘削されたが、明治十年古河市兵衛が買い取り経営に乗り出す。同一三年には渡良瀬側の鉱毒が問題になっており、魚の売買が禁じられた。古河は当座の示談金でことを収めようとしたが、後に被害が拡大、大きな反対運動になっていった。明治二七〜二八年は日清戦争で銅の需要も拡大し、鉱山は発展した。
谷中村は、渡良瀬川の氾濫が相次ぎ(これは鉱山採掘のため周囲の山林を伐採、いわば環境破壊のせいでもあった)。鉱毒は近県のみならず帝都にも及んだ。それで政府はその対策として、谷中村一帯を貯水池にしようと企み、県庁も郡長もそれにならった。父の村長・大野東一もそれに呑み込まれた。いわば政府・資本家の企みにのらされたのである。鉱毒の拡散により大野一家も東京へ移住。足尾鉱毒事件闘争の中で、父の裏切りともいえる行動(古河鉱業側に寝返った)は、猶吉の心に重荷となって詩作にも決定的な影響を与えた。
幾度かの河川氾濫、そのたびの鉱毒流出にもかかわらず(また政府の抑圧にもかかわらず)谷中村はじめ近隣村民の抵抗と忍従は大きかった。明治三一年の大洪水のときは堤防が決壊、田畑は毒原となった。被害民は雲竜寺に結集し、請願のため上京しようとするが、憲兵や警官隊に阻まれ、多数の負傷者・連行者を生んだ(川俣事件)。三三年、田中正造は「亡国に至るを知らざれば、これ即ち亡国の儀に付質問」を議会に付きつけ、翌三四年議員も辞職、一二月には死を覚悟して、天皇の行列に直訴に及んだ(狂者扱いで取り下げ)。
三六年政府は洪水緩和のため、渡良瀬川に遊水地を作ることになった。谷中村遊水地化である。正造は谷中村に住み込み、政府と県庁に反対運動を始める。が買収に応じた村民もいて、残ったのは二〇〇戸余りだった。これから後、田中正造と村民の悲惨な戦いが続くが、割愛する(荒畑寒村に『谷中村滅亡史』があり、また戦後正造の闘いを描いた「襤褸の旗」が公開された。吉村公三郎監督、三國連太郎主演)。
移民したのは栃木県内のみならず、北海道などにも新しい「谷中村」ができた。網走に近いサロマベツ原野などに入植した村民もいた(これは逸見の詩に出てくる)。
詩句の註、解説に戻ろう。
5〜6行目の《 》の付いた箇所は、独白であり、下降への呪文である。「血ヲナガス北方」は、北方の悲惨であり苛酷。「ココイラ グングン 密度ノ深クナル北方」は、冥界への下降だ。「ドコカラモ離レテ」は、世相に背逆して単独で、の含み。「荒涼タル」群青色の「底ノ方ヘ」と意志している。
世情・国情という内患
7〜11行目は世相の一面を語っている。「暗クナリ暗クナツテ」は、昭和初期の金融恐慌、山東出兵、共産党員の大検挙、労働組合等の解散命令、張作霖の爆殺などが相次いだ。「黒イ頭巾カラ舌ヲダシテ/ヤタラ 羽搏イテヰル不明ノ顔々」は、弾圧・検挙を避け、物陰で批評する行動力のない知識人を指すだろう。
「目ニ見エナイ狂気カラ転落スル」は国家の「狂気」だろう。関東軍は既に大陸侵攻という導火線を引いていた。政府も「国民精神の作興」を唱え、引き締めを始めていた。「転落スル」「不明ノ顔々」は、国家の狂気から、黙したり、協力者になったりすることをいおう。「鴉ト時間ト」は、鴉の群れ騒ぎ(大衆を意味するか?)と無為に流れる時間。「アトハサガレンノ青褪メタ肋骨ト」の「サガレン」(樺太)は日露戦争で得た領土。領土拡大願望は昭和に入って強まっていた。干魚に似た樺太(サハリン)から、その願望を「青褪メタ肋骨」と揶揄している。「ソノ時オレハヒドク凶ヤナ笑ヒデアツタラウ」は、そうした国家の行動・狂気に何もできない我が身を自ら嘲笑している。
11行目下から13行目は「北海道に強制的に追いやられた栃木開拓移民団を思いやってのイメージである。「泥炭」や「馬」不足などの苦労を思いやり、「地面ニ掘ツクリ返サレルモノハ/ワヅカニ一点ノ黒イモノダ」と収穫の貧困、虚無への落胆を思いやっている。「キミモシル」は唐突だが、獣性「オレ」に声をかけられた本来の自分である。逸見語の多くは以後、「オレ」と「君」の内部対話や葛藤で形成されていく。
「沿海州ノ錆ビ蝕サル気配ガツヨク浸ミコンデ」は、ロシア領から吹き込む北北西の風は、北海道を締めつける。「錆ビ蝕サル気配」は風の無情、をいおうが、次の行の「鉄柵ノ海」との縁語であろう。「野ツ原ノ涯ハ監獄ダ」は網走を指し、監獄同様の入植地サロマベツ原野をも指している(この詩が『学校』第七号に発表された時、その末尾には「一九二八年秋・函館」にて付記してあった。函館で沿海州を思い網走を想起したことになる)。「歪ンダ屋根」は、歪んだ生活の重さであり、「鉄柵ノ海」は、軍国化・右傾化の閉鎖的な日本をいい、この国の明日は「ホトンド何モ見エナイ」としている。
内患の妄想と自虐
16行から逸見内部の葛藤に代わる。内憂どころか内患である。「絡ンデル薪ノヤウナ手ト サラニソノ下ノ顔ト」は、鉱毒闘争の田中正造や谷中残留村民の苦渋に満ちたイメージである。木訥な「薪ノヤウナ手」が絡んでいる。薪のような腕の下の「顔ト大キナ苦痛ノ割レ目」がが、胸に迫る。「苦痛」が心の「弾創」に浸み入り、霙まじりの「冷タイ風」、孤立に「晒サレテ」、四方からの非難の「標的ニサレタオレダ」。それを「強暴ナ羽搏キ」で蹴散らしたつもりだったが、だがあれは「幻覚デアツタラウカ」。「弾創」はそのまま抱いて生きて行くしかないのだ。
22行「オレノ肉体ヲ塗抹スル」は、オレの人生に塗りたくられたのはだ。それは「悪徳ノ展望」しかなかったのか。もろもろの「夢」が「後退スル」中に「トホク烽火ノアガル/嬰児ノ天ニアガル」のは、内面の遠くに上がる闘いの合図と、無垢な自分の魂の天への預け入れだ。これから続くさすらいの「無限ノ反抗ノ中ニ」。これは掻き立てられた血の予想と決意である。
獣性「オレ」の総括
二連の「ソノ時オレハ歩イテヰタ」は、弾創を抱え生き抜こうとする者の反復。さらに「ソノ時オレハ歯ヲ剥キダシテヰタ」のだ。「愛情」などには眼もくれず、「瀰漫スル怖ロシイ痴呆ノ底ニ」は、おそらく酒びたりの底にだ。「ヤリキレナイイツサイノ中ニ オレハ見タ」という。悪い感傷的な「無頼ノ生活ヲ」、そーれみろ、と「顎ヲシヤクルヒトリノ囚人」が嗤う。この「囚人」とな忠告の友、あるいは自分の良心か。そして、「スベテ痩セタ肉体」は女性であり、女体の「影ニ潜ンデルモノ」がオレを誘惑してやまない「悪ノ起源」であることを、となる。
34〜35行は「オレノヤリキレナイイツサイ」(29行)の浄化を乞う呪文である。「ウルトラマリンノスルドイ目付」に、射抜かれたいのだ。荒涼とした孤絶の群青色の底にこそ、オレの精神を鍛え直す糧があるといいたいようだ。36〜37行は、オレの拒絶・断言である。「真理」は正しい道理にことだが、モれは絶対的なものではなく、真理や正義はいつの時代も権力がからむ。「風物」は、眼に見えるすべての現象。「ソノ他ナニガ近寄ルモノゾ」は、何ものも近寄ってこられるものかで、そういう場にオレは立とうとしているということ。「今トナツテ」は。事ここに至ってだ。「堕チユク海ノ動静」は、海が堕ちるのではない。「堕チユク」は、崩れ衰えゆくの意で、「海」はこの世の喩である。傍観者でなく、凝視する者として知ろうとするのだ。
ほとんど、尾崎氏の文章を引いたが、氏が詩句のなかでも極上としているのは、11行目以降の「泥炭デアルカ/馬デアルカ 地面ニ掘ツクリ返サレルモノハ 君モシル/ワヅカニ一点ノ黒イモノダ」というところで、「泥炭」や「馬」がどうしたといわずとも、「一点ノ黒イ」虚無に落ちていく開拓者の映像が伝わってくる、という。
逸見の北方志向は、谷中村鉱毒事件の田中正造と開拓移民団のやり切れない思いを胸に抱き、北方の非情を詩に摂り込んだ彷徨であった。
昭和一二年一月に日蘇通信社新京駐在員として渡満、一四年六月満州生活必需品配給会社弘報課に勤務。一三年一〇月に『満州浪漫』が創刊され(北村謙次郎・長谷川濬(しゅん)編集)二号作品を投稿、以下満州在留中にいくつかの詩篇を発表している。二一年五月一七日早朝、新京市の自宅で死去。妻子もその直ぐ後に病死した。
一詩人の詩篇であるが、ここからはいわば昭和のこの国の哀傷と傷痕がそのままうかがわれるのだ。 (了)
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「近代の超克」試論
―不可視のジグゾーパズル―
草原克芳
「曖昧で散漫な座談会」のシンボル作用
■昭和十七年の夏七月に開かれた「近代の超克」座談会について、これまで多くの角度から考察されてきた。
このシンポジウムは、真珠湾攻撃(半年前の十二月八日)の興奮のいまだ醒めやらぬ中、「文学界」誌上で、文学、哲学、宗教、科学、歴史など、十三人の識者が一堂に会し、「西欧近代の本質」とその「超克」の方向性を論じた記録である。河上徹太郎、亀井勝一郎、小林秀雄ら文学界、日本浪曼派グループの呼びかけに応じて、西谷啓治、鈴木成高、下村寅太郎など京都学派の学者が応じたもので、「これだけの人数の一流の人たち」(司会/河上)という十三人の知識人が集まった「知的協力会議」と称するものである。実は、彼ら学者文化人にはまったく知らされていないが、直前の六月、ミッドウェイ海戦で、帝国海軍の空母四隻壊滅という大敗を期している。その事実を知らないままの意気揚々たる会議であった。
戦後は長らく、「戦争とファシズムのイデオロギー」としてタブー視され、昭和三十年代半ばあたりから、ようやく竹内好らによる再評価が始まった。
以前、この歴史的と称される座談会を読んだときには、はなはだ曖昧な印象を受けたに留まり、今日までそのまま放っておいた。何しろ開戦半年後のこの座談会は、ルネッサンスとは何か、という問いかけから始まるのである。後の竹内好も「いま読み返してみると、これがどうしてそれほどの暴威をふるったのか、不思議に思われるほど思想的には無内容である」といっている。また「各人各説を述べあっているが、結局『近代の超克』とは何かということは明らかにされていない」と断じている。
文学界同人の中村光夫にすら、「近代の超克」という課題は、「何となく僕等には解ったやうな解らぬやうな曖昧なところがあるのではないだろうか」などと皮肉られている始末である。この中村は実際に、座談会ではほとんど発言していない。むしろその超然ぶりが、戦後評価されている。司会者河上徹太郎の面目、丸潰れである。
わたし自身も、あまりにもこのシンポジウムに、戦局をアジテートした知識人達、妥協したインテリ達の戦争協力者的な発言の宝庫、彼らがひた隠しに隠しておきたい言説のアンソロジー、といったような下司な期待と偏見を持ち過ぎたためか、実際にはそこまでけばけばしいものではなかったので、いささかガッカリした。ところが最近になって、埃を被った本の表紙から、何やらキナ臭い不吉なオーラや妖しい燐光が狼煙のように立ち昇っているのを感じて、再び手に取った次第である。
??「近代の超克」論としては、前出の竹内好ほか、廣松渉、子安宣邦などの名著がある。この座談会の内容が曖昧で多義的なせいか、「小説」の解読のように、時代時代の光線が別の角度から照射され、新たな像が浮かび上がってくるような不思議な性格があるようだ。
以前、このシンポジウムを読んだ大雑把な印象では、ところどころ興味深い指摘は見られるものの、全体的には散漫な印象が強かった。まず、司会者の河上徹太郎がつけたタイトルがわからない。彼自身、「近代の超克」というキーワードは、「符牒みたいなもの」であり、「かういう言葉をひとつ投げ出すならば、皆さんにピンとくるものが今はあるだろう、さういう所を狙って出したのです」などといっている。司会者本人が「符牒」といい、竹内のような批評家が「明らかにされていない」と批判している「近代の超克」の禅問答のような内実とは、何か。
■「近代の超克」というコンセプトは、あまりにも抽象的であるが、しかし、何か「匂う」ものがあることも、確かなのだ。巻頭論文や、文学界と京都学派両グループのいささか噛み合わない座談会を読み進むにつれて、彼らの言う「近代」とは、ヨーロッパが主導してつくりあげた機械・物質文明と、覇権に成功しつつある地上の広大な時空間を意味し、欧米の植民地主義・帝国主義とほぼ同義語らしい、ということが見えてくる。
その「連合?帝国」勢力に対して、極東から初めて異を称えたのが、開戦当時の「アジアの盟主日本」であり、その哲学的理念設定や、敵の思想原理の解析、民族の心情の芸術的表現、及び批評を行うのが、日本の知識人たるわれわれ「=これだけの人数の一流の人たち(河上)」である、というのが、彼らの意気込みである。
「大東亜の建設」という日本のヴィジョンは、ヨーロッパ物質文明の覇権主義に対する世界史的意義と正当性を持つはずのものだ。アジア内部のいささか後ろめたい戦いであった日中戦争はともかく(これはむろん方便のはずだ)、昭和十六年十二月八日以来、今度こそは鉾先を変え、真の敵たる鬼畜米英が相手であり、ここに堂々たる世界史的「大義」「使命」が成立した……というのが当時の日本の知識人の抱いたナルスティックな自己納得のストーリーであろう。
■直接的な戦争肯定論は、たとえば亀井勝一郎による巻頭論文の末尾「戦争よりも恐ろしいのは平和である。(略)奴隷の平和よりも王者の戦争を!」などの挑発的言辞に見られるものの、そこに到る論理は、一応はニュートラルな文明論であり、西欧近代文明の「毒」の検診である。また、林房雄の奇妙に自伝的な「勤皇の心」という論文がそのまま、戦意高揚へと結びつくわけでもない。となると、印象は曖昧であり、下心を持って覗いた読者としては、はなはだ座り心地の悪いことになる。せっかく「戦争とファシズムのイデオロギー」として読むつもりで身構えていたのに、十三人の参加者は、退屈なことに、ルネッサンスや、神や、ベートーベンや、精神の問題ばかり論じているのだ。
つまりこの座談会は、すでに始まってしまった戦争に対する昭和十七年当時の知識人たちの「自己納得の内的論理」の心境表明集と見れば良いのであろうか。河上によれば、この会議は「開戦一年の間の知的戦慄」のうちに企画されたものだそうである。戦争の与える戦慄に、知的なものとそうでないものとがあるらしい。これもまた、実体のない符牒のようなハッタリ語のように聞こえる。しかしこの座談会が、内実がはなはだ曖昧なくせに、誘蛾灯のように読者を引きつける要素は、いったい何なのか。意味不明の「禅問答」に過ぎないのか。後世になってもまるで漱石や?外の「小説」のように、繰り返し、新たな光線が当てられて論じられるこの座談会の生命力、あるいは磁場の中心とは、いったい何なのか。表層的に読み取れる以上の何かが、アプローチを変えることにより、沼地の奥底にぼんやりと透視できはしまいか。
??その辺りの疑問を元に試めし掘りをしてみたい。
京都学派と「文学界」グループの齟齬
■時代には機運というものがある。先ほど「世界史的意義」に触れたが、ひとつ下世話な事実を挙げておけば、この文学界「近代の超克」シンポジウムが、同年一月(約半年前の開戦直後。その後三回に渡る)の中央公論「世界史的立場と日本」の大反響へのリアクション的側面を持っていたとの見方もあるようだ。これは高坂正顕、鈴木成高、西谷啓治、高山岩男(京大四天王)らの参加による日本の世界史的使命を論じたものである。((1))
この対抗意識、便乗主義、といって悪ければ、時代的に共有された問題意識を考えるならば、「近代の超克」というタイトルは、文脈上は自然かもしれない。これは、西欧近代の覇権に対して、日本があるポジションを得て、世界史の調整を行うという民族的かつナルシスティックな自己イメージの啓蒙である。もちろん、河上、小林、亀井らの雑誌ジャーナリズム的狙いにそういった下心があるにせよ、これは当時、「大東亜戦争の意義」を論じる企画を、それだけ熱心に貪り読んでくれる一般読者層がいたということを、意味している。
ところが実際の座談会となると、京都学派の西谷・鈴木ら、(中央公論座談会の参加者)をはるばる遠方から招いておきながら、「文士」と「学者」間の不協和音が目立つ。この座談会が「惨憺たる結果」「思想的に無内容」(竹内好)に終わったというのは、その議論の重量感だけではなく、雑誌の座談会企画としての仕上がり??読み物としての充実度??が、薄いということでもある。
河上・小林間の「符牒的」で閉鎖的なやりとりにより、かなり重要な問題の芽が摘まれてしまったり、思想的というより、むしろ警句的な一言や啖呵めいたモノ言いで、話が切り上げられ、中途半端に次の話題に移ってしまったりしている、などの不満も残る。
■例えば、座談会二日目の「機械文明」「機械を作った精神」を論じるべきだとの下村寅太郎、鈴木成高や菊池正士らの指摘に対して、河上徹太郎は「機械文明は超克の対象になりえない」「精神にとって機械は眼中にない」「機械は量の問題に過ぎない」「機械と戦ふものはチャップリンとドンキホーテがあれば沢山だ」など、唖然とするようなことをいう。日本で最も初期に、蓄音器という機械の恩恵を受け、西洋クラシック音楽の成果を享受してきた人間の言葉とは、とうてい思われない。
そもそも、このシンポジウムの主題群、「ルネッサンス・中世・神?機械?物質文明?合理主義・啓蒙主義?無神論と自我(ニーチェ・ドストエフスキーの問題)?精神と魂の否定?帝国主義・植民地主義の克服?主体的「無」?近代をいかにして超克するか」は、緩やかに一括りされるべき観念連合ではなかったのか。
デカルト・ニュートン以降の科学、その背景にある合理主義的な説明体系「明晰への意志」に貫かれた世界イメージが、純理的分野から、ある種の政治的堕落をきたし、ヨーロッパ的な「知と権力」を根の部分で結びつけ、帝国主義・覇権主義・アジアの植民地化という、弱肉強食思想そのものの肯定論理となってきたように思われる。ここに白人種主体の巨大な優生思想の濁りを嗅ぎつけてしまうのは、行き過ぎであろうか。
この機能的な「力」中心の抑圧的パラダイムを、極東の島国日本が糾弾するからこそ、世界史的使命(京都学派/世界史の哲学)が成立し、日本古典の再検証の気運(日本浪曼派)が醸成される、というのがこのシンポジウムの前提であり、共通見解だったのではないか。そのような時代の空気から、ルネッサンスから近代にかけての文明創造の諸原理が論じられ、日本の現在の方向性を解き明かそうという気運が高まりつつあった。「近代の超克」という一語は、そういった空気が醸成されていたからこそ、「ピンとくる符牒」となったはずだ。
河上の「チャップリン」以前の科学談義では、小林秀雄も「自然を拷問して口を割らせるといふ、近代科学をそんなに巧く言った人が他にあるかね」(座談会一日目)などという、いかにもコバヤシ的警句を放ち、それで科学論議に決着がついた雰囲気を作ってしまう。しかしこの人もまた、日本で最初に蓄音器用のルビー針を作った技術者小林豊造の息子である。司会者の河上と同様に、「科学技術と結びついた芸術」の恩恵を、人一倍受けて楽しんできたはずだ。
京都学派の学者達は生真面目に「近代の超克」というテーマで真っ正直に巻頭論文のいくつかを書き上げた。鈴木成高(歴史学)などは、進行ぶりが気に入らず、自らの論文を取り下げてもいる。それこそ、文学界グループと京都学派の止揚、弁証法的統一という光景が見られれば、後世の読者もこのシンポジウムから相当な「知的戦慄」を味わえたはずであった。この河上小林の閉鎖的な雰囲気は、進行に不備をもたらしているように見える。
そして結局、チャップリンやドンキホーテに任せておけと河上徹太郎が軽くいなした「機械を生んだ精神」は、まさにこの年に、ニューメキシコ州ロスアラモスで原子爆弾という奇怪な兵器の開発を始めて、四年後には広島長崎を壊滅させ、日本の全面降伏を招くことになる。
竹内好・廣松渉による「近代の超克」論
■「機械を生んだ精神」(西欧近代)が、自らをある種の神(または悪魔)にも似た存在として自己欺瞞化していなければ、このような大量虐殺の惨劇は起こらなかったかも知れない。しかし、機械を創造し、世界を「神」の視線で座標化して、一元管理化しつつ、弱者を操作し、コントロールして隷属化・家畜化するという、むき出しの強者の思想こそが、西欧近代の奥底にある「明晰への意志」「力への意志」ではないか。このような管理社会・監視社会を、M・フーコーは『監獄の誕生』において、一元管理された監視空間モデルとしてパノプティコンの名で呼んだ。パノプティコンとは、もともとは英国の功利主義哲学者J・ベンサムの設計による監獄建築のことである。今日のグローバリズムの本質と、決して無縁ではないはずだ。欧米列強の帝国主義、植民地主義の背景に、そのような西欧の「主人?奴隷(ヘーゲル)」の強者弱者の対を生む近代的自我やスペンサー的社会進化論の本質に、一種の本能的な違和を表明していたのが「超克」座談会の参加者たちではあるまいか。その種の空間では、機械・制度・システムが、特権層以外の大衆を、無名の「点」「粒子」のような量的客体として操作し、コントロールし、効率的に処理するであろう。
??しかし、周知のように、戦後になってからのこの「近代の超克」シンポジウムへの評価は厳しいものがあり、戦局への知識人の荷担、妥協、大東亜共栄圏の肯定、ナショナリズムへの追随など、当時の大衆をミスリードしたというのが通説だ。「超克」参加者よりも十歳ほど若い竹内好『近代日本思想史講座』(筑摩書房一九五九年)、昭和八年生まれの廣松渉『〈近代の超克〉論 昭和思想史への一視覚』(朝日出版社一九八〇年)らの分析は、この見捨てられた座談会の意味や、シンボル作用、時代潮流の背景を明らかにすべく、再び問い直したものである。
■竹内好は、「近代の超克」の思想的要素を腑分けして、「文学界グループ」「日本ロマン(浪曼)派」「京都学派」の三派の合流だという。しかし総じて思想的には無内容であり、「近代の超克」というタイトル自体が、マジナイ語だと糾弾する。民衆の言葉として当時流行した「撃ちてしやまん」「ゼイタクは敵」などに照応する知識人用語に過ぎず、内容的には何ものでもないが、戦争とファシズムの記憶が結びついたシンボリックな影響力にこそ、真の意味があるという。「近代の超克」の思想的内実は、通説に反して「戦争とファシズムのイデオロギーにすらなりえなかった」レベルの微弱なものに過ぎないというのだ。時流追随型の国家御用イデオロギーであり、「思想形成を志して思想喪失を結果した」という。
にもかかわらず彼は??ここが重要だと思うのだが??「シンボル作用」という言葉を使っている。
果たしてシンボルとは、内実がなくとも作用するものであろうか。シンボルとはむしろ、論理化できない次元、分析できない他者の下意識に強く作用するからこそ、暗黙の層の地下水脈を広範に変色させるのではあるまいか。
つまり、竹内がいっていることは、矛盾している。彼はこの座談会の思想的影響力を否定していながら、「シンボル作用」という言葉で、その力を暗に認めているのだ。結局のところ、これらは同じ「作用力」ではないか。といって悪ければ、思想内容とシンボル作用の内実をいったん腑分けして要素確認した上で、もう一度、解剖死体を縫合するように、再度ぜんたいを合成して、総合的な影響力をこそ再考すべきであろう。
明治四三年生まれで中国戦線の経験者((2))でもある竹内の世代は、このシンポジウムに対して複雑なニュアンスを抱いている。しかし、「思想喪失」と断定してしまうのは、彼自身のほんとうにいわんとするところにすら、反しているように思われる。彼は十歳前後年長であった「超克」知識人が、ファシズムに全く抵抗できなかったことを強調したいのであって、この座談会の思想性を、何としても、認めたくないのだ。言い換えれば自身の内部にわだかまる「超克」の影響力を、是認したくないのである。
「告白すれば、私自身も怨恨の哲学を認める」(竹内)では、竹内自身も暗に認めている妖しげな「シンボル作用」の正体とは、いったい何なのか。
竹内は、昭和十六年十二月八日の真珠湾奇襲の前後の知識人の意識のズレ、断層を「二重構造」とする。そして、この座談会から、中国問題が捨象されていることを指摘する。(これは主催者側の文学界・亀井勝一郎の実感でもあった)米英などの欧米列強を敵にして戦い始めた真珠湾以降の「大義」により、中国への侵攻の「大義のなさ」を、結果的には欺瞞的に覆い隠し、忘却してしまった、というのが中国文学者・魯迅研究者としての竹内の視点である。従って彼は「超克」知識人の戦時イデオローグとしての悪しき影響力を、「戦争とファシズムのイデオロギーにすらなりえなかった」と無力化する。御用論客としての彼らの影響力を、一旦は無能と断定した後に、戦後もご都合主義的な「自己納得の論理」「事後承諾的な心理の合理化」が、ルーズに無自覚にまたぞろ復活してくることを許さない。時代がそうなる以前に、日中・日米「二重構造」戦争の深いギャップから、徹底的に意味を抽出せよというのだ。結論として竹内の「近代の超克」論は、かつて戦中に提出された諸問題のさらなる徹底追及化を促して、終わる。おそらく彼の「近代の超克」論はこの新たなるファシズムの予感に対して、先制攻撃として投げられた牽制球であろう。むろん竹内の予言的危惧は、当たっている。昨今の日本の右傾化や、国内外の情勢変化を見れば、よくわかることである。
■これに対して廣松の論は、竹内の論をも踏まえて、さらに「視野の拡張を図」り、理論的遺産をさぐるという姿勢に立ちながら、京都学派「世界史の哲学」との影響や関連性をとらえる。最も好意的にとらえられているのは「主体的無」を語る西谷啓治で、西田哲学との関連が云々されているが、あくまでも消極的な評価に終わる。
批判的に分析されているのは、高坂正顕、高山岩男らの「世界史の哲学」関連の思想である。これは、実存的内容というよりは、積極的な日本国家の歴史的「使命」の位置づけである。高坂正顕に対しては、日本文化における「無」の世界史的意義についての論述を引用しつつ「超克」の実践方法としては、「氏の立論には生彩が欠ける」と切り捨てる。
より体系的な歴史哲学の構えを持つ高山岩男に対してはさらに厳しく「高山氏の論はさながら日本政府のスポークスマン」「氏は大東亜共栄圏を哲学的に合理化される」と糾弾しているが、それはその通りであろう。しかし、東洋の盟主日本国の「世界史的使命」という高山の歴史理論や京都学派イデオロギーは、心理的に解釈され、前述の中央公論の座談会をきっかけとして、ある種の歓喜を持って世に迎えられていった。「シンボル作用」をいうならむしろこちらであろう。((3))
■竹内・廣松の二つの論を読み比べて面白かったのは、そこに出席していない人物を登場させる手法である。その方が、現実のシンポジウム出席者十三人の意見を論じるよりも、座談会の本質を表せるというのだ。
例えば竹内は、出席していない保田與重郎をして、日本ロマン派(浪曼派)を代表させるべきだと主張する。出席者の亀井勝一郎よりも保田を重視している。また、京都学派については、西谷・鈴木に加えて、非参加組の高山岩男、高坂正顕をあわせて「四人で一本とした方がよい」と、凄いことをいう。また、廣松渉も『〈近代の超克〉論』という著書では、七月の文学界の座談会だけではなく、中央公論「世界史的立場と日本」にも注目して、大東亜共栄圏を理論武装化した京都学派の世界史の哲学を分析している。??つまり、「近代の超克」シンポジウムを論じた代表的な二論文は、非出席者や他の会議をも併せて包括的に語らないと、その思想的全容がつかめないと見ているらしいのだ。面白い手法なので、この稿の後半で、わたしも模倣してみようと思う。
《自我―超自我》の問題
■半年前に先行した中央公論の大当たり企画を意識したなどという、雑誌編集者同士の楽屋裏話めいた詮索はともかく、わたしが今回再読して感じたのは、この座談会は、徹頭徹尾「精神論」であったということである。
「精神論」というのは観念的だとか机上の空論という批判ではなくて、文字通り「精神」を俎上にしたシンポジウムという意味だ。この十三人は、別にナショナリズムを煽ったわけでも、国家のありようを大上段に論じたわけでもない。明治以来の日本人の精神の構造の変化と、当てられた毒素の分析、さらに処方箋と体質改造についての多視点的な問いかけを交わしているように思われる。
時局を論じているというより、これは少しく長期的な西洋近代に対しての日本の受容衝動を問い直す論究であり、「今となっては敵となってしまっている西欧近代」の世界像の根にある原理の見定めであろう。別の角度からいえば、「自我観をめぐる東西の差異と違和の表明」ではないか。特に《自我?超自我》の問題は「近代とは何か」という文明論的な問いかけ以上に、このシンポジウムの参加者の胸を占拠している根源的な疑問であるらしい。西欧近代において、「神が死んだ」後の地平にせりだした〈自我〉は、本質的に凶暴化するのではないかという疑惑である。それは、抑止力としての〈神〉を失った〈野生的自我〉が、機械文明を行使する構図である。
例えばここで恣意的に、シンポジウム参加者の提言を、彼ら自身の巻頭論文から拾ってみよう。
「現在我々の戦いつつある戦争は、対外的には英米勢力の覆滅であるが、内的にいへば近代文明のもたらしたかかる精神の疾病の根本治療である」(亀井勝一郎/文学)
「もし心や魂なる言葉が、普通に意識の諸現象や意識的な自己といわれるものを意味するだけならば、其等もたとえば心理学によって科学的に取り扱われ得るものである」 (西谷啓治/哲学)
「この自己を超えて真の自己を自覚する時、それは身体とその自然的世界、心とその文化的世界に不離に自覚されて来る」 (西谷啓治/哲学)
「如何にして近代音楽を克服し、音楽をして感覚的刺戦の芸術から再び精神の芸術へ引き戻すかといふ事は、私自身の長い目標であつたし、今日とても少しも変わりない課題である」 (諸井三郎/音楽)
「私は端的に近代精神の問題を近代的無神論の根本宿命といふ点から取り上げて行かうと思ふ」
(吉満義彦/倫理学)
「例えば早い話がニイチェやドストエフスキーの理解の問題である。(略)私はかうした魂の深刻な反撃なしに近代の真の超克は無いと信ずる」 (吉満義彦/倫理学)
「人間を機械の奴隷にしているのは固より機械そのものの責任ではなくして、それを運用する組織制度、結局、精神に帰すべきものである」 (下村寅太郎/哲学)
「問題は寧ろ積極的に文化が文明に追いつくこと、さうして文明を支配することにあるのではないか。近世の危機はPhysicalscienceとMental scienceの平衡のとれない所にある」 (下村寅太郎/哲学)
「従来の我々の考え方はすべて西欧的な我を中心としたものであり、我の自覚と云うことを一種の誇りとして来ましたが、結局それでは飛躍できない。昔から東洋で云われている我の滅却ということを現代日本人は今一度真剣に考えるべきときだと思います」 (菊池正士/科学哲学)
つまりこの座談会は、最初から最後まで、「精神」について論じ、「自我」について論じられているのである。神仏や、精神や、魂の話??といって悪ければ、《自我?超自我》の問題なのである。ここでいう超自我とは、フロイト的な道徳規範としての意味範囲のみならず、無意識、ユング的集合意識、さらに神仏や霊魂といった「自我」以外の広範なトランスパーソナルな意識領域をもとりあえず含ませておきたい。その視点から顧て、もう一度近代の起点であったデカルト的自我や、そこから結果的に派生してしまったところの合理主義・功利主義の文明体系のぜんたいを振り返るのである。はたしてその「私」とは、放射する力の発信源であったのか。
ちなみに、西谷啓治は、もっとも色濃く西田幾多郎門下の思想を体現している参加者であり、禅思想、及びドイツ神秘主義の思想家マイスター・エックハルトの研究者である。ケルンの大司教であったエックハルトの説教は、驚くほど禅や東洋思想の「無」を連想させる。((4))諸井三郎は作曲家で、印象主義や浪漫主義などの近代音楽を批判し、ベートーベン、あるいはバッハ以前の音楽に、新古典主義の規範を求める創作を進めていた。この時期に準備していたであろう『交響曲第三番』は、結果的に沈鬱な民族のレクイエムとなった曲として名高い。彼は東大で「スルヤ」という作曲演奏グループを結成して以来の河上の音楽仲間である。中原中也や、三好達治(座談会参加者)の詩につけた曲もある。
「自我論」をめぐる思想戦
■「近代の超克」座談会の参加者は、このような論議を扱っているわけであり、西洋近代の「自我」と、われわれ日本人、ひいては東洋的自我の在り方の構造が違っていることから、決して視線を逸していない。いま、これを、世界と己を凝固させてしまう西洋的自我と、世界と己を気化させることを願う東洋的自我とのせめぎ合い??「自我」観をめぐる戦争――という比喩的イメージで描写したら、いささか無責任かつ曖昧すぎるであろうか。いずれにせよ、この座談会は、文明論であると同時に、それ以前のレベルで「主体論/自我論」なのであり、この論点こそが、中央公論「世界史的立場と日本」とは微妙に違った当シンポジウムの〈思想戦〉の本質であったはずだ。しかし意外にも、この「自我論としての『近代の超克』」という、内在的アプローチは、軽視されてきたように思う。これはあまりにも、大正教養主義的な当たり前に過ぎる読みであり、いまさら論じるまでもないかもしれない。しかし、戦争という外圧があったからこそ、初めて明治維新以来の「西欧受容」の在り方について自己反省の刃が加わり、歯磨き粉のチューブから無理やり押し出されるように、明治以来の「近代日本人」の内面の奥の奥が露出されたのではあるまいか。
さらに言えばこれは、かつて明治の終わりに、夏目漱石が提出した「自我/我執」問題の再噴出とも、いえないことはない。『私の個人主義』や、『それから』『行人』『明暗』、果ては、大正五年の最後の木曜会で語ったとされる「即天去私」談話に至る作品や言説である。
シンポジウムの参加者十三人は、いま日本民族は、物理的戦争を戦っているだけではなく、西洋哲学や政治思想を含めた「観念の戦い」を生きている??という共通認識を、暗黙の了解としていた。それが司会者河上の「かういう言葉をひとつ投げ出すならば、皆さんにピンとくるものが今はあるだろう」という《符牒》としての語「近代の超克」なのであり、後になって竹内のいう「シンボル作用」としての影響力であろう。むろん、繰り返すが、シンボルが「作用」を生むには、それなりに醸成された前提環境を必要とする。
「近代の超克」座談会で「主体的無」を説いた西谷啓治の背景には、西田幾多郎の哲学や、鈴木大拙の思想が控えているはずだが、「無」の概念は、戦後、しばしば揶揄と嘲笑の対象となってきた。「このような論議が、結局、無の思想に吸い込まれてしまっては、仕方がない」というような言われ方が、よくされてきたものである。しかしこの「主体的無」は、はたしてそれほど浅薄で、邪険に扱ってもよいコンセプトであろうか。
「従来の我々の考え方はすべて西欧的な我を中心としたものであり、我の自覚と云うことを一種の誇りとして来ましたが結局それでは飛躍できない。昔から東洋で云われている我の滅却ということを現代日本人は今一度真剣に考えるべきときだと思います」(菊池正士/科学哲学)ここで「我の滅却」を論じている菊池の巻頭論文は、なんと「科学の超克について」というタイトルなのである。 座談会の中でも、二日目に「機械を作った精神」という問題にふれたものの、小林・河上らに混ぜ返された。とくに河上は、「機械のことはチャップリンとドンキホーテに委せておけ」などという、大して気が利いているとも思えぬ皮肉をいって一蹴した。しかしこの時期は、すでに太平洋のミッドウェイ沖で、日本の空母が撃沈されるという「機械戦争」が展開している最中である。
菊池・下村らがこの時点で提起している「西洋の科学技術を、自我・主体の問題として語る」という視座は、かなり重要であると思われる。はたして〈自我〉とは力の中心なのか。それとも、一時的な幻であり、最終的には無相の空間に融解するような何ものかであるのか??。
先程ランダムに列挙した引用文は、極めて素朴な「人間とは何か」という哲学的文学的問いかけであろう。まさに大正教養主義丸出しではある。しかしそこには、西欧近代の「根」に仄見える原理を問い糺そうという積極的姿勢が見えてくる。特に下村らのいう「機械」の問題は重要ではないのか。「〈機械?自我〉論」の問題は、西谷(西田)ら「主体的無」の問題と、深層に隠れた根茎部分においては、一対の太い茎であると考えられる。この「近代の超克」座談会は、その二極を線で結んでこそ、全体の構図が浮かんでくるのではないだろうか。
「自我―機械」による「力への意志」
■論客達は、いまや敵国となったアメリカは、西欧文化よりも劣るとしながら、その延長としてとらえている。
津村 「(アメリカニズムを)それはなぜ超克しなければならんかといへば?超克という言葉はどうかと思ふが?それはアメリカというものは、物質文明と機械文明の素晴らしい力を持っている。(略)これだからこそ余計に日本はその勢いと戦わねばならんと思ふ。人間の精神は機械を作りだしたが、今度はそれに食われ出した。そこで機械文明に人間の生活が食われないようにこれを統御せねばならぬ。より高い文化の理念が必要になってくる。」
鈴木 「根本は同一の精神だと見ることが出来るでしょうね。デモクラシー、機械文明、資本主義も根本は同じものから出てきてある種の共通性を持って居ると思ふ」
このように発言する鈴木成高は、座談会において「近代」の定義を、「政治的にはデモクラシー」「思想上ではリベラリズム」「経済上では資本主義」ともいっている。彼のいう「同一の精神」「ある種共通性」とは何か。
デカルト以降のヨーロッパにおける〈近代的自我〉とは、「自我」と「機械」とが半ば強制的に一体化・癒着化する体のものであり、人間をとりまく「機械」「技術」の増強が、反作用的に「自我」の力能感・全能感・多幸感をも補強する結果となり、「自我?機械」という言い知れぬ連続的器官と化す魔的な潜在性向を持つ。武器や兵器は、その典型的で極端な例であろう。
自我・機械・自然という、力が縦横に行き渡る相互の力学的関連作用は、いつしか支点・力点・作用点ふうの即物的なシステムと化し、その実質的な目的は「支配と利用」という功利性となる。この世界観は、デカルトが生み出した「コギト」「心身二元論」哲学の延長にありながらも、デカルト自身のあずかり知らぬ“覇権的な”機械論的世界観を、文明の基盤とした。この世界像の中では、「明晰化への意志」そのものが「自我」を救いのない混沌に巻きこむという、逆説的要素を併せ持つ。「知と力」による支配力の宿命である。ベーコンの「知は力なり」や、帰納法的な実験主義や経験論、スペンサー的社会進化論とも、はなはだ馴染みが良い。
しかし、この「支配する人間」に、誰もが「民主的に」なれるわけではなく、特権的人間による支配層(例えば白人種)を意味する。従って、支配の対象には、モノや自然のみならず、他の特権的でない人間達、非西欧的民族も含まれ、その種の人間は奴隷化・家畜化・搾取の対象ともなりえる。そこに勝敗や進化や優劣を明確化する意志が働く。問題は、自然科学の背景にある理論云々ではなく「知と権力と自我」を巡る諸欲望の野合である。
一方、〈東洋的自我〉(とりあえず、ここでは大雑把な図式を描いてみたい)とは、力能による対象の道具化を忌む傾向を持ち、究極的には「点」ではなくて、「面」や「空間」の広がりの中へと気化していくような、融解性・拡散性を持つところの「自我?意識」観である。
ここでいう「東洋的自我」というのは「無」「空」「道」などの漠然とした思想イメージに過ぎない。仏教・インド思想・老荘思想・神道に共通して見られる「自我を超えた無相空間」を究極的な背景場として持つ人間観・自我観、といったほどの意味である。通底するのは、生物的なエゴの超克である。((5))このようなナマな自我、あるいは力能的自我について、鈴木大拙であれば、「生物我」といったはずだ。仏教では「我」の問題を、認識論的にではなく、煩悩として見る。こういった世界像の中では、最終的に現世という現象世界は「夢」「マーヤー」となってしまう。「世界?内?存在」「現存在」も、東洋思想から解釈すれば、究極的には幻想となる。
この「西欧の近代的自我」「力能的自我」が生みだした物質的機械文明と、「東洋的自我」の違和は、すでに二千年以上も前の古代中国において、荘子が「機心」の名で言い表している。ちなみにこの「機心」の話は、老荘思想にも関心を持っていた量子力学のハイゼンベルグが好んで引用した逸話である。((6))
下村 (略)今まで魂は、肉体に対する霊魂だったが、近代に於いては身体の性格が変わってきた。つまり肉体的な身体ではなく、謂わば機械を自己のオルガン(器官)とするようなオルガニズムが近代の身体です」
シンポジウム参加者の下村は、『荘子』天地篇の「機心」にはふれていないがその危機感は共通している。
吉満 「魂の空虚を感じる所から「近代の超克」が始まるんぢゃないですか。その時に魂は文明と機械に統御されず、霊性が一切を第一義的生の立場で統御して行く。つまり僕は「近代の超克」というのは魂の改悔の問題であると思ふ。東洋と西洋とを相通じて、神と魂とが再発見されねばならない。そしてそこから始めて祖国の深い宗教的伝統にもつながって行けるのだと信ずるのです。」
座談会では、東西思想の干渉波が、さざ波のように奇妙な模様や対流の渦を描いているが、こういう机上の空論めいた「思想戦」「空中戦」を論じている彼らに、十二月八日の高揚感、ヒロイズムがなかったわけではないだろう。また、それ以前のアジア問題・中国問題が、このシンポジウムでは意図的か無意識的にか、消し去られていたことも確かであろう。
しかし、ここには当たり前のように、文士がいて、詩人がいて、哲学者や、神学者が参加して議論している。美を論じ、作品を書き、古寺を巡り、禅をやり、ドストエフスキーや、ニーチェや、М・エックハルトを語る人間が、ここには集められている。
吉満の言葉を借りるならば「魂の深刻な反撃」について論じられているのだ。むろん彼らは、戦場の兵隊としては、無能であろう。彼らは戦っている戦場が違うのであるが、もとより戦争責任と無縁というわけにもいかないはずだ。ただ、このシンポジウムで論じられたことが、これまで内在的に等身大的に、すくい取られてきたのであろうか。ここで提出された《自我?超自我》の問題は、今日なお、新鮮ではあるまいか。逆に言えば、何一つ「近代の超克」に対する答えが出されているわけではないまま、いまやポストモダンという「いつのまにか超克されたかのように見える近代」で迷子になっているというのが、われわれの現在の姿ではないのか。しかも、世界を展望して一元管理し、その支配を隅々まで貫徹させるグローバリズムとは、ポストモダンどころか、究極の「近代」の完成形であろう。この一元展望監視・管理(パノプティコン)について付記すれば、西と東の自我モデルの差異は「監視塔」的自我と、「鏡」的自我ともいえるかも知れない。前者は支配と管理に目的があり、後者は観照をその本性としている。しばしば明鏡止水、不動心などの語彙は政治家すらも多用している。((7))
■思想としての「近代の超克」は、「戦争と天皇ファシズムのイデオロギー」としてのシンボル作用からのみ読むのにはいささか難がある。というか、荷が重いはずだ。
文字通り、当時のインテリが直面した「自我/我執の問題」「精神の問題」という実存的な問いの自己納得の言説群として、素朴に読むべきではないか、と思う。
一見、散漫な議論の深層部には、共通の問題意識が貫かれており、それ故にこそわれわれは、この会議を「失敗に終わった」などとクサしながらも、ついついその磁場に引きつけられて、再論しようという思いに駆られてしまうのだ。この過去のシンポジウムが「小説作品のように繰り返し解釈される」と評した所以である。
〈表層?深層〉「近代の超克」の二重構造
■竹内好は、「近代の超克」それ自体では分析に堪えないと見たのか、シンポジウムに出席していない保田與重郎を日本浪曼派の代表として扱い、京都学派を「四人で一本とした方がよい」として舞台を支える柱材を補強しつつ、座談会を分析している。廣松渉も、京都学派を加えてバイパス的に迂回しつつ「近代の超克」を論じている。というわけで、わたしもその方法を、ルーズに恣意的に延長して、「近代の超克」を一つのお題とした明治以降の精神史の底流について、ふれてみよう。
――ここで「近代の超克」の透視図的な読みについて、簡単な仮説を称えてみたい。ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の図像学的解釈のようなものである。
この「近代の超克」座談会は、目に見えるあからさまな部分の下層に、もうひとつ、目に見えない深層の「近代の超克」を抱え込んでいるのではないか。
この小文では、とりあえず前者を可視的な「表層の近代の超克 A」、後者を不可視の「深層の近代の超克B」としてみる。この二層は、二重写しになっている。可視的な「近代の超克A」は、しばしば評せられるように、一見ばらばらな発言のやりとりとなってしまい、まとまりのわるいものに思われ、「無残な失敗」として記憶される。しかし、深層の「近代の超克B」は、そんな表層部のさざ波や藻草のゆらめきの底で、しっかりとした明確な構造の底部を持っている。そこには、明治以来の日本の思想史の最も誠実で深刻なる思索のドラマが、地下水脈として流れ込んできているに違いない。
その底部に透けて見える「(深層の)近代の超克」思想とは、昭和十七年の座談会には実際に出席していない三人の思索者によって、全力で追究されてきた主題群であった。
――その三人の思索者とは、西田幾多郎、鈴木大拙、そして夏目漱石である。
■シンポジウム「近代の超克」とあわせて西田幾多郎、鈴木大拙、夏目漱石の三人を語ることは、明治三、四十年代生まれの十三人の「大正青年」達が育った時代の知識教養の背景を語ることであり、その源泉を語ることにもなると思う。ただし、この小文では、彼ら三人三様の思想の内部にまで踏み込むことは不可能である。筆者としては、とりあえず「表層?深層《二重写しの図》」が得られればそれでよい。繰り返せば、その底流の主題とは《自我?超自我》問題である。
西田幾多郎はいうまでもなく、西谷啓治や、鈴木成高ら、京都学派の中心人物、廣松渉のいう「御大」であり、彼の影響力は、座談会の多くの発言の上空を、影のように覆っている。
そもそもが、「近代の超克」とは「純粋経験」という主客の一致した無垢の知覚体験を持ち出してソリプシズム(独我論)を越えようとした西田哲学そのものを象徴する言葉ではないか。また、西谷のいう「主体的無」とは、西田の「絶対無」の援用であろう。これは万象「有」を生みだす「無」の大海的虚空であり、これをもって、西欧の「有」の思想を乗り越えんとした。西田の立場は「意識現象が唯一の実在である」という唯識説にも近い。
また、欧米で英文著作によって仏教を啓蒙した鈴木大拙は、『無心ということ』『日本的霊性』他の著作で、禅の立場から、いわゆるエゴを限界のある「生物我」と呼び、それは「真我」へ向けて超克されるべきものであると説いた。それが大拙の「悟り」ということであろう。西田と同年生まれの彼は、金沢四高以来の盟友であり、ともに二十歳前後から北陸の地で参禅しながら、自らの思想を練り上げていった思想的同志である。この二人の関係は生涯密接なものであり、大拙がアメリカへ行ってからも、多くの書簡がやり取りされ、「純粋経験の哲学」を論じるW・ジェイムズの存在も西田に教えている。これらの手紙の文面は、温かくほほえましいものであった。
「私は多くの友人を持ち、多くの人に交わったが、君の如きは稀である。君は最も豪そうでなくて、最も豪い人かもしれない。私は思想上、君に負う所が多い」
(「大拙君のこと」西田幾多郎)
大拙の思想については本稿ではふれられないが、彼はすでに一九〇〇年に英訳『大乗起信論』を著わすなど、仏教についての多くの著作を英語で著し、禅文化ならびに日本仏教を海外に広く知らしめた。C・G・ユング、ハイデッガーなどとも親交があったこの禅者は、日本にスウェーデンボルグ思想や、西欧の神秘主義の紹介を行ったことでも知られている。晩年は北鎌倉、西田の墓地もある東慶寺境内の「松ヶ岡文庫」で研究生活を送った。
■さて、その大拙を後に小説『門』の中で描写した夏目漱石はどうか。西田と大拙は、ともに明治三年生まれであり、最年長の漱石は、その三年前、慶応三年の生れである。ほぼ同世代といっても過言ではない。そして大まかに明治三、四十年代生まれの「超克」の論客達より、一世代ほど上であり、いわば彼らの親の世代であった。そして漱石こそ、明治末から大正期に育った青年たちの「思考の土台」を用意した文学者であったに違いない。
いったんこの「近代の超克」というシンポジウムから、「戦争とファシズムのイデオロギー」ふうの時局的な視点をはぎ取ると、その奥にぼんやりと鈍い光を放っているのは、かつて漱石が提出した「自我」問題のように思えてならないのである。換言すれば、大正期に育った青年達の内面の問題である。彼らは「個人」に目覚めると同時に、近代人としての孤絶を味わうことになる。
『私の個人主義』や、『それから』『行人』、あるいは大正五年の最後の木曜会で語ったとされる「即天去私」談話を思わせる言説が、十三人の参加者の口を借りて、次々に飛び出してくる。解決されなかった漱石の「自我/我執」の問題が、いよいよ日本がせっぱ詰まって壁際に追いつめられたこのときに、不安な悲鳴をあげた??というのが、この「近代の超克」座談会ではなかっただろうか。それは、死に至るまで快癒しなかった漱石の胃潰瘍と神経症のいわば国家規模の再発症状である。
だからこそ、竹内好がいくらこの座談会の思想的な影響力を否定したくとも、「シンボル作用」とでもいうしかない不思議な磁力を放ち、繰り返し論じられ続けるに値する悪しき病巣的生命力を、保持し続けてきたのだ。
??「近代の超克」座談会とは、例えば夏目漱石が書いた議論小説に似ている。そのとりとめもない悠長なやり取りは、どこか『吾輩は猫である』の会話を思わせ、神や意識についての論議は『行人』の一郎の告白にも似ている。東西の比較文明論は、『私の個人主義』他の講演録にも、酷似している。彼ら戦時下の知識人たち、「これだけの人数の一流の人たち」の心は、「自己本位」と「即天去私」の間で、振り子のように揺れているのだ。
このシンポジウム参加者は、若いころ、『それから』の代助のように、父親に無職(大学での教職が得られない等)をとがめられると、
「何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ」などとうそぶいていたに違いない。
一方、『行人』の一郎は、
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」と絶叫する。
ひょっとして、「近代の超克」のメンバーの誰かは、座談会のどこかで、これに似通ったことを、もう少し温和でソフィスティケートされた中年紳士の語り口調で、つぶやいていなかったであろうか。
――実に、この十三人の「近代の超克」出席者たちは、夏目漱石の小説の登場人物たちである。
「漱石・大拙・幾多郎」の三連星
■ここまでの筆者の恣意的かつ身勝手な類推を、もう一度要約してみたい。
「近代の超克」は二重構造となっており、見たままの「表層の近代の超克A」と、不可視の「深層の近代の超克B」があり、一見、ばらばらな発言のやりとりに終始しているものの、その奥底に確固たる思想的岩盤が控えているために、奇妙な生命力やシンボル作用を放ち続けている。
その強固な思想基盤、あるいは明治以来の精神史の底流とは、「日本人の自我意識」の問題である。この深層部を支えている黒幕とは、京都学派の背景にいる西田幾多郎、西田に参禅のきっかけを与え、W・ジェイムズの「純粋経験」を教え、仏教を共に論じた鈴木大拙、さらにこの二人とも間接的にテーマを共有しつつ、「近代の超克派」の青春期に多大な影響を与えた小説家夏目漱石ではないか??というのが、この小文の見立てである。((8))
ではさらに、少し横道に逸れて、これら三人は、どのような関係にあるのだろうか。「近代の超克」の底流部をかいま見るために、ここで座談会そのものからは、いったん離れるかもしれない。むろん最後にはもう一度、合流するつもりである。
面白いのは、明治四四年一月に、奇妙なシンクロニシティーが起こっていることだ。この年の正月早々、西田幾多郎の『善の研究』が出版された。ところがその直前、つまり同じ一月に、生田長江訳の『ツアラトゥストラ』(最初の全訳)が出版されている。つまり日本の思想史上、エポックメーキングな二著作が刊行されたのが明治四四年正月であった。これは記憶に留めておいてよいことだ。
のみならず、興味深いことに、生田に『ツアラトゥストラ』訳を薦めたのは、漱石であることが、杉田弘子による日本のニーチェ受容研究書「漱石の『猫』とニーチェ?稀代の哲学者に震撼した近代日本の知性たち?」(白水社)によって、明らかにされている。漱石は、生田の相談に乗り、翻訳を薦めたのみならず、出版社(新潮社)まで世話している。ドイツ語の難解な部分については、森?外に尋ねた。
つまり漱石?外という両文豪の努力によって、ニーチェは日本デビューを果たしたことになる。漱石はすでにニーチェの英訳『ツアラトゥストラ』に異様な執着を示し、英語で多くの書き込みを入れていた。また『吾輩は猫である』の哲学者「八木独仙」と巣鴨の狂人「天道公平」は、ニーチェの人物や思想のパロディとの説もある。
この時期の漱石は、前年の四三年に『門』を書き上げ、四五年に『行人』を連載している。つまり、西田の『善の研究』をまたいで、『門』と『行人』を書いているのだ。
共に思想的内容の濃厚な小説であり、「文学?哲学」の関わりにおいて、この明治末年は、大変に興味深い時期である。むろん、読書界におけるニーチェ『ツアラトゥストラ』の反響も、同時並行しているはずだ。漱石はその当事者で、仕掛け人でもあった。
よく知られているように、『門』のモチーフは、実はそれより二十年も前の明治二四年、漱石が北鎌倉の円覚寺の塔頭、帰源院に泊まりがけで参禅したことに端を発している。『門』はその時の記憶をもとに書かれた作品だ。
「山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の寒気を催した」
円覚寺の風景である。面白いのは、この『門』の向こうの世界に、鈴木大拙らしき人物が登場することだ。
「宗助のほかに、まだ一人世話になっている居士のある旨を告げた。この居士は山へ来てもう二年になるとかいう話であった。宗助はそれから二三日して、始めてこの居士を見たが、彼は剽軽な羅漢のような顔をしている気楽そうな男であった。細い大根を三四本ぶら下げて、今日は御馳走を買って来たと云って、それを宜道に煮てもらって食った。宜道も宗助もその相伴をした。この居士は顔が坊さんらしいので、時々僧堂の衆に交って、村の御斎などに出かける事があるとか云って宜道が笑っていた。」なるほど「剽軽な羅漢のような顔をしている気楽そうな男」というのは、いかにも大拙である。俳画のような軽みのある一筆書きで、作者の好意が感じられる描写である。この居士が鈴木大拙であることは、後の東慶寺管長の井上禅定が明かしている。漱石も大拙も、共に円覚寺の釈宗演の弟子にあたる。もっとも、こういった関係を、兄弟弟子というのかどうかはわからない。((9))
■ではその「羅漢のような顔」をした男から見た漱石はどうか。明治二六年、大拙は、師匠の釈宗演のシカゴ講演原稿を英訳し、夏目漱石に見てもらったという。
「その時分、円覚寺の帰源院に夏目漱石が来て参禅をしておって、わしが翻訳したものを見てもらったことがあるな。」(鈴木大拙談)
実際には、このシカゴ講演原稿の翻訳を漱石がチェックしたという話は、前出の井上禅定が事実誤認としている。それはともかく、大拙としては長年、参禅の宿を帰源院で一時共にした三歳年上の漱石に、自分の翻訳を見てもらったつもりでいたことになり、ここでは二人がある種の親しさを感じていたことが確認できる。少なくとも、漱石、大拙ともに、「禅と英米文化」という共通の精神圏の中にいたことは、確かであろう。
「漱石?大拙」は、「禅」というラインで結べた。「西田?漱石」は、ともに画期的な著作物をめぐるシンクロニシティーがあった。それだけなら明治四四年という時代の空気を象徴する精神史の偶然であるが、はたしてこの二人の思想に、相互影響がなかっただろうか。
漱石『行人』(明治四五年/大正元年)を引いてみる。
「一度この境涯に入れば天地も万有も、全ての対象というものが悉くなくなって、唯自分だけが存在するのだと云います。そうしてその時の自分は有るとも無いとも片の付かないものだと云います。偉大なような又繊細なようなものだと云います。(略)その絶対を経験している人が、俄然として半鐘の音を聞くとすると、その半鐘の音は即ち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表すと、絶対即相対になるのだというのです、従って自分以外に物を置き他を作って、苦しむ必要がなくなるし、又苦しめられる懸念も起こらないのだと云うのです」
これはそのまま、西田幾多郎の主客の対立のない「純粋経験」を連想させる。長野一郎のソリプシズム(独我論)からの脱出は、鐘の音による「純粋経験」というわけだ。「純粋経験」とは西田哲学の表看板の一つである。右の会話も、主人公の一郎が言っているのか、漱石が言っているのか、西田が言っているのか分からなくなってくる。
『善の研究』が四四年出版、明治末の思想小説ともいってよい『行人』が、四五年(大正元年)である。
「純粋経験」とは、「自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」(西田)というものであり、唯識仏教でいうところの「識」に近い概念ともいえる。
――どうであろう。「近代の超克」論客諸氏の展開する「自我論/主体論」の中に、これらの明治末の葛藤が、響いていないだろうか。明治大正期のいささか書生臭い「我とは何か」という問いが、蠢いていないであろうか。西欧流の近代的自我の強制の抑圧感と、それを半ば認めながらも完全に折伏されたくない別の「我」、「我ならぬ我」、「東洋的〈無〉を羊水とする我」が叫び声をあげていないだろうか。それはにわか仕立ての「和魂洋才」の燕尾服にしっくりこない「我」、人工光線による「明晰化」を拒みつつ陰翳を礼賛する魂の朦朧体としての「我」、そして、決して粒子的ではない、波動的な「我」である。
■視点を変えて、西田幾多郎と夏目漱石は、物理的な接触があったのだろうか。西田の随筆『明治二十四、五年頃の東京文科大学選科』から引いてみる。
「当時の選科生というものは、誠にみじめなものであった。無論、学校の立場からして当然のことでもあったろうが、選科生というものは非常な差別待遇を受けていたものであった。」西田は東大の選科生が図書室の廊下で閲覧させられるという本科生との差別待遇について、悲嘆的に書き記す。そのような懐古的な文脈の中で、
「有名な夏目漱石君は一年上の英文学にいたが、フローレンツの時間で一緒に『ヘルマン・ウント・ドロテーア』を読んでいたように覚えている。」とさりげなくふれている。同じ教室で受講していた三歳年上の漱石のその後の精神遍歴、思想遍歴が、西田にとって、決して無縁だとも思えない。後の漱石の著書が気にならないはずはない。あえて無視することも含めて。そして、『行人』を書いた漱石は、前年に出版された西田の『善の研究』を参考にしている可能性も濃厚であり、顔見知りの大拙の一連の英文の著作にも目を通しているのではないか。
――ある時期以降の漱石、大拙、幾多郎は、ことによると、互いの重心をめぐって不思議な軌道を描きつつ回転し合う、三連星のような状態にあったのではないか。そしてその光芒は、後に「大正教養主義」といわれる精神空間を作り上げることになるはずだ。
三人は、西欧近代の知的達成に敏感でありながら、合理主義と功利性とが癒着した文明に違和を感じる。鈴木大拙の影響で始めた西田の禅はともかく、漱石の参禅の成果ははなはだ怪しいものであったらしい。しかし、「近代的自我」は超えられるべきものと直感し、「我執」以上の何かが人間には潜在的可能性として秘められているはずだとの確信は、彼ら三人に共通するものであろう。
象徴的な言い方をすれば、禅でいうところの「父母未生以前の我」、すなわちデカルト的な「我」を超えた潜在意識の奥の奥の奥の「深層の我」を本拠とするような人間観・自我観(無我・空)を主体として生きるというあたりが、禅、仏教、あるいは東洋思想であろう。((9))
西洋近代と対峙することによって、初めて日本の知識人は反射的に「我」の根源に目を向けたと思われる。「即天去私」とは神経衰弱に苦しむ病床の漱石の切ない願望であろうが、ヨーロッパ近代小説のエゴの玉ねぎの皮むき作業的心理分析に疲れ、胃壁をボロボロにした漱石が、もう一度、天空の風に心地よく顔面をさらした最後の言葉だったのかもしれない。それは力能感の起点としての「自我」「我執」の否定、あるいは超克への憧憬であった。
『それから』の代助、『行人』の一郎までをつなぐ作品空間は、当時のインテリ青年たちの抱える葛藤を先駆的に表したものであろう。それは、いかにして日本を近代化させ、この国に「個人主義」を確立しうるのか。ひいては、国家として西欧に伍しうるのかという問いでもある。さらにしかし、そこで確立された自我に、はたして自由や安寧や幸福は存するのか、という疑問でもある。
■夏目漱石、西田幾多郎、鈴木大拙は、意外にも近い物理的空間を一時共有し、長期にわたって精神的空間を共有していたと考えることができる。もちろん、追究と掘削は、それぞれの孤独な内部においての仕事である。
それにしても、「我の滅却」「主体的無」によって「ヨーロッパ的自我」に対抗しようというのは、ほとんど合気道のやっていることに近い。しかし日米大戦の場合、合気道の達人が、巨大な敵を指先だけでなんなく投げ出すような具合にはいかなかった。それはぞろりとした袴をつけた未熟な武術家が、筋骨隆々たるヘビー級ボクサーに滅多打ちにされ、ついには血反吐をはき散らしながらダウンされるのを見るような、凄惨な敗北に終わった。
ジグゾーパズルをめぐる心理的回路
――ここで再び「近代の超克」シンポジウムに戻る。
座談会の表向きの「Aの表層」、そしてジグゾーパズルの見えないピースを加えた「Bの深層」を含めて、上下を俯瞰すると、「東亜の解放と搾取支配」「欧米列強からのアジアの解放と日本による侵略」「西欧近代の支配原理の分析」といった論議レベルの上位(あるいは下位)に、「東西の自我観をめぐる戦争」が見えてくる。
「近代の超克」は西欧の「力能的自我」観に対する東洋思想の深部からのいわば無意識的な《宣戦布告》であった。熾烈な思想戦の弾痕が残されているという意味でも、思想史的にユニークであり、貴重である。したがって、竹内が重視する「シンボル作用」という直感は正しいのであるが、「思想的には無内容」という見解には、否定的にならざるをえない。その象徴作用は「鬼畜米英」「撃ちてしやまん」のインテリ版に過ぎないというレベルではないはずだ。『坊っちゃん』の漱石が嫌った策略と詭計、あるいは「金力・権力」の成果である機械による物量作戦により大量殺戮を企てようとする欧米列強に対して、「大正教養主義」のオブラートで包んだ「皇国史観」の丸腰の精神論で日本は立ち向かった。しかし後になって日本のインテリ達は、開戦当初のドン・キホーテ的理想を恥じたのであり、これは「機械のことは任せておけ」と河上がいった洒落とは、真逆となった。端的にいって、竹内好の「近代の超克」論は、問題提起としては優れた先駆であるが、言っていることは矛盾し、屈折に満ちている。なにしろ「思想的に無内容」だと断定しておきながら、一方で「近代の超克は事件としては過ぎ去っている。しかし思想としては過ぎ去っていない。」などと言い出すのである。ただ、ここには彼自身の悔恨があり、その矛盾には、いかにも世代的なリアリティと実感がある。
■「近代の超克」シンポジウムは、国家の公式の「ファシズムと戦争のイデオロギー」を背景に背負いつつ、知識人の「自己合理化・事後納得」の欺瞞を内実とし、さらに戦後になっては、客観的に神話を剥ぐかのように見える新たな「『超克』伝説」が加えられ、三重の欺瞞に覆われることになる。「この会議からは、知的・思想的影響は受けなかった。思想的には無内容であった。単にシンボル作用しかなかった」との伝説である。結局、正体がわからないまま、「亡霊のようにとらえどころがなく、そのくせ生きている人間を悩ませる」(竹内好)という、怪談じみた座談会になってしまった。
■筆者は、このシンポジウムに複雑な感情を覚える竹内らの世代の読者に尋ねてみたいと思う。
「あなた方が当時説得されたのは、別にここに、あからさまな戦争とファシズムのイデオロギーが説かれていたからではないはずだ。そんなものはここでは主張されてはいない。ほんとうは、自分達にもっと大切だと思われた、別のものを見たのではないか」という素朴な問いを。
座談会そのものに潜入し、その心理的屈曲を内在的に解析しない限り、見えてこないものがある。現代の右傾化の中で「近代の超克」の劣化コピー版座談会は、すぐにでも仕組まれるだろう。その時、一見、極めて非政治的な言説が、なぜか政治的に反転するパラドックスが、またしても再演される。プロパガンダの言葉は抽象的であればあるほど、どうにでも恣意的に解釈できるはずだ。
おそらく、当時の読者が「超克」から読み取ったのは、禍々しい力の主体としての「欧米的な自我観」に反する、それを超えるような、あるべき「われわれ日本人の自画像」であったはずだ。それを肯定的な未来として読み取り、新たな文化創造を夢見たはずだ。つまり、自分の顔を鏡の中に読みとったはずではないのか。国家や歴史や戦争の話ではなく、歴史に参加できる「自分の主体」の問題がそこにまざまざと語られていたからこそ、共感したのではないのか。だからこそ、誘蛾灯に誘われる夏の蛾のように、自ら前のめりに影響されたのではないのか。「とらえどころのない亡霊」の正体とは、それだ。
その論議とは、暗雲たちこめる重苦しい国家的危機の中で、各々の実存を賭けた思想追究であったはずだ。それを、「『近代の超克』は無内容であるが、それだけに勝手な読みがゆるされ、思想の痕跡を拡大して空虚感を埋める手かがりにすることができた」(竹内)などというニヒルな言葉で誤魔化しなさんな、ということである。ほんとうに、同時代の視線で見て、「空虚感を埋める手かがり」程度の抒情詩だったのであろうか。これははなはだ、疑わしい。現にその同じ人間が「告白すれば、私自身も怨恨の哲学を認める」といっている。これは折伏された後にいたく後悔している信徒の悔恨に似ている。((10))
??人ごとではない。実際に「滅びの美」めいた不吉な歌は、平成の現在、すでに其処此処に聞こえている。時代の空気は当時に近い。歴史を二度演じるのは喜劇であろう。もし二番煎じを、愚劣だ、パロディだと思うならば、厚い皮と肉の下層に隠れた過去の弾の痕跡を、深く抉り出すしかない。
■もとより「近代の超克」の論点は、戦争肯定や植民地解放の論理でも何でもありはしない。人がこの世に生れ、どのように生き、いかに死ぬべきか、そのような夏目漱石「自己本位」以来の「生と自我」の問題の再検討である。この極東の島国がどうなるかわからない不安と恐怖の中で、そのような実存の主題を真剣に語ろうとする者がいたし、洒脱にまぜかえす者もいた。そこには『それから』の代助や、『行人』の長野一郎や、『こころ』の先生、のみならず、『暗夜行路』時任謙作((11))や、『浮雲』内海文三すら参加していた「思想的総力戦」であったかも知れない。そんな議論の場だったからこそ、一つ下の世代は、この座談会を、熱心に貪り読んだのではなかったのか。「近代の超克」は、「公の思想を祖述した」だけではない。公の側は、量的戦力としてしか見ていないつまらぬ国民の内面の葛藤など、どうでもよいはずである。
――「近代の超克」とは、比喩的にいうところの「禅問答のようにわけの分らぬ座談会」ではなくて、ほんとうに深奥部が「禅問答」なのであり、それは、この期におよんで、父母未生以前の「己とは何か」を問うた行為であり、壁際に追い詰められた日本民族自らへの公案であり、ギリギリの詰問であった。文字通り、日本人が実存の基底を問いかける漱石・西田・大拙ふうの「禅問答」を、深層に抱え込んでいたのだ。
時局がら、この「饗宴」が、地上の戦いと交差してしまったのは、悲劇である。当時の読者たちが無念だったのは、おそらくそれがあまりにも天空の論議(大正教養主義的な、余りに、大正教養主義的な)に過ぎず、地上の出来事には何ら作用できず、論客たちは消極的にやむをえず、戦局に同調したということであろう。
「一文學者としては、飽くまでも文學は平和の仕事である事を信じてゐる。一方、時到れば喜んで一兵卒として戰ふ。これが僕等の置かれてゐる現實の状態であります。何を思ひ患ふ事があるか」(「文学と自分」昭和十五年)
「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」(「近代文学」昭和二一年)
ともに、小林秀雄の言葉である。思想も文学も、現実の物理世界には無力であり、「時到れば喜んで一兵卒として戰ふ」という行為しかありえない、というわけである。
あえて引用するのは、小林の戦争責任うんぬんではなく、時代はいつでもそのような状況に陥るということである。しかし、明治以来、日本の文学者は、「思ひ患ふ事」の専門家だったはずだ。信頼し、崇拝すらしていたインテリたちの言葉は、抑止力にすらならなかった。ほんらいならば、高次の自我をめざした「主体的無」の思想もまた、単なる国家による精神的な刀狩りに終わった。
そして「近代の超克」にしてやられた若い世代は、戦後はかつての青臭いロマンチシズムを、自ら恥じた。
■問題は、このように明治大正昭和と内的に試行錯誤してきたはずの「実存と自我の問い」が、何故に、最終的には天皇制イデオロギーへと回収されてしまったのか、というインテリ達の思考回路の謎である。本来、あらゆる概念やシンボルの実体化を、解析・分解するであろう、ニュートラルな「無」「空」の思想ですら、この国では、〈天皇〉という民族的大我の一点に吸収されてしまう。これは未曾有の国家的危機のためであろうか。無論それは、ありえる話だ。そこで「主体的無」は、単なる個体の武装解除の哲学と化し、近代的自我よりもさらに無力な封建的自我へと退却し、民族的「大我」へと明け渡され、「大君の辺にこそ死なめ」の哲学となってしまった。ただ、そのように「あるがまま」に、過去を解釈すべきなのか。しかしそのような時代の空気を強制したのは天皇自身ではない。その木陰の藪に巣食う、別の者たちだ。
そしてこのような日本的な《自我?超自我》の在り方で連想されるのが、またしても漱石『こころ』のラスト、「先生」の自殺である。大帝や乃木将軍とともに、明治という時代、あるいは「民族的大我」に殉じたという結末である。ここには、単純に語れないような屈曲が、幾重にもあるだろう。いま、こうしてあらためて見ると、夏目漱石は、ほとんど予言者の相貌を帯びている。
――「近代の超克」では、非政治的なものが、最も政治的に、象徴的に、広範囲に作用している。それはしかし「思想的には無内容」といって切って捨てられるべきものではない。ランボーを語り、ドストエフスキー、ベルグソンを語ってきた最も先鋭的な知性の言葉が、「何を思ひ患ふ事があるか」といい、戦後は「僕は無智だから反省なぞしない」などと、啖呵を切ってしまう土壌、これはひとえに小林秀雄のみの問題ではない風土病のようなものだ。熟慮の上の方法論的判断停止であろうか。あるいは単なる市井のリアリストの処世術、というべきか。
「文学はアフリカの飢えた子どもを救えるか?」答え?救えはしない。しかし、逆に考えれば、たかが戦争の抑止程度のことなら、文学も言論も、役に立つはずだ、との見方もできる。戦争もまた、言葉で作られている。
■一方で確かに「近代の超克」派や、京都学派の中心であった西田・田辺らが、国家のイデオローグとなったことは事実であり、日本を代表する哲学者としての責任はまぬかれない。国内外の財閥等に主導された国家同士の利害戦を「聖戦」に変えたのが、彼らの時局哲学の自己欺瞞である。この点に関して、西田や田辺元の責任は問われるべきであろう。
戦時中、晩年の西田は、国策研究会において、金沢出身の佐藤賢了と出会った。陸軍省軍務局長などを歴任した東條英機の側近である。いつもくっついているので「東條の納豆」の異名もあった。その佐藤から、東條英機の大東亜共栄圏演説への助力を依頼された。そこで西田は『世界新秩序の原理』と題された論文を書き、東條が自分の思想を採用することを期待したものの、難解さが幸いしてか却下された。「東條の演説には失望した。あれでは私の理念が少しも理解されていない」と悔しがる西田の言葉が、和辻哲郎宛の手紙に記されている。
ちなみに、東京の漱石山房と、京都学派西田幾多郎を直接つなげるのがこの和辻哲郎である。明治二二年生で「超克」の論客よりも、十歳ほど年長であり、漱石や西田よりも二十歳ほど若い中間の世代である。和辻は大正十四年に京大助教授、のちに教授に就任。若い頃、和辻は漱石最晩年の門下であり、小宮豊隆、森田草平、芥川龍之介らと盛んに交流していたが、大正二年すでに『ニーチェ研究』を出版している。これはかつて漱石の播いたニーチェ熱の発芽の一つであろう。((12)(13))
西田幾多郎や田辺元の戦争責任論は、すでに十分に語りつくされているようにも思うし、この稿の範囲を超える。そして、彼らのほんとうの仕事も、そこにはない。
後期の西田哲学でいう「無の場所」とは、近年の量子力学などでいわれる「無」や、ゼロポイント・フィールド、量子真空などの仮説概念と、どのように関連しているのか、あるいは関連の可能性があるのか。すでに物理学の世界では、意識と物質の垣根はない。((14))このような視点からも、西田の思想の射程の確認や再評価、今後の解釈の可能性は、大きく変わりうるであろう。
大正教養主義の『最後の晩餐』
――おそらく「近代の超克」とは、一つのファンタジー議論小説なのだ。それはどのような小説か。近代以降の「力の自我」による西欧の帝国主義、功利主義に対抗し、方便的に偽装された日本帝国主義を、「毒をもって毒を制する」形でぶつけて「超克」し、世界最終戦争(石原莞爾)の勝利者として、その向こうに輝かしい新たな地平を拓く。そのときに、晴れて日本民族は、鬼面を脱ぎ捨て、菩薩のような慈顔で、「主体的無」の哲学や、大乗仏教「空」の思想や、調和的な「和」の思想を、アジア諸国や覇権主義的な欧米諸国に解き明かす。そしていよいよ、大東亜の盟主から、世界に冠たる日本国として、諸国が畏敬をもって仰ぎ見る中、天皇、および東洋的な徳をもって、人類を平和裡に統治する。その近未来にあるべき、「理想の主体」の内部を、先取り的に論議しているのが、このプラトン『饗宴』の苦いパロディのような「近代の超克」座談会なのではないか。あえていえば、それは「個」を確立せんとして、「無」に到る大正教養主義的言論サロンの『最後の晩餐』であった。((15))同時にまた、戦争という戦慄的現実を前にした、書斎派知識人のナルシスティックな自己納得の内訳でもあった。多くの者が半信半疑ながら、そのうっすらとした「夢」を共有していた不思議な時間があったはずだ。彼らは戦後、そのナイーブな「夢」を自ら恥じて、封印した。
*
――というようなわけで、ここまでは一篇の思想史的スケッチであり、反則技に近い読みに過ぎない。
現実の「近代の超克」座談会には、大拙も、幾多郎も、ましてや漱石も、出席してはいない。そもそも『明暗』の作者は、大正五年の連載中に、死んでいるのだ。
ただ筆者には、座談会を覆う彼ら三人の影と、「我とは何か、世界とは何か」という、この世そのものを「超克」せんとする物狂おしいまでの問いかけが、強く感じられてならないのである。昭和十七年夏のシンポジウムの十三人とは、彼ら「三連星」に淵源を発する思想的リレーの継承者であろう。
昭和二十年六月七日、西田幾多郎は、尿毒症を悪化させ、鎌倉にて逝去した。ついに「絶対矛盾の自己同一」の哲学者は、彼の思想と生命の源泉たる「無」の場所へと帰命した。
日本の敗戦を直前にしての西田の死は、一思想家として、幸いだったのか、不幸だったのか、よくわからない。
同じ鎌倉に住む大拙は、戦時中の食糧難で、栄養失調状態の西田幾多郎に、せっせとサツマイモなどの差し入れをしていた。金沢四高以来の盟友の亡骸を前に、大拙は、あの『門』で描かれた「羅漢」のような顔を崩して、いつまでも号泣し続けていたという。
ことによると、葬儀の参列者の背後には、すべてを了解した夏目漱石も、無言で佇んでいたかもしれない。
鈴木大拙は、戦後という新たな日本の「近代」を眺めつつ、昭和四一年まで生き延びた。鎌倉の東慶寺には、西田幾多郎のこじんまりとした墓碑に、双子のようにそっくりな鈴木大拙の五輪塔が、近接している。
【註】
(1)「近代の超克」の参加者は次の十三名である。西谷啓治、鈴木成高、諸井三郎、菊池正士、下村寅太郎、吉満義彦、津村秀夫、亀井勝一郎、林房雄、三好達治、中村光夫、小林秀雄、河上徹太郎(司会)。
「近代の超克」といった場合、広義にはこの文学界シンポジウムと、中央公論「世界史的立場と日本」の二つの座談会に発する思想的風潮をいう。
(2) 竹内好には、開戦時に書かれた「大東亜戦争と吾等の決意」
という宣言文がある。「十二月八日、宣戦の大詔が下つた日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽やかな気持であつた」「われらは支那を愛し、支那と共に歩むものである。われらは召されて兵士たるとき、勇敢に敵と戦うであろう。だが常住坐臥、われらの責務は支那を措いて無い」「中国文学」(一九四二年一月)その後、竹内は一兵卒として、中国前線に向かわせられる。竹内「超克」論は、このような過酷な体験をも踏まえて読まれるべきだろう。
(3)京都学派の哲学には、西谷啓治のようにドイツ神秘主義や禅仏教に向かう傾向と、高山岩男のようにヘーゲル弁証法や歴史哲学に向かう傾向があるように見える。これらは西田哲学が内包していた両極性であろう。
(4)すでに西田幾多郎自身が『善の研究』において、М・エックハルトや、ヤコブ・ベーメなどの西欧神秘主義にふれ、梵我一如や、禅思想との親和性を語っている。
(5)ここでいう東洋的自我とは、次のような探究を経てきた「場」でもある。「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」道元『正法眼蔵』(現成公案)
(6)『荘子』(天地篇)田圃の水汲み機械の是非をめぐる話。手動で水汲みをしていた村の古老を、若者がなぜ機械仕掛けにしないかと揶揄した。すると老人は「機心、胸中に存すれば、則ち純白備わらず」と断じる。「機心」とは、メカニックなものの利便性に淫した人間精神のことか。「純白」とは、功利性や、智謀知略に汚染されない心。
(7) 己自身の心を「鏡」とするメタファーは、仏教や神道的文
化の伝統にある日本人、東洋人には親しい。大円鏡智、平等性智、自性清浄心など、純粋に観照的智慧を表す語彙や、あるいは神社の御神体としての鏡は、そのようなものであろう。この鏡が鏡面球体となると、『華厳経』のコスモロジーのように、個々のモナド的宝珠が互いに他を映し出すインドラ網の美しくも荘厳な宇宙的比喩となる。西欧において精神を「鏡」の比喩で表した例は、西田幾多郎も『善の研究』でふれているドイツの神秘家ヤコブ・ベーメのUngrund(無底)の意識が挙げられる。これは顕現以前の神が、己自身を「世界」として映し出すという、底のない無限大の「鏡」意識である。
(8)この三人の選択は極めて恣意的である。岡倉天心、福沢諭吉、内村鑑三、その他の思想家、ジャーナリストを入れてもよい。しかしこの稿では、人脈的に思想的に参加者に近いことと、文学・哲学・宗教という、精神史の三分野の代表者との意味も込めた。「近代の超克」というジグゾーパズルに、この三人の肖像を重ねると、大きな「隠し絵」が見えてくるように思われる。
(9)鎌倉円覚寺で釈宗演の公案にしごかれた漱石は、『吾輩は猫である』『門』『行人』などでも「父母未生以前における本来の面目」にふれており、この公案が漱石生涯のテーマであったことがうかがえる。一方でデカルトのコギト「我思う、ゆえに我あり」については、『吾輩は猫である』の猫に「人間は長い歴史の中でこんな当たり前のことしか思いつかない愚かな生き物だ」と嘲笑させている。この東西二つの自我観の対照性は、象徴的である。
(10)「十年前の昭和十七年十月号の同じ『文学界』を取出してみた。そこには「近代の超克」と題されているかなり長い座談会が掲げられていた。(略)十年前、青年たちは、それをむさぼり読んだ。雑誌というものがほとんど姿を消した時代であった。(略)『文化綜合会議〔知的協力会議〕近代の超克』という単行本が、そのころのガラガラにあいた本屋の奥に積まれたころ、日本中の文科系の学生たちは、兵営に、戦場に、そのまま送りこまれたのであった。学生たちは、じぶんたちを見送る「学徒出陣」の旗と「近代の超克」という悠長な座談会とのあいだには、なんの関係もないのだと信じていたにちがいなかった。あるいは「何時も同じものがあつて、何時も人間は同じものと戦つてゐる??さういふ同じもの??といふものを貫いた人がつまり永遠なのです」という小林秀雄の発言などが、兵隊服をきせられた若い学生たちの、良心をささえる唯一のものであったかもしれない。(仁奈真「一〇年目「現代日本の知的運命」をめぐって」。竹内『超克』論での引用)
(11)「個」を確立しようとして暗夜を彷徨い、「無」の調和に到る??とは、志賀直哉の『暗夜行路』の主題でもある。
(12)漱石門下の哲学関連では、安倍能成、阿部次郎、天野貞佑、晩年の和辻哲郎があげられる。漱石の死の三年前に出された和辻の『ニーチェ』は、当時、世界的に見ても高い水準の研究書とされた。なお、鎌倉東慶寺には、西田幾多郎、鈴木大拙の墓のやや下段に、和辻哲郎の墓がある。
(13) 漱石作品と京都の結びつきは『虞美人草』が知られている
が、明治三九年頃、新設の京都帝国大学文科大学学長の狩野亨吉が、漱石を英文科の教授として招聘していた。(下鴨神社北の自邸に漱石を招いた狩野は、『虞美人草』執筆のきっかけを作ったともいえる)しかし漱石は例によって、「余は余一人で行く所まで行って、行き尽いた所で斃れるのである。」という妙な手紙を送って断った。この狩野の目論見が実現すれば、京大は、哲学の西田幾多郎、文学の夏目漱石という二枚看板となる可能性があった。
(14) 量子力学と東洋思想の結びつきは、N・ボーアやコペンハ
ーゲン学派に始まる。波動方程式で著名なA・シュレディンガーは、インドのヴェーダンタ哲学を自己の世界観としていたし、W・パウリは、C・G・ユングとの共著『自然現象と心の構造?非因果的連関の原理』で易経やケプラーの世界観を論じている。「近代」の定義の一つとしては、自然の中の因果律の発見・応用と考えることもできるが、「共時性・シンクロニシティー」はその対抗概念となる。
(15) 我々は、日本の敗戦とともに、大正教養主義そのものを、
何か照れくさいもの、ナイーブ過ぎるもの、のみならず、忌まわしいものとすら考えるようになった。しかし、白樺派文学や大正ロマンと称される風俗文化も含めて、大正期こそ日本近代の「思春期&自我の目覚め」であろう。この悩み多き季節を否定してしまっては、多くのものを失うはずだ。
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小林秀雄の歴史像
―戦前の評論を中心に
大堀敏靖
歴史とは何なのか。あらためて考えてみるとよくわからなくなる。十代の頃、なぜ過ぎ去ったことなどを学ぶ必要があるのか素朴な疑問を持った。教師に質問すればそれなりの答をあたえてくれただろうが、質問しないまま過ごしてしまった。懸命に受験の歴史を勉強し、「天壽国曼荼羅?帳」や「讒謗律」など難しい漢字も覚えた。
大学に入り、授業ではなく、サークル活動で歴史を学ぶ機会に恵まれ、「学問は歴史に極まり候ことに候」(荻生徂徠)と教わった。フランスの詩人ヴァレリーが「人間は後ろ向きに、未来にはいっていく」と言ったという。小林秀雄の「歴史と文学」を仲間と輪読し、歴史に向かう姿勢を学んだ。問題意識というものは、例え表面では忘れていても、潜在意識にはずっと溜め込まれていて、それを探求するために無意識にそれを教えてくれる人のところへ吸い寄せられていくものだということを今振り返って思う。
小林秀雄の『美を求める心』を高校の国語で習った。国語の教師がばかに力を入れて小林について語っていた。小林ファンは毎日小林の文章を読まないと気がすまないのだという。担任でもあった先生は国語の授業だけでは足りないと思われたのか、学級会活動の時間まで割いて「小林秀雄」を学ぼうと提案された。が、司会を担当した男が「こんな難解な訳のわからん人の文章を読むよりも今度の文化祭の準備をしたほうがいいと僕は考えます。皆さん、どうですか」と提案し満場一致で採択されたため、小林秀雄は岐阜の高校生たちにそっぽを向かれてしまった。担任の教師の立場を台無しにして自分の提案を通してしまったこの男は今、大阪大学で経済学の教鞭を取っている。小林秀雄より経世済民、銭勘定にこそ価値をおく人間だったのだろう。
難解な小林の文章だったが『美を求める心』の中の「美がつくりだす沈黙に耐える」の一節が頭に残った。現代人はしゃべりすぎる。黙って美術鑑賞をせよ。禅宗のように不立文字、教外別伝で真理は無用な言語で伝わるものでないから、黙っているのが武士であり、男であると考えて、口下手な自分を擁護する思想だとその部分は歓迎していた。結局先生の数時間割いた熱弁の授業も私のような非文学人間には馬の耳に念仏で、主題もわからなかった。
再び小林秀雄に出会ったのは大学の「國史?究會」という男ばかりの民族主義的サークルで、だった。小林秀雄の昭和十六年三月「改造」に掲載された『歴史と文学』を輪読して、先輩から歴史の学び方を教えられた。学校で教えられる歴史はおもしろくない。わざわざおもしろい部分、人間が生き生きと活動する部分を捨象して、事件とその因果関係を教え込む。無味乾燥な平ぺったい通史に仕立て上げ、そしてそれを暗記させられる。おもしろいのは歴史の人間の心情、つまり文学的部分なのだが、わざわざそれを排除するのが、歴史なのだと戦前の歴史教育でも今と同じことが行われていた。「例へば明治維新の歴史は、普通の人間なら涙なくして読む事は決して出来ないものだ」と小林はいうが、幕末維新を勉強しても涙の一粒も流れないばかりか、複雑な諸藩や諸勢力の動きが理解できず、難しい語句を覚えるのが苦痛で、まったくイメージがつかめない。
ただ吉田松陰は黒船に乗ろうとして嵐の中を金子重輔と船を漕ぐ姿を、大河ドラマ「花神」で篠田三郎が演じていたが、カッコいいと思った。それは映像に残る特攻隊の青年たちが、野天に拵えられたテーブルで最後の宴をしている姿とも通じるものがあった。小林は「歴史をよみがえらせる力」が必要だというが、想像力に乏しい人間は、司馬遼太郎の創作した松陰像とさらにそれをテレビドラマ化した役者の演じる松陰でイメージをつかむしかない。それは与えられたイメージだが、無味乾燥な通史上の「尊皇倒幕を唱えた過激な思想家」という教科書の教える松陰より、「人間」が感じられる。
小林秀雄という思想家は恐るべき知性の持ち主なのだが、逆説的ながら、知性や言葉をあまり信用せず、知性、観念、イデオロギーをぶち抜いて、実際家や覚悟を決めた人、「原始人への回帰」を考えていた人だったようである。評論をいくつか読んでいると確かに途中、自分の世界に入り込んでしまって、読者は置いてきぼりを食ってしまうようなところがあるが、繰り返し言っていることは、単純なことで、もっと現実と向き合えということのようである。
知性や言葉を無駄に多く持つに至った現代人は十分に対象と向き合うことなく、言葉で認識し、知性で納得すればもう対象と向き合うことを止めてしまう。そこに美しい花が咲いていて眺めるが、それが菫の花とわかると、納得して、もう見なくなる。それを見続けて絵にしているのが、芸術家で、彼は無駄なおしゃべりはせず、花を見続けて、実によく見て、もう花と自分が一体となるまで見尽くして、その生きる姿を写し取る、これが正岡子規の唱えた「写生」なのだと小林はいう。そこには見る対象に対する「愛」が必要で、軽蔑しながら見続けるということは不可能である。
歴史上の人物や事件についても、与えられた資料、文献、遺跡などと黙って対面する。しかし、瓦や刀や判読不能な書簡など即物的にいくら眺めていても、それは物に過ぎない。そこに想像力を働かせて、人間を浮かび上がらせなければならない。具体的人物の口ぶり手振り、息遣いが感じられるまで想像力を働かせて歴史をよみがえらせなければならない。そこに余計な知性や無粋な言葉が入り込んでしまうと、吉田松陰=幕末の過激な思想家、乃木希典=封建道徳の権化、となってしまう。歴史をよみがえらせることはそこで停止してしまう。
私も生半可な知識で世の中を割り切ろうとするひねくれた十代を送っていた。自分がどのような悲惨な目に遭っても、屈辱を受けても、言葉さえあれば、現実を呪って、自分を正当化し、屈辱を与えた人間を攻撃して復讐できると考えていた。しかし、二十代になって、こういう考え方は「文弱の徒」と規定され、三島由紀夫によって見事に粉砕された。
観念や抽象的な言葉の世界に生きるのではなく、しっかりと対象と向き合い、現実と格闘して生きた思想をつかまなければならないと教えられた。
小林は「歴史は思ひ出」という。これはよくわからない。個人の記憶ならば「思い出」というだろう。幼い頃の記憶を思い出して現在に蘇らせ、懐かしい思いに耽ることができる。しかし、歴史は個人が体験したことではない。個人が出生する以前の出来事である。思い出そうとしても脳細胞の中に記憶がなければそれは不可能ではないか。先祖の記憶も残っているというDNAのことを言っているのか。小林は言う。
《私達が、少年の日の楽しい思ひ出に耽る時、少年の日の希望は蘇り、私達は未来を目指して生きる。老人は思ひ出に生きるといふ。だが、彼が過去に賭けてゐるものは、彼の余命といふ未来である。かくの如きが、時間と言うものの不思議であります。この様な場合、私達は、過去を作り直してゐないとは言わぬ。過ぎた時間の再構成は必ず行はれてゐるのであるが、それは、まことに微妙な、それと気付かぬ自らなる創作であります。…私達の思ひ出といふ心の動きのうちに、深く隠れてゐる、この様な技術が歴史家達に、過去にあつた他人達を思ひ出す時に、応用できぬわけがありますまい》(『私の人生観』昭和二十四年)
ここで述べていることは、歴史家が過去を「知的に再構成」する事に対して、「技術」としての「創作」という方法により、歴史を現在によみがえらすことである。だから他人のことを「思い出す」ということは比喩的な表現で、意識的努力により、過去を想像、あるいは創造することが、「思ひ出」ということになる。
しかし、そんなことをしたら、歴史は個人の妄想に委ねられ、とても共有することなどはできぬ主観的歴史に脱してしまうのではないか。少なくとも学校教育で、誰かの主観に満ちた歴史などを教育していいのか。という反論が成り立ってしまう。小林は言う。
《現代人は、何はともあれ、歴史の客観性だとか必然性だとかいふ言葉を、実によく覚え込んでしまつたのであります。そして歴史を冷たい眼で、ジロジロ眺めてゐる。暖い眼でも向けたら、歴史の客観性が台無しになつて了ふとでも思つてゐるらしい。そして無論心楽しんでゐるわけではない。従つて皮肉屋になる。而も、単なる皮肉屋に墮してゐる事には気が付かない、自分は歴史を正しく見てゐると思ひ込んでをりますから。果たして正しく見てゐるのだらうか、それとも、ただ冷淡に構へてゐるのだらうか》(昭和十六年「歴史と文学」)
《歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念といふものであつて、決して因果の鎖といふ様なものではないと思ひます。それは例へば、子供に死なれた母親は、子供の死といふ歴史事実に対し、子供の死といふ出来事が、幾時、何処で、どういふ原因で、どんな条件の下に起つたかといふ、単にそれだけのものではあるまい。かけ代へのない命が、取返しがつかず失はれて了つたといふ感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい》(前掲書)
この四月に起こった韓国旅客船の転覆事故で身も世もなく泣き叫ぶ、遭難した高校生の母親達の姿をみても、その悲しみを捨象して、事故原因の糾明だけであの出来事全体を片付けしまうことが歴史であろうかという問いかけである。
《もしこの感情がなければ、子供の死といふ出来事の成り立ちが、どんなに精しく説明出来たところで、子供の面影が、今なほ眼の前にチラつくといふわけには参るまい。歴史事実とは、嘗て或る出来事が在つたといふだけでは足りぬ、今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それをよく知つてゐる筈です。母親にとっては歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言へませう》(前掲書)
つまり、「子供の死」は観念で抽象的なものだが、歴史事実とは「死んだ子供」という実在である。それは具体的な「形」であり、鮮明なイメージを結ぶ。今もありありと眼前に彷彿するのが歴史でなければならない。母親は歴史の外にあるのではなく、歴史の主体として、現在において「死んだ子供」を「思い出」し、そのイメージを少なからず「創作」している。そういう作業は母親の「愛惜の念」に裏打ちされて出来る行為である。愛情があるからこそ「死んだ子供」を思い出し、今も現前にありありと思い浮かべることができる。もしも愛情がなかったら、悲しむことも思い出すこともない。
それならば、小林のいう歴史を感ずるためには、歴史を愛する必要がある。ところが、科学的手法で歴史に向かうならば、愛情のようなものは主観の入る元凶として真っ先に排除されなければならない。客観的、実証的に歴史に向かえば、「冷たい眼」で歴史を見るしかない。
「大東亜戦争は侵略戦争であった」それが客観的真相であるとすれば、そんな悪いことをした先人は愛するどころか憎悪の対象であるから、眼前に彷彿すればわずらわしいだけである。「思い出す」のも不愉快であるから、「清算すべき過去」として記憶の淵から上ってきても一人残らず蹴落とさなければならない。
母親が子供を愛するのはごく自然なことだが、肉親ではない先人、顔を見たこともない、面識もない先人にたいして「愛惜の念」をもつことは努力を要する。その努力はまた「愛惜の念」がなければできないことである。同朋、祖国の先輩という血のつながりの意識で歴史に対するしか本当の歴史は見えてこないかもしれない。
また、「歴史は鏡」と小林は言う。鏡は自分の姿を映し出すものである。神社の拝殿の正面には鏡が掲げてある。あれは己の姿を映して姿や心を正すことを促すものだろう。歴史も己の姿を映し出してくれる鏡である。歴史の外に身をおき、歴史を客観的に眺める人にはこういう見方はできない。単に文献であったり、瓦や刀剣という物にすぎない。小林は北畠親房の書いた『神皇正統記』を「一番立派な歴史」と評価し、その中で親房が心の鏡を磨くことの必要性を強調しているが、それが歴史に向かう場合非常に重要であるという。
《親房は、書中、心の鏡を磨く必要を繰り返し言つてをります。悟性を磨く事ではない、心性を磨く事です。そして、『心性明らかなれば、慈悲決断は其中に有り』と言つてゐます。いかにもさういふものでありませう》(前掲書)
例えば、織田信長という人物を学んだとする。その行動力に感心して立派だと思う人がいる。また、無慈悲な男だと嫌悪する人もいる。それぞれ捉え方があるが、好感をもった人の中には織田信長の行動力に好感を持つという自分があるということがわかる。その無慈悲を嫌悪する人には自分の中に無慈悲を嫌う慈悲深さがあることが知らされる。そのように信長を通して自己がわかってくる。それが鏡の働きだという。
さらに、心の鏡が曇っていては美しいものも歪んで映り、美も感じられない。心理学でいう様に、己の現在の心境はその心境に類似したものを引き寄せる傾向がある。ハイテンションのときは、明るいもの、楽しいもの、愉快なものが過去の記憶から吸い寄せられてよみがえってくるし、見るもの、聞くものも肯定的に、好ましいものとして感じられる。ところが、逆にローテンションのときは、暗いもの、苦々しいもの、不愉快なものが記憶の中から手繰り寄せられて、連想観念となって、ますますネガティブとなり、その時見るもの、聞くものも否定的な、嫌悪すべき対象として感じられる。
「戦争の美化」とか「自虐史観」とか左右からそれぞれ歴史の捉え方を批判するが、あらかじめしつらえた色眼鏡で歴史に対しても真実は見えてこない。ある「史観」をもって歴史を見ることは自己を歴史の外において客観的に眺めることであるから、この身には何も降りかかってこないという安易さがある。そして歴史の諸事象より上位に立つことができたような錯覚に陥り、謙虚さを失う。それも心の曇りというものだろう。
鏡は汚れて時として物事をいびつな形にしか写さない時もあるが、磨けばまた、クリアに現象を映し出す。歴史は厳然として存在し、後世の人間の手によっても微動だにしない。
《歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいふ思想からはつきり逃れるのが、以前には大変難しく思へたものだ。さういふ思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備へて、僕を襲つたから。一方歴史といふものは、見れば見るほど動かし難い形と映つて来るばかりであつた。新しい解釈なぞでびくともするものではない。そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない。さういふ事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。》(『無常といふ事』昭和十七年)
古典や芸術作品に対するように心を空しくして、心の鏡を澄明に磨いて「歴史に推参する」。そこに厳然と存在する歴史を「思い出」し、人物の口ぶり手振りがリアルに見えてくるまで想像力を巡らさなければならない。それは鎌倉時代=封建社会と十把ひとからげに割り切って安心してしまえるものではない。合理的な進歩的歴史観から発展過程として、見下しながら通過する事もできるものではない。それは複雑な思考の果てに編み出されたある史観をもって歴史を見ることよりも難しいことなのだろう。
小林の説く歴史像を本当にわかろうとすれば、実際に歴史の中に深く分け入り、「推参する」しかない。理屈でわかることは小林の目指すところではない。「感じること」が求められている。言葉では説明しきれないものを小林は提示して、後は読者にその体得は委ねているようなところがある。料理のレシピは、その通りやっても俄かにプロの味が出せるものではない。プロの料理人は肝心のところは伏せているのか、あるいは伝えようにも言葉には表しようのないコツのようなものがある。それは各人が試行錯誤のうちに体得するしかないものだろう。禅の不立文字、教外別伝のようなものだろう。
数年前、私は京都の竜安寺を訪ねた。時折時雨が降り、陽も射すという初冬の頃であった。世界遺産になっている有名な石庭がある。公案に取り組むつもりで、ただこの庭に体面するだけの目的で京を訪れた。
庭に面する方丈の縁側に座るが、やはり、油塗りの土塀に囲まれた石と砂利しか見えてこない。訪れる人は多い。来日したエリザベス女王がこの庭を絶賛してから外国人のほうが多くなったという。次から次へと人の波は押し寄せるが、デジカメに庭を収め、庭を背景に自分たちが収まるとたいてい五分くらいで方丈の裏手に消えていく。見ていない。見たと言っても石と砂利しか見ていない。
旗を持ったガイドが説明する。作者は不明なこと、土塀は遠近法を逆用して庭を広く見せようとしていること、別名「虎の子渡しの庭」と呼ばれていること、あるいは「心」の字の配石であるとか、中国の五岳、禅の五山を表すとか、大海や雲海に浮かぶ島々や高峰を表すとか、解釈の仕方を紹介してくれる。旗に付いて回るツアー客は頷きながら、やはり平均五分の鑑賞で去っていく。
私は一時間座った。隣に座っては去っていく人々の様々な解釈も役立ったのは確かである。一番納得したのは、関西の男性が連れの男性に語っていた次のような解釈だった。
十五ある石はどこから見ても決して全部は見えない。見えない石を見ようとすると別の石が隠れてしまう。十五は月が満ちるように完成を表す数である。完成はやがて衰退へとつながっていくからわざと完成を避けている。それは日光の東照宮にも見られる、隠れたところにわざと不完全さを残しておく考え方と共通している。
関西の男性はこのように講釈をしていたのであるが、私は、さらに人間の見方として、仏は完全にあるに対して人間は不完全にしか見えない。実は十五の石があって、どの人間も完全なのであるが凡人には完全は見えない。後で知ったところによると方丈内部の室内の中央辺りに全ての石が完全に見える位置があるということだった。それは仏の視点なのだろう。仏の視点からは全ての人間も十五の完全な姿に見える。しかし、凡人にはどこからどう見ても不完全しか見えない。私はこのシンプルに見える庭にそのような深い製作者の意図があることに感動した。
これは凄いことだと思った。これは一時間、公案に向かうつもりで庭に対座して得た成果だった。製作者は不明であるが、禅にも理解の深いその男が腕組みをして下の者に指図したり、しゃがんで眼を細めている様が彷彿としてくるように思った。六百年の鑑賞に堪えるだけのものをさすが持っている。恐ろしいことだと思った。
しかし、私の納得したようなこれくらいの解釈は実はまだまだ浅薄なものかもしれない。製作者はもっと深遠な意図を忍ばせてこの庭を作り、後世に挑んでいたのかもしれない。庭は厳然として存在し、微動だにしない。皮相な解釈や見方で揺らぐものではない。歴史もそうしたものだろう。
小林の歴史に関する主に戦前、戦中の評論を読んでいて気づくことは、まったく時局に関するコメントがないことである。多くの文学者は真珠湾攻撃の成功に快哉を叫び、俄かに愛国者となって、日本の民族的優位性や聖戦であることをそれまでの主張も清算するように、臆面もなく叫んでいた。小林の評論は極めて静謐で、末尾の付記を確認しなければ何時書かれたものかもわからない。戦前か戦後かも推測できない。
しかし、小林は雑誌社の報道班員になって大陸戦線、朝鮮、満州、中国を渡り歩いて、見るべきものはきちんと見て、すぐれた紀行文の中にそれを書き込み、文藝報国会、大東亜文学者大会で講演もし、戦時平時に関わらない、不変の文学者のあり方について説いていた。決して現実に背を向けたり、引きこもるような人間ではなかった。
昭和十八年に書かれた『ゼークト「一軍人の思想」について』を読んでも、現実にきちんとコミットしつつも、深い洞察で物事の本質を見抜いた人間を評価していることがわかる。第一次大戦で参謀を務めたゼークトは戦後の平和的ムードの中で先の大戦をつぶさに総括し、精兵の必要を見抜いた。十万国防軍を組織し、これがナチス国防軍の基礎となった。ゼークトは言った。「人間精神がこれと抗争して徒爾に終わるのは、愚昧、官僚主義及び標語(スローガン)の三事である」と。「将卒はもつぱら唯一の戦争目的、即ち敵の殲滅を知るのみだ、といふ信条に生きた純粋な一軍人からかういふはつきりした言葉が聞けるのは興味ある事だし、気持ちのいい事だ」と小林は言う。
「愚昧」というのは愚かで物事の道理がわからないことである。「官僚主義」は前例に固執し、形式的、画一的な政策対応しかできないことである。そして「標語(スローガン)」は小林の一番嫌った、抽象的なイデオロギー、観念の下に徒党を組んで集まった人々が大声を挙げて叫び、横幕にアジ文字で書いて掲げる文句である。
そこでは文学で一番の主要テーマとなる「個性」が押し込められる。「個性」などを重視していては、大同団結はできない。同じ主義主張で集まった仲間でも、生まれ、育ち、環境、趣味、好みまで同じではない。双生児でさえ、個性があって違っている。そういうまちまちの「個性」をいちいち重視していては「政治運動」などはとてもできない。細かいことには目をつぶり、妥協の下に、大同団結し、徒党を組み、スローガンを掲げて、デモ行進をし、抗議行動をし、街頭で演説し、ビラを配り、署名を取り、陳情に出かける。集団で行動する人間は匿名で主張をして、責任をとらない。
小林は左翼だけを嫌っているのではなく、愛国団体というようなものも、「信ずる能力を失って」イデオロギーの下に徒党を組み、反省もないとして、左翼運動と同様とみなした。「愛国」のその「日本」というものは心の中にあるものであって、各人が「個性」として持つものである。外に観念として存在するものではない。何かを本当に信ずる「個性」は「危険」を伴うものであり、したがってそこに「責任」が生ずる。徒党を組みスローガンの下に結集して匿名で主義主張を叫び無責任な言説を吐いているやり方は少なくとも「個性」を扱う「文学」からは遠い。このようなことを戦後の講演で述べて特にインテリやジャーナリズムを「ばか」とまで言って嫌悪している。
また、小林は、政治家は要するに「整理家」に過ぎず、「敵とは戦うが、自己とは戦わない」と言った。「個性と戦う」ことの必要性を言っているが、これは「近代の超克」座談会の中で「偉大な芸術家は時流に勝った人たちだ」というのに通ずることで、逞しい「個性」は果敢な戦いの中で時流に流されずに流されそうになる自己と戦ってついに勝利した人たちという意味だろう。適当なところで、スローガンや出来合いの観念、イデオロギーの中に安住することなく、自己の内面を妥協なく掘り下げて、何かをつかんだ人を賞賛しているように思える。
芸術作品や歴史に対する小林の姿勢は、「無私の精神」で、観念、イデオロギー、余計な知識は惜しむことなく捨て去って、その深奥へと「推参する」、心を空しくして、ただ感ずる、そして、「信ずる」という、原始的ともいえる「技術」であった。それは戦前、戦中、戦後の世相の変化にもまったくブレることなく一貫していた。「思想の武士」と亀井勝一郎は小林を評したが、戦後の価値観の大転換の中で言論を覆した人間も多くいた中で小林の語った次の有名な台詞は端的にその一貫性を表している。
《僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。》(昭和二十一年一月『近代文学』座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」)
心を空しくして歴史そのものとしっかりと向き合い、対象と一体感を得るまで自己投入する、そこで感ずるものを得る、そして信ずる。その効用は心が自由になり、豊かになるということであると小林は言う。左にも右にも与することなく、独自の探求と思索によって展開された評論には、人間の生き方や学問の姿勢として真実があり、力を注入される思いがする。 (平成二十六年五月)
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【解題 『戦争と文学』】@
和辻哲郎の「文化的創造に携わる者の立場」を読む
野寄 勉
このたび別巻が刊行され完結した『コレクション 戦争と文学』の第七巻「日中戦争」(集英社 平23・12)には、小林秀雄の「戦争について」(『改造』昭12・11)に先立って、和辻哲郎(明22〜昭30の「文化的創造に携わる者の立場」が収録されている。『偶像再興』(大7・12 岩波書店)に続く和辻二番目の評論集『面とペルソナ』(昭12・12 岩波書店 昭和18・6までに第三刷り)に所収された、八十年近く昔の文章でありながら、きわめて今日的な読みの可能性を孕んでいる。やはり岩波書店の『思想』(昭12・9)に発表された当時も、警世の文章として評判が高かった。『和辻哲郎全集』中、所収巻である第十七巻(岩波書店 平2・9)の解説を担当する古川哲史は〈わたくしなども、この文章によってどれだけはげまされたかわからない〉と振り返っている。この初出は、すなわち、同年七月七日、盧溝橋事件を端とする日中戦争が始まった直後ということになる。同月の二十八日、日本軍は北京・天津付近で軍事行動を開始する。八月九日には中国軍が上海で大山勇夫海軍中尉を射殺(大山事件)したことを端に、同月十三日、第二次上海事変が起こる。以後上海戦線は膠着状態が続くといった時代の空気に触発された約三〇〇〇字を要約すれば、以下のようになろうか。
*
日本は、世界史的に規定された特殊な地位にあるがゆえの悲壮な運命が、二十世紀中に展開するであろう。西アジア・ヨーロッパ、インド、シナの各文化圏は高貴な文化を築いたが、近代以後は、ヨーロッパ文明のみが支配的に働き、あたかも人類文化の代表者であるかのごとき観を呈した。すなわち、この文明を担う白人は、有色人を自らの産業の手段に化し去ろうとした。もし十九世紀の末に日本人が登場して来なかったならば、古代における自由民と奴隷のごとき関係が白人と有色人の間に設定されていたかも知れぬ。しかるに日本人はインド及びシナの文化の中で育ってきた黄色人種にも関わらず、わずか半世紀の間に近代ヨーロッパの文明に追いつき、ヨーロッパの一流文明国に比して劣らざる能力を有していることを示した。精神文化においても、その本質的把握を失い去ったインド・シナ文化を血肉に保存し、加えてギリシア文化の潮流をも吸収した。この現象が近代ヨーロッパ人にとっては不安と脅威となった。二十世紀が「黄禍」という標語とともに幕が明けたのは、日本人の能力がいかに当時のヨーロッパ人にとって予想外であったかを示している。
日本人の役割は、十億の東洋人の自由の保証にある。白人は本能的にこの事態を好まず、たとえば英国の産業は日本の産業に対して公平な競争を拒んでいる。英国人にとって文明の防衛とは、四億のインド人を奴隷状態に置くことの防衛にほかならぬ。日本人は有色人も白人と同じ権利を有することを立証することによって、この防衛を脅かし、白人世界に危険をもたらした。
日本の発展の度が高まれば抑圧の度も高まることから、日本は逃れられない。発展を断念しない限り、日本人は悲壮な運命を覚悟しなくてはならぬが、この運命を護り通すことは、究極において十億の東洋人の自由を護ることとなる。その実現は容易ではないにしても、方向はそれを目指している。
かかる運命であれば、日本において学問や芸術に携わる人々の仕事とは、この世界史的な大きな運動の契機とならねばならぬ。古代東洋の高貴な文化が死滅しない限りは、自己の生活の利害を超出した世界的な任務である。身命を賭した努力はなにも戦場のみではない。
不幸にして我々日本人は、学問や芸術を集中的に営むことができない。学者や芸術家は、大衆の歓迎と否とに頓着せず、持続的な意志をもって真の文化的創造に邁進せられんことを私は要望する。
*
冒頭文を、
政治的あるいは軍事的な大事件が起こった際に、学問や芸術に携わる人々が、事件の刺激に興奮して「仕事が手につかない」ということを時々聞かされる。平生は十分に意義を認めているこれらの仕事が、事件の前に急に意義を失うように感ずるというのである。しかし事件が重大であればあるほど、この種の仕事に関して己れの任務を見失うような興奮は戒心されねばならぬ。
で始めることによって、末尾と円環が構成されるのだが、戦争拡大が予感される時代の空気に触発はされても、その空気に呑み込まれまいとする自らの態度を明らかにするものとなっている。その国民性の瑕瑾を註しながらも日本の独自性を、それを優位性としての顕示は抑制されているため、読後の印象は悪いものではない。ただし、その文脈に教唆扇動の企図はなくとも、独自なるところの日本が宿命として担わざるをえないのだという使命感が、大東亜共栄圏の思想へと歩を進めるものになってしまったことは、その後の歴史が明かすとおりである。独自性はひとたび優位性、ひいては暴力の正当性という傲慢の果ての孤立へと助走を初めてしまうのだ。この文章を所収する『戦争と文学』第七巻が刊行されてから三年、和辻の見取りに感応する空気はずいぶんと醸成している。それはそれでよかろう。同時に半ちくなリテラシーに対する危惧も醸されていると信じたい。
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