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33号  《特集》 昭和戦前・戦中の文学  その2    33号 大和田 安宅 取井



 目 次



細田源吉のこと   大和田  茂












細田源吉のこと




                             大和田  茂



     一



 細田源吉は忘れられた作家である――といえば、細田だけではない、文学史上これまで「忘れられた作家」はごまんといる、いまさらどうして手垢にまみれた言葉をつかうのか、という反応がまず返ってくるであろう。それでもあえてこの言葉を用いたいのは、一九二〇年代はじめから三〇年代の半ばまで、すなわち「大正」後期から「昭和」初年代、『新潮』『中央公論』『文章倶楽部』『文芸戦線』などを主舞台とした細田の活躍ぶりを知るにつけ、それとは正反対に彼の名が今日まったくといっていいほど文学史叙述や研究書の中に登場しないという意味で、彼ほど文字通り「忘れられた作家」はあまりいないのではないかと、しみじみ思えてくるからである。

 細田源吉は一九一五(大正四)年三月、早稲田大学英文学科を卒業した。同級生には、青野季吉、木村毅、西條八十、坪田譲治、田中純、直木三十五、細田民樹、保高徳蔵、宮島新三郎、鷲尾雨工などがおり、その後それなりに一家を成した作家、評論家たちで、つぶ揃いの学年だった。片上伸、長谷川天渓ら指導教授たちを囲む彼らの卒業記念写真が各種文学アルバムなどに載っているのを見た方もいるだろう。その後の文壇での細田の活躍は、ひとつにはこの人脈を活かした結果でもある。

 その中で同姓の細田民樹とは在学中から仲がよかったらしく、放蕩生活もともにしたこともあるという(民樹の回想から)。彼らは早くから文壇で「両細田」とよばれ、のちにプロレタリア文学運動に入り、青野季吉の勧誘で『文芸戦線』派の労農芸術家聯盟に二人そろって加入し、旧幹部の支配に抗議して除名されたときも行動を共にするほどだった。おまけにこのあと、ナップ派の日本プロレタリア作家同盟に入り直したのも一緒である。

 だが、「両細田」と称されながら、今日源吉の名はほとんど聞かないが、民樹の方は大正期から反軍的作品(『或る兵卒の記録』など)で注目され、『真理の春』(一九三〇〜三一年)というプロレタリア小説が大きな反響を起こしたこともあり、戦後は源吉に比べ各種文学全集・選集に収録されている作品数がはるかに多く、また小林多喜二の「蟹工船」ブーム以来、近年のプロレタリア文学再評価の動きの中で、作品がアンソロジーにも収録されたりしている。

 細田源吉は、民樹に劣らず作品の数や単行本は多いし、たしかに一時期プロレタリア文学の作家でもあった。私は、小説の構成、筋運び、描写など、どれをとってもすぐれた技法を持っていると思うし、声高な姿勢もなく市井の片隅に生きるさまざまな人々を生き生きと描き、インパクトを与える作品がかなりある。ただ、民樹とちがってこれというヒット作、代表作をあげられないのが、彼を埋もれたままにしている要因ではあるまいか、と考える。ちなみに藤森清成は「昔は盛んに小説を書いていた。木綿のメクラ縞とでも云いたい作品ばかりだが、それは彼の質実な性格にピッタリしたものだつた」と作風の地味さを追悼文(「細田源吉君の思い出」、『文芸復興』第五七集一九七五年四月)で指摘した。

 二年ほど前、埼玉県内のある大学の市民講座で「埼玉ゆかりの文化人」シリーズの一環として、源吉をとり上げたことがあり、丁度その少し前に故郷・川越の市立博物館に娘の細田与之子さん(故人)所蔵資料の大半が寄贈され、それを見せてもらい、単行本などを何冊か買い集め、源吉のアウトラインがだいたいわかってきたので、さらに彼の「人と仕事」の調査研究を深めようと思ったが、なし得ずに現在まで来てしまった。

 では、これまで細田源吉についての研究書は皆無なのかというと、実はそうではない。源吉が生育した川越市の中学教諭で郷土史家であった山田泰男氏(故人)が一九九八年八月に『川越出身の作家 細田源吉』(さきたま出版会)という本を出し、源吉の自伝的作品や童話、俳句、交友記、年譜、作品紹介・目録など、かなりよく調べ、基本的な文献としては遜色ないものをまとめている。川越とのゆかりを記した部分が多く占めるのは仕方がないが、もしこの本の存在がなかったら、細田源吉研究は、ゼロから出発しなければならないであろう。

 またもうひとつ貴重な文献としては、山田本以前、与之子さんが父源吉の十三回忌を迎える一九八八年一月に第二句集(遺句集)『玄鳥』(私家版)を出版したが、そこに付された回想や詳細な作品年譜も大いに参考になる。


     二


 先述の山田泰男氏の編著『川越出身の作家 細田源吉』の書名に従えば、源吉は川越の生まれのようにとらえられるが、事実はそう単純ではなく、彼は東京で出生し、すぐに川越の商家に養子にもらわれそこで生育したということで、微妙に「出身」という言葉が適当かどうかが問われる。現に、桶川市にあるさいたま文学館(県立)では「川越生まれの」ではなく、「川越ゆかりの」作家としてリストアップされ、このためか源吉について展示は皆無だった(二年前訪れたとき埼玉に「ゆかりの作家」でも人によっては堂々とした展示があるのに、源吉の展示がないのをおかしいと思った)。また、何冊かの埼玉に関する文学案内書の類には、不思議に彼の名が出てこない。プロレタリア文学運動から転向後は、作家活動とともに仏教を通じて埼玉県内で、刑期終了者の自立更生事業に熱心に関わっていたのに、川越は別として埼玉県レベルでは顕彰がまだなされていない。ちなみに川越では『川越の人物誌第二集』(川越市教育委員会一九八六年三月)で、五ページにわたり山田が紹介文を書いているし、一九九七年四月、細田家菩提寺太蓮寺境内に、かつて舟運盛んだった川越の町を詠んだ「競い漕ぐ九十九曲り初荷船」の句碑が建立された。いかにも商家出の俳人の句である。

 細田源吉は一八九一(明治二四)年六月一日、東京市芝区神谷町で生まれるが、生家池田家の経済的事情から生後十日ほどで埼玉県川越町、現在の幸町の細田丑太郎・かく夫妻の長男として入籍された。これでは、各種文学・人名事典等で、「埼玉県川越生まれ」と記述されているのも、仕方がないといえばそうかもしれない。出生の秘密、あるいは出生時の複雑な事情を抱えた作家は少なくない。源吉の実父池田倉吉は幕臣の出らしく彰義隊の生き残りであったが、最後は横浜に住み零落した生活を送って源吉が二十歳の頃は父母ともこの世にはいなかった。

 『玄鳥』にある細田与之子の「父・源吉のことなど」によれば、同じころ丑太郎夫婦に男子が生まれたがすぐ死んでしまい、丑太郎の父がどこからか赤子を連れてきて細田家の長男として育てようということになったという。ところが、二年後、夫婦に男の子が生まれ、養父母の愛や周囲の関心は、源吉から実子の弟甚三へ移っていく。源吉四歳のある日、子守女の不用意な言動で彼は自分が実の子ではなくもらわれっ子、孤児の運命にあったのだということを強く意識する。作品集『はたち前』(玄文社一九二四年六月)や数々のエッセイで描かれたことであるが、この運命と自己意識が、のちの細田文学を支える主旋律のひとつになっていく。

 大学生の頃から源吉は短歌を創作し、母恋、孤児意識をテーマにして多くを作歌した。

乳に餓ゑてわが泣く声を知りたまふ母なる人をわれは見知らず

問わるれば父はゝありとこたふわれみなし子なりといふは怖ろし

(私家版『短夜集』一九一一年から)


 源吉の養家細田家は、川越の中心街で八百屋と魚屋を営んでいた「近長」という老舗の部類に入る商家である。現在、「蔵の街」として多くの観光客を集めている幸町界隈、ランドマークといえる「時の鐘」櫓のはす向かいに近長(近江屋長兵衛商店)は現存し、いまは各種豆腐を売る店と魚料理店の二店に分かれて営業している。義弟甚三一家が代を引き継いで営んでいるとのことだが、源吉は養家との内面的確執や葛藤を作品で描いていても、現実にはつねに養家への礼を欠かさず、養家も彼の生活を援助し、晩年まで彼は川越に足を運び関係は良好だったようである。

 源吉がこの短歌を作り二十歳で早稲田大学予科に入学した一九一一年の九月、わずかなツテてを頼りに彼の所在を見出した二人の実姉が突然源吉の前に現れた。夢のような話であった。彼は国木田独歩を愛読していて、生き別れ行方知れずの弟を想う娼婦を描いた小説「少年の悲哀」(一九〇二年)が特に好きで、まさにこの作品の不幸を反転させたような幸福が訪れたのだった。

 もはや近長の跡取り息子にはなれないことを察知していた源吉は、高等小学校を卒業すると、日本橋の繊維問屋に丁稚に出された。商家に修業に行けという体のいい放逐であろう。『はたち前』などに描かれたように、重い洋反物を扱う仕事は源吉少年にはつらい労働で、その合間に文学書や俳句雑誌を読みふけり、中学講義録を取り寄せ向学心をかきたてた。結局、川越に帰り、早稲田大学入学を条件に進学を叶え、苦学しながら作家への夢に心を傾けたのである。

 卒業後は、春陽堂などで雑誌記者を二年ほどやり、プロ作家の道に入っていった。一九一八年一一月『早稲田文学』に発表した小説「空骸」が文壇に注目され、初期は自然主義の色濃い自伝的作品や愛欲をテーマにした作品を次々に発表したが、一九二六年一月から自ら編集・発行人となって月刊雑誌『文芸行動』(春秋社発売)を創刊し(しかし負債を残し八号で終刊)、市井に生きる貧しい商人や使用人たちの不幸、宗教の欺瞞を告発するような作品を発表し、数々の作品集を刊行していった。

 翌年一一月労農芸術家聯盟加盟、一九三一年五月同聯盟を脱退し、同年八月ナップに加盟し、小林多喜二らを知った。しかし、翌年治安維持法違反として検挙され転向を表明して出所、以後運動から遠ざかった。『転向作家の手記』(健文社一九三五年一二月)という本もある。一ヶ月の獄中生活は、源吉の世界観を大きく変えたようである。以後、「非行少年、犯罪者、受刑者の魂の友となろうと決意し」(山本泰男)埼玉仏教界の中で、保護司のような活動を始めた。作品にも仏教小説が多くを占め、『沢庵上人の一生』(東京書房一九四〇年一〇月)などの長編小説もある。

 戦後は、各地の刑務所を巡り慰問や短歌・俳句指導をし、住居のある杉並区でも「つゆ草句会」を主宰、北海道開拓を描く長編を構想したが実らなかった。


     三


 源吉は寡作な作家ではない、新聞連載小説も一七篇ある。死ぬまで小説も書き、俳句も作りつづけた。初期は孤児意識の流れるような短編や人妻や未亡人との恋愛を書いていた。早稲田在学中に保高徳蔵らと出した同人誌『美の廃墟』創刊号に「苑雪次郎」の名で発表した「寂寥の土」(一九一三年一〇月)という習作は、重病の夫を持つ人妻との密会の記憶を追い求めた男の話であった。文壇デビュー作「空骸」や「新潮社新進作家叢書」の一冊『死を恃む女』(一九二〇年八月)に入った「死を恃む女」(原題「死を恃んでいく女」一九一九年初出)や代表的長編『罪に立つ』(原題「暗い結婚」一九二〇年初出、新潮社版一九二二年一月)も未亡人とその娘とをめぐる「暗い関係」をいかにに浄化していくかをテーマにしている。女性にとって厳しい時代にあって一人で生きていくことを志向した年長の彼女らの想いと苦悩を描いた作品は源吉作品の中では少なくはない。見ることのなかった母への思慕もあるのか、これがひとつ特徴といってもいい。筑摩書房版『現代日本文学全集85』「大正小説集」に収録された「寡婦とその子達」(『中央公論』一九三五年一〇月)という短編は、今で言うシングルマザーたちの貧窮とそこから結果するやりきれなさを深く見事に描いている。

 庶民たちの生活とそこに起こる矛盾、葛藤を数々の短編で描くのも、この作家のひとつの特質である。各種文学全集などに最も採られている「巷路過程」(『中央公論』一九三〇年四月)は、同じく労農芸術家聯盟に加入した後に『文芸戦線』一九二八年一月号に書かれた『穿きもの』同様に、小売商人たちの破綻と零落を描いている。関東大震災後に出現したデパートという大資本の前に専門店化をはかる洋品店と従来からの商法に固執する呉服屋という隣同士の争いに乗じて大型問屋が漁夫の利を得る仕組みとそこにうごめく商人たちの世界が描かれる。商家出身の源吉にしか書けない経済小説として現代に通じるものを有している。

 源吉は、一時期、たしかにプロレタリア文学作家であり、小説「同志は叫ぶ」(一九三一年一一月)やエッセイ「プロ文作家として」(一九三三年三月)というような表題の作品も多く発表している。源吉を勧誘したのは労芸の幹部青野季吉だということは先述したが、労芸、『文芸戦線』派は、度重なる内紛分裂で、有力な作家が脱退したりで、文壇作家を勧誘する方針の一環から源吉たちに誘いをかけた。源吉はすでに文壇ばかりかプロ文作家にも働きかけ『文芸行動』という、薄いが第一線の文学者を網羅した雑誌を八号まで出し経営に失敗していた経験をもっていた。源吉の書く世界は、社会の底辺、片隅で生き埋もれていく人々の生態であった。いわば同伴者作家、人道主義的作家の一人なのだといっていいかもしれない。たとえていえば、広津和郎がたまたまプロレタリア文学の組織に入ってしまったようなものである。検挙され転向を迫られたとき、元来マルクスボーイであったこともなく、思想信条を転換する必要もなかった。源吉なりに苦悩しただろうが、あっさり転向声明し出所、しかし、相変わらず庶民小説は書き、加えて受刑者の世界を知り、出所者の世話をすることに社会的正義を見出したのである。

 津田孝は「リアルな迫力を持」つ源吉のプロ文期の作品に対し、転向の問題を乗り越え、歴史的再評価の検討が加えられる必要を説き(新日本出版社版『日本プロレタリア文学集・13』解説一九八六年二月)、紅野敏郎も『文芸行動』をめぐり、「大正末期の文壇状況を具体的に伝える雑誌として、大正文学から昭和文学への移行の手がかり押さえるためには、必読の雑誌といってよい」(『「朝・文芸行動・街・文芸城」総目次』解題、雄松堂フィルム出版有限会社二〇〇五年一一月)と述べ、文学史に残る名作は載らなかったが、活気ある誌面を作った源吉の編集姿勢に注目している。

 同誌にははっきりとした編集方針や方向性というものはない。あえて言えば文壇の革新、変化を望むような姿勢が察知できる程度である。しかし、源吉自身は、自己が「あまりにも内攻的であること」を反省し「自分自身の眼が外攻的にならない限り」自分たちの芸術を「革命」できないと強く述べている(エッセイ「小さな眼」同誌第五号一九二六年五月ほか)。彼としてはこのころから、明らかに社会派、プロレタリア文学の動きに同調するところが見えてきたのである。これから、細田源吉文学の見直しを始めたいと思う。




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