『群系』 (文芸誌)ホームページ
33号 詩人論 間島 市原 野寄
高村光太郎 ―のっぽの奴は黙っている 間島康子 10
「僕には是非とも詩が要るのだ」 ―山之口貘・沖縄とともに生きた稀有な魂― 市原礼子 8
伊藤桂一 入営前の投稿詩群 ―『日本詩壇』掲載の四篇― 野寄 勉 6
高村光太郎 ―のっぽの奴は黙っている
間島康子
高村光太郎は一九五六年四月二日に亡くなったが、その日に毎年「連翹忌」が営まれており、偶々今年そのことを知り、行ってみた。連翹が好きであり、それが花開く季節に亡くなったことで名づけられたそうだが、ふさわしく思われる。
隣席に座った美術館関係の方のお話では、展覧会を開催する際、「彫刻家・詩人高村光太郎」としなければ親族から許可が下りないということだった。勿論、その焦点の当て方によるであろうが、先ず「彫刻家」である意識、「家」の内にある意識がそのようであったことは、光太郎にとって切り離すことのできないものの一つであったのは確かと思われる。
光太郎はそこから逃れようと若き日、欧米留学に出、帰国後智恵子と出会い、長男ではあったが家のことは三男の豊周(とよちか)にすべて任せ、智恵子とともに「カラスみたいな真っ黒な家」に棲み、芸術の生活化あるいは生活の芸術化とでも言えるだろうか、芸術至上主義の生活をした。
豊周の子息の規(ただし)氏は、写真家であり存命であるが、碌山忌記念講演会で「伯父 高村光太郎の思い出」として、彫刻作品や詩作品ではない生の光太郎を語っていて興味深い。碌山とは、日本近代彫刻の扉を開いた荻原守衛(碌山)のことである。彼の生地、信州安曇野に碌山美術館がある。光太郎は守衛にニューヨークで出会い、やがてロンドン、パリで親交を深め、それは帰国後も続いた。荻原は帰朝してすぐれた業績を残すも、二年後三十歳の若さで急死する。光太郎にとって守衛の急死は深い痛手となる。
光太郎は光雲の期待を一身に浴びて育ちました。とにかく生涯、(中略)自分の願い事は全て聞き入れてもらった。まあ言ってみれば一生涯大変なすねかじりでもあったんですね。例えば光太郎は、一般的には彫刻家というよりも、詩人としての評価が非常に高いですけれども、私たちの家では光太郎は彫刻家としての立場しか見ておりませんので、詩人という形ではあまり見てないですね。(中略)
光太郎ってのは自分一人の生活といいますかね、自分一人でこつこつ何かやって行くことでは非常に優秀な仕事を残しましたけれども、親戚の面倒見るとか、組織を作って動かすってことはどっちかというと苦手だったようなんですね。
規氏は物心ついて憶えている伯父光太郎をあれこれ語っており、光太郎のエッセイにも関連したことが出てくる。勿論それは光太郎の位置から書かれたものであるが、自分や家について変に脚色したり、虚飾に彩らせたりしたことはないように思われる。
ばけもの屋敷
主人の好きな蜘蛛の巣で荘厳された四角の家には、伝統と叛逆と知識の欲と鉄火の情とに荘厳された主人が住む。
主人は生れるとすぐ忠孝の道で叩き上げられた。
主人は長じてあらゆるこの世の矛盾を見た。
主人の内部は手もつけられない浮世草紙の累積に充ちた。
主人はもう自分の目で見たものだけを真とした。
主人は権威と俗情とを無視した。
主人は執拗な生活の復讐に抗した。
主人は黙ってやる事に慣れた。
主人は触目の美に生きた。
主人は何でも来いの図太い放下遊神の一手で通した。
主人は正直で可憐な妻を気違にした。
夏草しげる垣根の下を掃いている主人を見ると、
近所の子供が寄ってくる。
「小父さんとこはばけもの屋敷だね。」
「ほんとにそうだよ。」
この詩は一九三五年、「コスモス」11に発表されている。中に書かれているが、同年に「正直で可憐な妻」である智恵子はゼームス坂病院に入院している。前年には父光雲が没している。そのような環境下で、光太郎は沈んで、むしろ自虐的な面を現している。最後で「ほんとにそうだよ。」、と近所の子供の容赦のない正直な言葉に答える光太郎には、嘘偽りのない心情が子供にでもなく、自身にでもなくこぼれ出ている。それ以上言いようもないことばであろう。
規氏によれば「智恵子さんは、ものすごく含み声で、モゴモゴ言って、はっきりものを言わない人だった」ことを関係者から聞いている(規氏が実際に智恵子を見たのは死んで帰宅した時で、それが最初で最後だった。子ども心にきれいな人だと思ったという)。下町のチャキチャキの江戸前の高村家に嫁いで、強い福島訛りをカバーするためにそうなったのではないかと光太郎が言っていたという。婦唱夫随か、一時光太郎も聞き取りにくい時期があったが、智恵子が亡くなってから元に戻ったという。(傍点筆者)
「ほんとにそうだよ。」、と光太郎は含み声で答えたのではないか。
光太郎は一九一二年に父の家に近い本郷駒込林町二五番地にアトリエを建ててもらい、その後智恵子との生活もそこで営まれた。それが「ばけもの屋敷」だったのだが、高村姓が多い親類内で光太郎は、「二五番地の伯父さん」だった。世間では高名な光太郎も、甥からしたら、「そこらにいる伯父さんと同じ」だった。
「父」や「家」が覆い被さっていた光太郎であり、それに抗う姿勢で生きた光太郎は、「父」や「家」についてはいろいろ書き残している。しかし、母についての記述はあまり目にしない。母わかは一九二五年、光太郎が四十三歳の時に亡くなっている。二年後に「母をおもう」という詩が書かれている。五連目に「立身出世しないおれをいつまでも信じ切り、/自分の一生の望もすてたあの凹んだ眼。」、とある。最終連では「母を思い出すとおれは愚にかえり、/人生の底がぬけて/怖いものがなくなる。/どんな事があろうともみんな/死んだ母が知ってるような気がする。」とある。光太郎にしてはセンチメンタルで素直な詩である。
高村光太郎の生涯を眺める時、生まれ落ちた時から大勢の中にいて、そこを脱け出たように見えても、常に大きなものに囲まれあるいは包まれていて、その中で「孤独」、「ひとり」であったように思える。それは西欧に言われる個と同一ではないが、個人であることの意識が強かったのだろう。それは光太郎に内在されていた。吉本隆明は「高村光太郎私誌」で次のように述べている。
もともと高村光太郎の心性のなかには、人間と人間の葛藤に耐ええないという特質がある。(中略)かれは葛藤やもた れあいが他者との関係でうまれたとき、それを黙って心に湛えておき、その関係を超越する昇華した関係をみつけだし、 そこに自分の関心を移しかえる。人間と人間との関係にたいする思想的方法は、ますます内在的に膨れあがってゆく しこりを包括したまま昇華される。心性の次元は、ますます人間の現実的な関係の水準からは離脱してゆく。
このような人間を一途に絶対的な存在として信じ、愛した智恵子には、やはり感情を理性に変換させなければならないようなつらい作業が、自分でも意識せずに起こっていたのではないだろうか。また、この光太郎の人間関係における「超越」は、直接の人間関係だけにとどまらず、それに付随する他の部分、彼の仕事、彫刻、文学作品に当然ながら反映されている。
どのように困窮を極めた生活にあったようでいても、それは普通の人間の貧しさや困窮とは違っていたように見えてくる。そのことは規氏の話にもあるのだが、光雲から離れたとは言っても、若い時苦労した光雲は子供たちには苦労させたくなかったようで、アトリエ生活がずいぶん貧しいように光太郎は書いているが(実際そういう時もあった)、豊周や規氏から見た食生活などは相当贅沢だったらしい。長男光太郎は別格だったのだろう。智恵子の家の裕福な点も反映されてはいたのだろう。
そのような光太郎であったが、内面に囲っている孤独は、時に外的な事象によって確かめられ、覚悟を新たにすることは必要であった。先の「母をおもう」の最終連はそういうことのいくつかの節目の一つではなかったか。
そして、次に挙げる詩の終わり二行には孤独を超える、無との同化が表される。
山麓の二人
二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とおく靡いて波うち
芒ぼうぼうと人をうずめる
半ば狂える妻は草を藉いて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のように慟哭する
――わたしもうじき駄目になる
意識を襲う宿命の鬼にさらわれて
のがれる途無き魂との別離
その不可坑の予感
――わたしもうじき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙って妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返って
わたくしに縋る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃として二人をつつむ此の天地と一つになった
母が死に、父が没し、智恵子が逝った。
父光雲の喜寿の祝賀会が一九二八年に東京會館で催された。光太郎は智恵子とともに列席したが、その時のことが二年後に「のつぽの奴は黙つてゐる」として発表された。そこにはハレの日の父光雲を前にして、何をどうしてもどうすることもできない自分への「怒」、破れかぶれのような自虐的な戯画が披歴される。「腹をきめて時代の曝しものになったのっぽの奴は黙っている。/往来に立って夜更けの大熊星を見ている。/別の事を考えている。」
この詩は「猛獣篇時代」に属するが、この頃の光太郎の詩は断言的で、攻撃的なものが多い。光太郎のなかには常に相反するものが存在しており、「理性と情熱」もそのひとつであるが、この当時の光太郎は、戦後「おそろしい空虚」で謳われる〈私の支柱であり〉、〈私のジャイロであった〉智恵子が狂気に向かって進んでいく危機に瀕し、「理性」も「情熱」も険しく荒々しい現実下に置かれる。
智恵子が逝った年、一九三八年には二〇篇の詩が発表されているが、その中の一篇に、「未曽有の時」と題された詩がある。迫りくる戦争への予感か、智恵子の死の予感か、どちらでもあるのだろう。更には自身の崩壊を暗示、意味しているのかもしれない。「未曽有の時は沈黙のうちに迫る。/一切をかけて死んで生きる時だ。」、と始まり「おもむろに迫る未曽有の時/むしろあの冬空の透徹の美に身を洗おう。/清らかに起とう。」で終わるこの詩には、未曽有の時の来る予感を抱きながらも、嵐の前の静けさに身を置き、むしろ穏やかとも言えるような覚悟、決意が表される。そこには「道程」を書いた詩人の精神が生きている。
光太郎には母、父、そして智恵子の狂気と死を経て、明らかな「無」に直面し、とりわけ先に挙げた「山麓の二人」を書き上げた時、それを認識したのではないか。
そして、「十月の深夜のがらんどうなアトリエ」に智恵子が「荒涼たる帰宅」をし、やがて「いつの間にか智恵子がいなく」なり、「私は誰も居ない暗いアトリエにただ立っている」と書き上げて、光太郎は「戦争詩人」になる。
一九四〇年十二月光太郎は岸田国士のすすめで、中央協力会議議員になる。同時に山本有三、小泉信三、安倍能成らも議員になっている。光太郎は臨時中央協力会議に出席し、「芸術政策の中心」「国宝、特別保護建造物の防空施設」などについて発言している。(北川太一「高村光太郎年譜」『現代詩読本 高村光太郎』による)
後年、光太郎と親交を持った藤島宇内は「十和田湖の裸像」(『光太郎と智恵子』新潮社)の中で、「『智恵子抄』と戦争詩がなぜ両立するか私には不可解だった。」と述べている。藤島は一九四一年秋に、草野心平を介して光太郎と会った。
一九三七年(昭和十二年)七月七日の盧溝橋事件をきっかけに、日本は中国に対する全面戦争に突入してい た。四十年三月、日本の陸軍参謀本部は占領支配の手先として江兆銘政権を南京につくった。その政権の林伯 生宣伝部長は、草野さんが広東省嶺南大学へ留学していたときの同窓生だった縁で、草野さんを南京に呼び、宣 伝部顧問とした(一九四四年、敗色濃厚となった日本は江政権を見捨て、十一月、江兆銘主席は日本で病死。 日本敗戦後一九四六年十月、林伯生は漢好〈売国奴〉として死刑)。
一九四二年軍部は「大東亜文学者大会」を東京で開催するために、その時南京にいた草野を来日させた。草野は「歴程」の面々を藤島に紹介し、その中の別格の長老として藤島は光太郎に面した。「智恵子抄」と戦争詩を併せ持つ光太郎には納得のいかない藤島であったが、実際に会ってみると、「何か複雑な巨人的風貌の人」であった。草野が、「最近さかんに詩をお書きになってますね」と話し掛けると、光太郎は「あんなものは詩じゃないってことはよく分かってるんだけど、ぼくの年代ではぼくぐらいしかやれる者がいないもんだから・・」、と苦しげに答えたという。
光太郎の複雑さ、内面の二重性は言われるところである。時代の潮流により多くの芸術家、文学者が国家総動員体制に迎合した。そして「戦後民主主義時代」になると彼らはさっさと転向していった。伊藤信吉は『高村光太郎研究』において、次のように述べる。
明治的人間の意識をまじえて戦争意識を高めたこの詩人の立場がさらに積極的に前へ押しすすめられたのは、戦 争に対する理解の仕方が、道義的だったことに一つの要因がある。この詩人は戦争を道義的にうけとり、戦争の倫 理とも言うべきものを身につけていた。(中略)戦争詩人としての高村光太郎は・・・その戦争意識は、外側からうなが されたための紛争でもなく、人の眼をくらますための方便でもなかった。高村光太郎そのひとが戦争を自覚し、その真 実性を尽くすことによって戦争の倫理を実践した。
しかし、「真珠湾の日」に「天皇あやふし。/ただ此の一語が/私の一切を決定した。/(中略)/陛下をまもらう。/詩をすてて詩を書かう。/(略)」、と道義的、patriotismはやがて、「戦争遂行のための文学という政治的役割」を担うことになった。が、「ここに生じる政治的意味を洞察せぬ人」であった光太郎は、皮肉にも「戦争の進展とともに、その道義性に足をさらわれてその泥沼に落ちこんでいった」。
芸術の純粋性を死守してきた詩人は、「詩でない詩」を作り、詩集『記録』としてまとめた。
伊藤信吉は言う。
この場合における記録は「個」の否定である。自己否定は献身である。「詩をすてて、詩でない詩を書こう」としたの はこの詩人の献身であった。自己解体であった。
だがここまで解体した高村光太郎の詩に、なお擁護すべきものがあったろうか。あったとすれば、それは「もっと内面 に属する詩であるため、この集に収録せられないばかりか、まだ一度も発表せられてゐない詩がたくさんある。」(『記 録』序文)というその詩であるだろう。
詩集『記録』は一九四四年(昭和十九年)に刊行されている。右の引用にある「内面に属する詩」は「石くれの歌」として一括されていたが戦災で焼失したという。
後、昭和二十七年十一月十日『朝日新聞』の〈詩だけはやめぬ〉という談話の中で、「詩はボクの日記みたいなものだから」(「高村光太郎研究35」高村光太郎研究会)、と光太郎は述べている。あたかも二重帳簿のように、どちらも光太郎であるような別の詩があっただろうことは考えられる。
昭和十六年(一九四一年)晩秋というから、藤島宇内と会った前後だろうが、会田綱雄は高村光太郎と一度会っている。南京特務機関の軍属であった会田は、父が病死したために休暇を許され、帰京することになった。南京を発つ前に南京政府宣伝部の顧問だった草野心平に挨拶に行った時、孫文銅像建設趣意書を見せられた。中国在住の〈日本文化人〉の醵金により、銅像を中国の民衆に献呈したいというものだった。ついては、その制作を高邁な彫刻家高村光太郎に頼みたいのだと言われた。会田は光太郎に会いに行った。〈がらんどうなアトリエ〉に通され、話をした。光太郎は決していやだとは言わなかったが、制作の意志のないのは明らかだった。「孫文の〈意志〉を蹂躙しつつある現実を讃美する威風堂々たる詩を書いた。そのゆびで、中国の独立を希求しつづけた革命家の銅像のために土を捏ねるという自己矛盾」に光太郎は耐えられなかったのではないかと会田は忖度する。会田は芸術と戦争がどこでどう癒着したのかと思う。
〈がらんどうなアトリエ〉のなかで、(中略)高村光太郎のなかに根深くひそんでいる一種ぶきみな、ほとんど生理的とい っていいような〈空洞〉を、ストレートに僕は感じとることができた。その〈空洞〉の意識が、芸術家高村光太郎を苦も なく戦争讃美家として奔らせるのだ。
会田の受け止め方は、光太郎にたった一度会っただけの直観とも言うべきものだが、「詩はボクの日記みたいなもの」だと言っていたことからして、光太郎の「詩」にあることばは、光太郎の精神の流れ、起伏、波といったものを直截に、ある程度同時進行形で語っていると読んでもあながち間違いではないと思う。巨きな人でありながら、「愚直」であった。
何か理解を超えるような事象に出合う時、人は何とかその理由を見つけたいと思う。知りたいと思う。
「何故」。
戦後光太郎は、岩手の冬は雪深い山小屋に七年間病身の老体を置き、その間に「暗愚小伝」二十篇そして詩集『典型』を発表した。「日記みたいな詩」であるそれらを辿っていけば、高村光太郎の内面で起きたことをある程度推察できはする。天皇を天子さまと家では言っていた封建的明治人間、デカダン、二律背反、暗愚などそれらをつなげて、高村光太郎を論理的に解釈する事は出来るだろう。しかし、戦争詩を盛んに書き、戦犯として批判されながらも巨きな人として現在にも生きつづける光太郎は、道理では説明のつかないものを抱えていたに違いない。会田綱雄がみた生理的な空洞もそれの一つであろう。佐藤春夫の「高村光太郎像」にもその点を突いたことが書かれている。
彼は本来がさういふ自己虐待者なのである。乃父に対する感情や後年の所謂自己流謫といふ山口村の山小屋生活なども、たとひ倫理的反省の意味もあったとしてもやはり、一つの自己虐待の生活形態なのではなからうか。 彼の体質(同時に気質)のなかにはかういふ生理的(同時に心理的)なものがあったのではなからうか。自己虐待はマゾヒズムであって同時にサディズムであるとも言ふべき複雑に奇怪な心理である。(中略)あのばけもの屋敷の主人は彼自ら言ふのとはまた別の意味で一種のばけものだとも思える。(中略) 思ふに、この複雑極まる性格の心理は、単純な散文形態では捕捉しにくかったから翼を持った奔放不羈な文体たる詩といふ形態でやっと表現されたものの、その複雑さは到底そっくりそのままでは表現され得るものではなく、その複雑さは、彼自身にも堪へられないものであったから、彼は常にその簡略化を志し、簡素を簡素をと心がけたかと思へる。すべての簡素こそ彼のみそぎであり、このばけものが真人間にならうとする修業なのであった。
若い頃、自分の像を作ってもらうために何日も光太郎の許に通った佐藤春夫であるから、光太郎が春夫を捉えようとじっと見詰めたであろう時間と同等の時間を、春夫も光太郎を視ることができたはずだ。それは特殊な密度のあった時間を共有したと言える。
光太郎という人間をかなりの深度で?んでいた春夫であったが、光太郎の山小屋生活についての項を、「山林孤棲の人」と題し、副題には「?自己流謫などとは洒落くさい。唯の山林孤棲だけでよくはないのか?」と付けている。
春夫は終戦後も疎開していた信州佐久の山村に留まっていたが、光太郎のことを世間では、「非近代的な封建人と称し、戦犯として追及してゐるらしい様子」であることを知っていた。その追及に対しての光太郎の無気力に老いを感じていた。「偶々かういふ時局下に生れ合して、光太郎が有用の材として起用されたといふだけの事であった。」、と春夫は光太郎の戦争協力をみていた。光太郎に開戦決定する権力があった訳ではないし、始まった戦争を阻止する立場にあった訳でもない。勝つように努力するしかなかった。それを責め非難する人間への腹立たしさ以上に、光太郎の世間への態度に合点のいかないことを、春夫は怪しんだ。
不正直な馬鹿者どもを叱ることを敢てしないで、彼自身さながらに己が戦争協力の代表者の如く自惚れてこの非難を甘受し、更に当然弁駁すべき義務のある俗論を、歯牙にもかけない様子でお高くとまつてゐる不合理に取すました態度に対してこそ、わたくしは彼の戦時中の当然な活動に対してよりもかへつて腑に落ちない不満を感じた・・・。(中略)
小泉信三がG・H・Qの権威の前で、はじまった戦争は勝たなければならないと思ったからだ、と明言したような毅然たる態度をどうして光太郎はとらなかったのかと春夫は忸怩たる思いをしているのだ。
俗論を承認して、自己流謫などと言葉おもしろく(全く言葉に長けた新詩社系の詩人中でも彼ほど言葉の官覚に鋭い人はめづらしい)そんな洒落臭い言葉によって欺くともなく俗論をあしらひ、身は己の言葉に酔うて俗論を軽々しく肯う彼とも思へなかった。
「それにしても見掛け倒しで案外周囲に気をかねる小心な人」、と愛情深く辛辣でもある佐藤春夫は、やがて光太郎を山小屋生活から引き摺り出し、十和田湖畔に「乙女の像」制作の決意を促すためのきっかけを作る一人となる。
高村光太郎は、常に多数のなかにいて注目されながらも独りであり、揺るぎない軸をもちながらも他からは理解しがたい方向に進み、しかし、のろのろと必死で、「いくら目隠をされても己は向く方へ向く。/いくら廻されても針は天極をさす。」(「詩人」)人間であった。
同時に、と言おうか、だから、であるか、「鈍牛の言葉」のなかに、こんな一節がある。「おれはもともと楽天家だから/どんな時にもめそめそしない。」
他所からは、複雑に入り組み理解しがたい面を感じさせる人間であったために「謎」を残すのであるが、「もともと楽天家」であったから、結局のところ、「のっぽの奴は黙っている」ことにしたのではなかったか。
〈参考文献〉
『高村光太郎詩集』昭和三九年 大和書房
吉本隆明『高村光太郎 増補決定版』昭和四五年 春秋社
伊藤信吉『高村光太郎研究』一九六六年 思潮社
北川太一ほか『光太郎と智恵子』平成一〇年 新潮社
『現代詩読本 高村光太郎』一九八五年 思潮社
『文芸読本 高村光太郎』一九七九年 河出書房新社
『定本佐藤春夫全集第14巻』二〇〇〇年 臨川書店
高村光太郎研究会「高村光太郎研究」(35)二〇一四年
小山弘明「光太郎資料」(35)平成二六年
碌山美術館「碌山美術館報」(第34号)平成二六年
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「僕には是非とも詩が要るのだ」
―山之口貘・沖縄とともに生きた稀有な魂―
市原礼子
群系の前号(32号)で、大正期の民衆詩派と呼ばれた詩人たちのことを少し書かせてもらった。その合評会の折、「民衆詩とプロレタリア詩の明らかな違いは、政治活動をしているかどうかにある」、と聞いた。時代の流れ的には、プロレタリア文学につながっていくのだろうということがわかった。
そこで昭和初期のプロレタリア詩人と言われている、中野重治(1902〜1978)、小野十三郎(1903〜1979)、高橋新吉(1901〜1979)と読んで来て、同じ時期の山之口貘(1903〜1979)の詩を読み(「日本の詩歌20」中公文庫)、その面白さのとりこになった。ここでは、山之口貘の時代性について書いてみたい。
山之口貘の詩は困窮生活の身辺のことをうたった詩がほとんどであるが、常に社会的な関心を失わず、国際的なセンスを持っていたことが、エッセイなどから読み取ることができる。その作品からは、大きな歴史の流れに乗ることをしないで、いわばたくさんの人が大きな乗り物に乗りこんで進んで行くのを、外から眺めている少数の人の、さめた眼を感じる。その感覚、センスはどのようにして、山之口貘のものとなったのか。琉球人として生まれ、成人するまでを過ごした沖縄という地が、大きな意味をもっていると感じた。
「つまり詩は亡びる」というエッセイ(「むらさき」1937年4月号)のなかでは、アンドレ・ジイドのソヴィエトへの関心と日本国内でのその報道の在り方について、「日本的観方」を見直してみたいと書いている。これは世間が、ソヴィエトへ行ったジイドを赤化したと見なしたり、今度はソヴィエト帰りのジイドのソヴィエト批判を、またまた世間が騒ぎ立てていることを取り上げ、その世間(メディア)の一方に片寄る姿に「日本的」なものを見た、ということであろうか。
「ジイドの赤化云々」がつたえられた頃、ある日本人がフランス人氏同伴でジイドを訪ねての帰途に、ジイドも先ずあの莫大な財産を清算しなくてはなるまい、というような意味のことを言ったことに対し、フランス人は立ち所に、それは日本的考え方だよ、とか言ったという。それを読んだ貘は、ひとつの思想的傾向を帯びるや否やあの莫大な財産を清算したかつての有島武郎氏を思い出したのであった。
このエッセイでは、もうひとつ、獏の重要な、詩に対する覚悟が書かれている。「これも日本的というものであろうか、どうせ食えない時代だから、食えないことを覚悟の上で、文学に精進するのだという作家の心構えだ。この時代が、食えない時代であることを、ほんとうに自覚しているならば、食う覚悟、それは僕みたいにつらの皮を厚くしてまでも持たねばならぬ覚悟なのだ。」身を以て実践している貘の言葉だ。
このエッセイの表題は、「詩は亡びる」と菊池寛が言ったことへの反駁である。貘はそれに対して、詩が亡びるということは、人類が亡びるということで、ありえない。詩を解らない人が詩を見ていては、「つまり詩は亡びる」。と痛烈に書いたのだ。
しかし、なんといっても、山之口貘の詩の魅力は、その独特の語り口にある。たとえば第一詩集『思弁の苑』(1938年発行)に収められている「再会」という詩。
再会
詩人をやめると言つて置きながら詩ばつかりを書いてゐるではないかといふやうにつひに来たのであろうか
失業が来たのである
そこへ来たのが失恋である
寄越したものはほんの接吻だけで どこへ消えてしまふたのか女の姿が見えなくなつたといふやうに
そこへまたもである
またも来たのであらうか住所不定
季節も季節
これは秋
そろひも揃った昔ながらの風体達
どれもこれもが暫らくだったといふやうに大きな面をしてゐるが
むかしの僕だとおもつて来たのであらうか
僕をとりまいて
不幸なやつらだ幸福さうに笑つてゐる。
問答形と反語で、一般的には不幸な出来事を、笑いに変えて書いている。失業、失恋、住所不定と、再会する、という表現にも驚かされるが、気の弱い人ならば神経がまいってしまうような困窮生活を、笑い飛ばすように書いている。この山之口貘をモデルに、佐藤春夫が「放浪三昧」と言う小説を書いているが、普通には信じられないような生活を送りながらも、詩稿を入れた折鞄だけはいつも手放さなかったという。詩を書くために、そのような生活を続けたのではないかとさえ思われるような、詩が第一の放浪生活を貫いている。
以下、詩作品を紹介しながら、詩人山之口貘の姿を追ってみたい。
山之口貘は1903年(明治36年)に、沖縄県那覇の三百年続いた名家の三男坊として生まれた。父は銀行に勤めていた。
優等生だった貘は、名門校の首里第一中学に入学する。入学早々、修身の時間に居眠りをして、校長に「注意人物」としてマークされた。当時は日本標準語施行で方言を口にすると罰札を渡されるということがされていたが、貘はわざとウチナーグチ(沖縄語)を使い、集めた罰札を便所に棄てるような生徒だった。
進級すると下級生の姉グジーとの恋愛に熱中し、ユタを利用して婚約にこぎつけた。また、友達四、五人と「ほのほ」という詩の雑誌を出し、生田春月や室生犀星や藤村を読み、ホイットマンの詩に傾倒した。そして寄ればすぐに、無産階級とか有産階級とか、搾取とかの用語を口にし、大杉栄の名が出たりした。
四年生の時に「琉球新聞」に「石炭」という詩を投稿する。副題に「一中の坂口先生に与える」としたその詩は、博物の先生が「石炭にも階級がある。まして人間の社会に階級のあることは当然としなくてはならない筈だ」という意味のことを言ったので、それに憤慨して書いたものだった。その詩は「褐炭 泥炭 無煙炭 それは階級ではない」という内容のものであった。匿名で発表したが、すぐに校長室に呼び出され、父にも頭をぶんなぐられ、足を蹴飛ばされたそうだ。
それまでは裕福な家庭で育っていたが、父が銀行を定年退職し、新しい職場のある石垣島に家族を連れて移って行った頃から状況が変わってくる。那覇に残ったのは貘一人だった。そのころ、婚約者のグジーから突然婚約解消の申し出があり、学校もさぼりがちになっていく(19歳)。
上京を思い立ったのは、それから間もなくのこと。大正十一年の秋に上京するが、約束の父からの仕送りがなく、同郷の友人の下宿を振り出しに、放浪生活がはじまる。
貘はそのころ戸塚の日本美術学校に籍をおいていたが、一カ月でやめている。下宿代が払えず、転々としているうちに、大正十二年九月一日の大地震にあう。大地震を機に出直すつもりで罹災者として汽車、船を無賃で沖縄へ帰ったのである。
沖縄に帰ると、石垣島の父の鰹節工場の事業が破産していた。那覇の家も人手に渡り、へたをすると父の債務のかたに働かされるかもしれなかった。そんな状況から逃げるように、友人知人などのところを転々とし、海岸や公園に寝泊まりするようになった。遊女の家に泊めてもらったりもした。その間にタゴールの詩集「新月」「園丁」「ギタンヂャリ」に耽溺する。そして、
恩人ばかりをぶらさげて
交通妨害になりました
狭い街には住めなくなりました。
と、このような詩稿(「ものもらひの話」)を携えて、大正十三年の夏、再度上京する。二十一歳であった。このときから、以後三十五年間、貘が沖縄に戻ることはなかった。しかし、東京で暮らしながらも、沖縄のことを忘れたことはなかった。
妹へおくる手紙
なんといふ妹なんだらう
――兄さんはきっと成功なさると信じてゐます。とか
――兄さんはいま東京のどこにゐるのでせう。とか
ひとづてによこしたその音信のなかに
妹の眼をかんじながら
僕もまた、六,七年振りに手紙を書かうとはするのです
この兄さんは
成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思ふのです
そんなことは書けないのです
東京にゐて兄さんは犬のやうにものほしげな顔してゐます
そんなことも書かないのです
兄さんは、住所不定なのです
とはますます書けないのです
如実的な一切を書けなくなって
とひつめられてゐるかのやうに身動きも出来なくなってしまひ 満身の力をこめてやつとのおもひで書いたのです
ミナゲンキカ
と、書いたのです。
「上京はしたものの、すぐにはどうにもなる筈がなかった。しばしば、自殺を思い立つのであったが、その度に未練がましく、もう少し書きたいという気持ちをどうすることも出来ないで、とうとう自殺をしたつもりで生きることに決めたのである。この決心は、ぼくから、見栄も外聞も剥ぎとってしまって、色々なことをぼくにさせることが出来たのである。」(僕の青年時代より)
昭和十四年に東京府職業紹介所に就職するまでのあいだの、十年間位はほとんど住所不定であった。その間に就いた職業は、書店の発送部、暖房屋、鍼灸屋、墨田川のダルマ船の助手、汲取屋などであった。その日その日を過ごし、その夜その夜の風の吹き廻しで、行き当たりばったりの所で睡眠をとった。それは日比谷公園のベンチの上であったり、知人友人の所であったり、あるいは夜明けまで街を歩いてから、勤めへ出て行く友人と入れ替りにかれの部屋で一睡させてもらったり、という生活であった。
このような時期(1927年・24歳)、前述の佐藤春夫と知り合い、その才能と人柄を愛されてしばしば生活上の支援を受ける。佐藤春夫が「詩人山之口バクハ性温良。目下窮乏ナルモ善良ナル市民也。」と自分の名刺に書いて渡してくれ、警察の不審尋問に大いに役立つ。
ある時期は、宇田川町の喫茶店で朝の十時から、夜の十一時十二時まで、殆ど毎日ねばりつづけて暮らした。食事は一日に一回、食べる日もあればまるで食べられない日もあった。喫茶店では入り口に近い窓際のボックスで、原稿用紙を前にしていることが常だった。
そんなある日のこと店の常連客が大きな声で、出張で沖縄へ行って来たことを店の女主人とその娘に話す。沖縄出身の貘には、「沖縄」という言葉がいささか刺激的に聞こえた。貘が思うには、おそらく明治生まれの沖縄人一般に、共通する筈の刺激なのであった。徳田球一はかれの思想の動機を問われると、「俺は被圧迫民族だから」と答えたとか、貘は人づてに聞いたことがあったが、そのことは沖縄の歴史がすでに証明していて、言わばこの被圧迫民族としての劣等感を刺激されたのであった。
貘はかつて(大正十二年)、関西のある工場の見習工募集の門前広告に「但し朝鮮人と琉球人はお断り」とあるのを発見した。またある人は、貘の詩を讃える余り、「かれが琉球人であるからではない」と付加えていたが、その言葉の裏には明らかに琉球人を特種的な眼で見ていることを感じないわけにはいかなかった。次の詩は、この店のボックスのなかで書いたものである。
会話
お国は? と女が言った
さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、刺青と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のような風俗をしてゐるあの僕の国か!
ずつとむかふ
ずつとむかふとは?
それはずつとむかふ、日本列島の南端の一寸手前なんだが、頭上に豚をのせる女がゐるとか素足で歩くとかいふやうな、憂鬱な方角を習慣してゐるあの僕の国か!
南方
南方とは? と女が言った
南方は南方、濃藍の海に住んでゐるあの常夏の地帯、竜舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物達が、白い季節を被つて寄り添ふてゐるんだが、あれは日本人ではないとか日本語は通じるかなどと談し合ひながら、世間の既成概念達が寄留するあの僕の国か!
亜熱帯
アネツタイ! と女は言った
亜熱帯なんだが、僕の女よ、眼の前に見える亜熱帯が見えないのか!この僕のように、日本語の通じる日本人が、即ち亜熱帯に生れた僕らなんだと僕はおもふんだが、酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのの同義語でも眺めるかのように、世間の偏見達が眺めるあの僕の国か!
赤道直下のあの近所
沖縄に対する世間の眼と、自分の中の沖縄のギャップ。恋する女に伝えることの出来ないもどかしさと、あきらめにも似た会話が独白のように書かれている。
1933年(30歳)、生涯よき理解者となる金子光晴と出会う。この年佐藤春夫が山之口貘をモデルにした小説「放浪三昧」を発表する。
1936年(33歳)歴程同人。1037年(34歳)、金子光晴夫妻の立会いで見合い、念願の結婚をする。
1938年(35歳)、第一詩集『思弁の苑』刊行。
1939年(36歳)、東京府職業紹介所の就職。生まれて初めての定職であった。
芭蕉布
上京してからかれこれ
十年ばかり経っての夏のことだ
とおい母から芭蕉布を送って来た
芭蕉布は母の手織りで
いざりばたの母の姿をおもい出したり
暑いときには芭蕉布に限ると云う
母の言葉をおもい出したりして
沖縄のにおいをなつかしんだものだ
芭蕉布はすぐに仕立てられて
ぼくの着物になったのだが
ただの一度もそれを着ないうちに
二十年も過ぎて今日になったのだ
もちろん失くしたのでもなければ
着惜しみをしているのでもないのだ
出して来たかとおもうと
すぐまた入れるという風に
質屋さんのおつき合いで
着ている暇がないのだ
貧乏についての詩もたくさん書いているが、その困窮ぶりをただ嘆くのではなく、母と芭蕉布をからませて、困窮ぶりをも可笑しみをもたせた詩にしている。
沖縄についてはたくさんの詩を書いている。なかでも「沖縄よどこへ行く」はめずらしく長い詩で、沖縄の歴史をうたい、「日本語の 日本に帰って来ることなのだ」とうたっていたが。実際にその後、三十五年ぶりに沖縄に帰郷した貘は、次のような詩を書いた。
弾を浴びた島
島の土を踏んだとたんに
ガンジューイとあいさつしたところ (注1)
はいおかげさまで元気ですとか言って
島の人は日本語で来たのだ
郷愁はいささか戸惑いしてしまって
ウチナーグチマディン ムル (注2)
イクサニ サッタルバスと言うと (注3)
島の人は苦笑したのだが
沖縄語は上手ですねと来たのだ
(注)1 お元気か
2 沖縄方言までもすべて
3 戦争でやられたのか
東京で都会の生活をしながらも、沖縄の事をいつも気にかけていた貘は、三十五年ぶりに訪れた沖縄のあまりの変わりようがショックで、しばらくはなにをする気にもなれないでいた。その時のことを振り返り、娘の山之口泉さんが次のように書いている。
「沖縄はぼろぼろだ。もう、昔の面影は、全くない。」父の沖縄をぼろぼろにした戦争は、島自体を焼けこげた岩野原にしてしまっただけでなく、その場に居合わせなかった島の人々の心をもボロボロにしてしまった。父は、帰るべき故郷を、その三十四年振りに沢山の人達の好意で実現した帰郷の際に、皮肉にも、完全に失くしてしまったように思えてならない。父の故郷は、死んでしまった。父自身もまた、その時点から徐々に死にかけていたのだと言ってしまって過言ではないような気がするのである。
美しい沖縄とともに生きていた稀有な魂は、東京の苛酷な生活にも失われることなく、百九十七篇の詩を書き残してくれた。これは詩を読む喜びを、知っている私達にとって幸せなことである。
最後に山之口貘を最もよく表している詩を挙げる。
生きる先々
僕には是非とも詩が要るのだ
かなしくなっても詩が要るし
さびしい時など詩がないと
よけいにさびしくなるばかりだ
僕はいつでも詩が要るのだ
ひもじいときにも詩を書いたし
結婚したかったあのときにも
結婚したいという詩があった
結婚してからもいくつかの結婚に関する詩が出来た
おもえばこれも詩人の生活だ
ぼくの生きる先々には
詩の要るようなことばっかりで
女房までがそこにいて
すっかり詩の味おぼえたのか
このごろは酸っぱいものなどをこのんでたbたりして
僕にひとつの詩をねだるのだ
子供が出来たらまたひとつ
子供の出来た詩をひとつ
【参考文献】
山之口貘詩文集 講談社文芸文庫
山之口貘詩集 現代詩文庫 思潮社
日本の詩歌20 中公文庫
定本佐藤春夫全集10
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伊藤桂一 入営前の投稿詩群 ―『日本詩壇』掲載の四篇―
野寄 勉
伊藤桂一(大6〜)の、世田谷中学在学中から昭和十三年一月、習志野騎兵第十五聯隊に入営するまでの初期詩篇は、当時の文芸誌投稿欄に散見される。論者はかつて『文学論藻』第83号(2009・2)に今回と同題で、昭和十一・十二年の『若草』『蝋人形』そして『日本詩壇』に採用・掲載された「童話」「深海魚」「雨夜幻想」「執念」「喪滅の沼」「なめくじの歌」の六作品を取り上げながら桂一文学の萌芽期を概観したことがある。この二年間の三誌からは、まだ九篇の桂一作品が確認できる※。今回はその中から『日本詩壇』に掲載された四篇を紹介したい。すなわち、「書物」(昭11・6)、「霊魂の住む町」(昭11・7)、「藻の花」(昭11・10)、「去勢民族」(昭12・7)である。
幼い頃、僧侶の父を交通事故で亡くしていた桂一が、徴兵検査(甲種合格)を受けた二十歳の頃は、保険の仕事や指圧療法師として細々と稼ぐ母と白木屋デパートの食堂でウエイトレスとして勤める病弱な妹と三人で渋谷道玄坂上の百軒店の片隅にある瀬戸物屋の二階を借りて暮らしていた。(当時、渋谷駅で亡き主人の帰りを待つハチ公の頭を妹と撫でている)学業を続ける経済的なゆとりはない(すなわち、徴兵延期の申請ができない)ばかりか勤め口にも恵まれず、軍隊に拾ってもらわなければ生きてゆく場所がない状況であった。『文章作法 小説の書き方』(平9・4 講談社)は、そんな入営前の時期を投稿時代として、次のように振返っている。
当時は、投書雑誌や投書欄を設けている雑誌がかなりあった。
軍国的な息苦しさの加わりつつあった時代だし、娯楽施設も少なかったので、書物や雑誌がだいじにされたのである。私は投書によって、詩歌、文章、小説等の勉強に専念したが、月々の雑誌のどれかに自分の作品が活字化されていると(ことに好成績だと)そこに生きがいを覚えた。私には、投書成績のほかには、生きがいというものはなかった。
昭和八年から二十年まで大阪から出ていた月刊の「日本詩壇」は、投書家を優遇する気風が濃かった。さらに昭和十二年六月号からは詩集・詩誌・前月号掲載作品に対する批評欄が設けられ、読者からの自由投稿も活字化していた。各号一〇〇ページ前後。活字化される詩には、主宰者・吉川則比古(明35〜昭20奈良県五條市生、青山学院卒)の難解な漢語を多用した高踏詩風に沿う傾向がみられた。吉川は、桂一が軍務につく際には上京して、「元気で帰って、ぼくの力になってほしい」と激励する〈新人養成のための情熱家だった〉。
*
「書物」(昭11・6)は、最も早い時期の「日本詩壇」掲載作品である。
書物
書物をめくると
花弁の匂いがした
見えない花粉が散らばった
もう一頁めくると
今度は活字の観兵式
整然たる隊伍を調えていても
皇帝のない国の秩序はかなしかった
次の一頁の余白には
白い活字がこう読まれた。
――昔は物体である。
頁を繰る音 小さな余韻……
何かがわたしに触れた――多分
活字の兵士等が行進し始めた
その太鼓の音波ででもあったろう
書物を読むこと、書物を手に取ることの愉しみが謳われている。ページをめくると漂ってくる〈花弁の匂い〉は、読む者によって、新刊書のインキの匂いとも古書のカビ臭さともとれよう。いずれにせよ活字をとおしてこぼれ出す未知の世界が、徐々に開かれてゆく花弁に喩えられている。〈皇帝のない国の秩序〉の意味は判然としない。白い活字が刻む〈昔は物体である〉とは、過去から堆積された先人の知恵が幾多の書籍として物質化している謂いであろう。〈わたしに触れた〉何かとはむろん読書のツボともいえる詩人の琴線に違いない。いったん惹きこまれた以上、已むことなく昂ぶってゆく読む悦楽は、太鼓のリズムによって行進を始める、あたかもスズのおもちゃのような〈活字の兵士等〉と表現されている。
「書物」が、いわばインプットする自分を描いたとすれば、次の「霊魂の住む町」(昭11・7)は、アウトプットする者たちの世界が描かれているといえる。
*
霊魂の住む町
その町は霊魂の建設した町である
星座の涯であらうか 地の究極であろうか
塔も家も木も草も皆見えるようでいて見えない陰影でつくられている
そこで霊魂たちは透明な蒼い喪服をつけてひとつの風に変わっている
塔の階段を泳ぐように昇りまたは群がり合った樹葉の裏へひっそりと溶けていったりしまったりする
誰も住んでいないようでいて誰かが沢山住んでいるような気配の漂う不思議な夜ばかりである
蒼い喪服の霊魂たちは言葉も未来ももっていない
彼等は過去がしつらえた家に生活する
開墾の灯を灯し悲歎の蝋燭を燃やし怨恨の偶像を跪拝したりする が凡てはその形その姿は陰影ばかりである
その町からは風が生まれる
風邪は塔の窓からひそやかな跫音をしのばせて誰も知らない彼の地へと旅立ってゆく
霊魂たちはそれぞれが孤独である ひとりづつの宿命がひとりづつに沈黙と思索を与え生存でない生存を強制する
けれどその沈黙と思索の宿命も霊魂にとっては何の価値もない一つの時間でない時間でしかない
霊魂たちは過去を弔うために過去のみを背負っている
過去が消滅すればまた次の過去すらもない
何処かの町へながれてゆくのであろう
何処かに――その何処かに霊魂ばかりの住む町がある
詩を含めあらゆる芸術は、日常感覚からかけ離れた世界をも構築することもできる。それは「妄想」という脳内遊戯に押しとどめられなかった末の表現衝動の形象化ともいえる。そんな妄想の中にも日常は余儀なく投影される。どんな日常がどのようにたくしこまれているのか。詩を読むとは、自分の妄想と日常感覚を寄り添わせて、私にはこうとも読める、という世界を構築することだ。その際、判明している、詩人の来歴と重ねて判読したくなる誘惑は抗しがたいものだ。この「霊魂の住む町」をひとたび二十歳の桂一に寄り添わせると、〈霊魂〉には詩魂が、〈町〉には投稿誌に掲載されることに一喜一憂しながらも、先の見えない己の詩業という茫漠とした世界が投影されてくる。〈塔〉とはさしずめ「日本詩壇」でいえば、「推薦詩壇」と題された大活字の掲載であり、樹葉の裏とは「選外佳作」という扱いで名前と作品名しか載らないことの喩えとなろう。過去しかない町には、悔恨・悲歎・怨恨に照射された過去しかない。それぞれに孤独に住まう霊魂は、それぞれの沈黙の中にどれほど重大なメッセージをためこんでいたとしても、どれほど深遠な思索が積み重ねられていたとしても、職業詩人のような〈言葉も未来ももっていない〉以上、どれほど大勢が蝟集していようが、それ自体には〈何の価値もない〉。弔われる過去とは、これまでに自分が作った詩作品だ。もっとよい詩を作るためにそれらは軽やかに葬らねばならぬ。過去の作品に拘泥すまいとの決意が喪服をまとわせている。それが〈蒼い〉のは、青春の証しだ。一つの詩風に落ち着くことを当面の目標にする必要のない若い詩魂が、次の「町」へとながれていくのは必然なのである。選者の吉川は、〈難のないファンタステックな手法〉と短評しているが、論者は、青年詩人の静謐なマニフェストと解してみた。
*
次の「藻の花」はメインタイトルの後、「翅音き蟲」と題されたもう一つの詩が続く。詩内語に準ずれば標題の「音き」は「青き」の誤りであろう。
藻の花
藻の花は風のまにまに揺るゝ日も真白き葩の匂わしかりき
藻の花は根はなけれども根なきまゝよろこびに似し花つけにけり
よろこびはまた諦めに似たるかな漣立てば泣くにあらずや
藻の花は波のまにまに揺るる日もひと恋うすべを忘れざりけり
翅音き蟲
翅青き蟲はさみしや
浴衣の袖にとまりたれど藍染の花のなさけは薄くして
うかれ女の肌のかおり点もし灯紅くなまめきてむせたり
されどうかれ女もさみしや
ひとのなさけの戯れにして早や秋立ち初めし蟲の青き翅をこそかなしみぬ
第一句目に見える〈葩〉は「ハ」。花。花びらの意で、本作でも「はなびら」と読んでよさそうだ。ちなみに「葩経」(ハケイ)とは『詩経』の別名との由。詩中詩というべきか、「翅青き蟲」では、遊女という存在の哀愁が描出され、「藻の花」がところ替えする遊女の比喩となっていることへと押し戻される。諦めに似た喜びをたゆたわせるさざなみに、涙ぐまずにはいられない。その波のまにまに揺れる身体は、桂一のそれであった。後年の桂一が、慰安婦の心情に寄り添う作品を多く執筆することを思うと、その下地をここに読み取らずにはいられない。というのも、水中植物に遊女をなぞらえる心性は、上海郊外での敗戦前後の体験を描いた「晩夏」(平10・7「季刊文科」)に再び顕現されるからだ。すなわち敗戦後、前任地で懇意にしていた慰安所の朝鮮人女性の消息を戦友に問いただされた際、「別れてしまえばそれまで、ということにしなければいけないのさ。流れ藻が、寄り添って、また流れて行った、というだけのことさ。」と応じ、〈(六年間軍務についていて、おれの収穫といえば、アカネと触れ合ったことだけか)と、思う。悪い気はしなかった。弾むものが、なんとなく胸の奥にはある。そこにだけ花の咲いているように、ある。〉と変奏されるのである。
*
去勢民族
圧し潰された家並みの隅々に
壁を啄んで生永らへている民族である。
醜く歪み衰へた屋根の廂から
既に星さへも翳らなくなって幾星霜
死滅した果然を突いて虚しく梢のみ枯れ枯れに穹を支えたが
曇日 時雨れて 日毎地上には泥濘んでいった
拒否されたもののみが僅かに蠢いていた
彼等の窶れた影のあたり
もはや原始に還るすべもなく窓は?け
古びた蜘蛛の巣にがんじがらめにまつはりついた思想
その壁にむさ苦しく黴の花のひらく季節
壁の彼方 まだ果なき虚蒙の一切を告げて
自由と殺戮の地平が続いていた
家並から家並へ錆びた鎖がはりめぐらされ
雨の祭典とともに人には盲いていった
その指は壁を噛み微かに塵あくたの享楽に耽りもしたが
所詮 泥砂の方向へあてなく生存の意志は朽ち
彼等は枯葉らの甘美な頽廃をさえ願っていた
まだ枯葉らの湿潤から醗酵する遣場ない意欲と叛逆への
耽溺を慕っていた (未完)
昭和十二年は、入営前最後となる本作(七月号)に先立ち、「執念」(三月号)、「喪滅の沼」(五月号)「なめくじの歌」(六月号)が掲載された。〈可能な限り漢字を多く用い、文意を迷路に誘い込み、こちらの意図だけは遂げるという手法〉(「私の詩的自叙伝(2)」(平18・10「詩と思想」)〜それは主宰者・吉川の詩風とも重なる〜によって難解、晦渋になっている。官憲の検閲をかわすことを企図したためであるが、それでも時には三分の一くらい抹消されたりもしたそうである。意図的な難解化と事前検閲→一部削除が誘い込む迷路に、読み手は困惑するほかないのだが、この「去勢民族」については、昭和十年代、軍国主義が瀰漫する日本の民衆がモチーフであるとみなして差し支えなかろう。
桂一の詩が帯びる反戦的傾向は、先考で扱った「なめくじの歌」(昭12・6)により顕著だが、当人の回想に拠れば〈生活上の不遇が、すべてに向けて抵抗感を示そうとしたから〉。中学在学中も軍事教練は怠けがちだったという“実践”を重ねていたくらいなので、〈軍隊に拾ってもらわなければ、生きてゆく場所がなかった〉生活状況であったからといって、入営後ただちに軍務に精勤するということはなく、入営早々、劣等兵の烙印を押されるような態度で、兵営生活をスタートさせることになる。
(1)国会図書館、近代文学館所蔵分より。両館とも、全号揃いではない。
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