『群系』 (文芸誌)ホームページ
33号 創作
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岐路 ―ある日の宮沢賢治―
高 岡 啓次郎
この一週間は実に慌ただしかった。雑事に追われると胸の中に消化不良を起こしたときみたいな泡が生じてくる。気泡のはじける神経質な音が俺をかりたてる。散歩するなら今夜しかない。そう思って旅館を出たのは夜の十時をとっくに過ぎていた。五月の夜気は冬の冷たさを引きずっている。レインコートの襟をたて、ポケットに手を入れて歩道に立った。札幌での見学を終え、岩見沢を経由してこの街に着いた。苫小牧駅前の旅館に入ったとき柱時計は夜の八時を告げていた。明日は二十六人の生徒たちを連れて製紙工場を見学し白老に向かう。アイヌの集落は昔と変わったろうか。農学校の生徒だったときに訪れた記憶が昨日のように思い出される。費用の十九円が捻出できずに行けない者も多かった。父は沈黙したままだった。俺はやせ我慢しながら自分に言い聞かせていた。いつか北海道はおろかブラジルだって自分で稼いで行ってやる。定員に満たなければ県から許可がおりないらしく、行くことが決まった連中からうるさく言われるのがいやだった。
しばらくして、やっと父が許可してくれたときは安堵した。母親と祖母も嬉しそうにしていた。二冊の手帳に書き込んでくると意気ごんだ。あれから何年たっただろう。上を見上げると、そそり立つ巨大煙突から夜空を焦がす橙色の煙が、らせん模様を描きながら昇っている。紙の街は静まり返っていた。巻きこむ風が道端に落ちた新聞紙をもてあそぶ。路肩の排水口が軽い音をたてている。耳をすますと頭上から遠い潮騒の響きが聞こえる。それは気のせいだろうか。旅館を出る前に地図を眺め、北の海の荒々しさを脳裏に想い描いてきたからかもしれない。土地には独特の匂いと音がある。昼間に訪れた札幌は農学校も時計台や大通公園にもポプラやアカシヤの若葉が放つ甘くかぐわしい粒子が風にまじっていて、サラサラとした軽やかな葉ずれの音が絶えず聴こえていた。立っているこの街の空気には複雑な臭気が絡みついている。それはすぐ近くにある太平洋とパルプ工場のせいなのか。旅人を突き放すような落ち着きのない気流があり、鼻をつくのは魚の腐敗臭に溝(どぶ)臭さが混じったみたいな匂いだ。濁った空を見上げると、うすい霞を通してぼんやりとした星がまばらに見える。地面がゆれて夜汽車が通っていった。先ほど降り立った停車場。点在する光の帯が左に引きずられていく。踵を返して歩みを早める。踏み固められた土の道は日中の雨で所々がぬかるんでおり、馬車の轍(わだち)ができていて、馬糞が黒い石炭みたいに散らばっていた。
暗い夜道に浮かび上がる看板を見あげる。質屋と食堂を判別できたがどこも店を閉じていた。製紙会社が出資しているという娯楽場だけが辺りの照明をひとり占めしていた。すでに人だかりはなく従業員らしき男女が旗を片付けていた。海に通じる道は人通りもまばらで、ときおり酔った人夫風の男たちが肩をゆらして通り過ぎていく。引率の職員たちと口にした少しの酒がもたらす酩酊感が残っていた。農学校の教師として数年が過ぎたが、いまだにその仕事を続けていく確かな自信がわいてこない。思えば石の収集からはじめて地質学を学び、農業の未来についても真剣に考えてきた。もがきながら詩を書き、童話を作り、戯曲を創作してきた。自分はいったい何をしたいのだろう。文学で身を立てたいという野心は消せないが、今は何をしていても妹を失った悲しみが胸の奥深くを占めていて、説明しようのない寂しさが前途を暗くしている。童話の出版も断られた。
働いてやっと貯めた金を吐き出して「春と修羅」を自費出版したのも、それが何かの突破口になればという思いもあった。未来は漠とした荒野のままで、いつまでも霧が晴れない。この引率旅行も天真爛漫な生徒たちのエネルギーに押し出されるように動いているにすぎない気がする。旅館に残してきた生徒たちは大いにはしゃいで眠ろうとしなかった。おしゃべりに興じ、枕を投げ合って遊んでいるのを二回叱りつけねばならなかった。どうせ今ごろは声をひそめて悪さをしているだろう。自分も学生のときはそうだった。彼らを想いから切り離して散歩に出てきた。
一生をかけてやりたいことを繰り返し問いかける。北の海を見たら変われるだろうか。絶えず付きまとう迷いに似た雑念が思考を攪乱する。創作のために浮かぶ言葉はどれもゆるく定まることがない。意味もなく道端の石ころを蹴飛ばした。停車場通りを過ぎると急に家屋がまばらになり闇が濃くなった。低い位置にある月が雲間から顔を出そうとしている。進むにつれて潮の匂いを運ぶ風が強くなってきた。道の左側に太くてがっしりとした木柵がめぐらされていた。霞んだ大地に背の高い草がゆれている。絡まる蔓が蜘蛛の巣みたいなシルエットを作り、辺りから家畜の匂いがした。細い道はぬかるみがひどく、石ころの上や路肩に近い草の生えている所を選んで歩いた。大きな納屋を過ぎると波音がいっそう激しくなった。雲が流れていき下弦の月が顔をだした。取り巻く雲には黄銅色の光がこぼれ、その下方に陰影をともなう青白い闇を作っていた。風の中にときおり鳥の羽根を焼いたような匂いが混じっている。そのとき物音がした。
草をこすり柵をつく音だ。物陰にいたのは牛だった。骨格からしてエーシャー牛に違いなかった。こんな夜更けに眠ろうともせず草に角を絡めて遊んでいる。黒い塊が頭部に月明かりを受けてうごめいている。この牛もまた旅館でたわむれている生徒たちと同じように何かに興奮して眠れないのか。
ポケットに忍ばせてきた書きかけの手帳に手をかけたまま取り出そうとせず牛の動きをしばらく眺めていた。詩の断片が浮かんできたが覆いかぶさる闇がひらめきの記帳を許さなかった。流れてくる言葉のフレーズを選び、想いの中に夜の景色を書き込んだ。造形の細部を見つめ、それらを一つの映像として脳裏に植写した。粗末な小屋が続いたが、干し草の山を越えたあたりから耳を裂くほどの海鳴りがした。その轟音の扉が開かれたとき陸上のすべてが一気に視界を去った。小高い土手に立つと茫洋とした暗い海が現れた。頭上の月は怜悧な光を落とし、その破片が波間に飛び散って水銀の巨大な渦を呈している。混沌とした世界。得体の知れない流動する合金。鉛と瀝青を溶かし込んで立ち上がる壁。あらゆる迷いの坩堝。俺の心臓の中。そこには文明とまったく無縁の原始の世界が広がっているようだった。時間が止まった感覚にとらえられた。波の砕ける音を聴き、波頭に映る光の儚さを見つめる。過去と未来がぶつかりあって崩壊していく様は神秘だ
屈み込んで足元の砂をつかむ。この軽い砂は鉄分が少なく火山灰が多いのだろうか。手足や襟元の隙間から潮風が忍び込む。冷えてきた体をゆすりながら視線を西側に移動させた。そう遠くない海岸に沿って街明かりが見える。その部分だけが異彩を放って輝いていた。どれくらい歩けばそこにたどり着けるのだろう。地図が頭をよぎり、しらずに足が向いていた。砂が靴に容赦なく入り込んでくる。まもなく足は止まった。
屍の影絵みたいな流木に腰をおろして靴をぬぎ砂をはらった。激しい寂寥感が再び俺をとらえた。いま見ている瞬く明かりは浜沿いに建つ色町の放つものに違いない。このやるせない孤独感をいやす何かが欲しい。滑らかな流木を撫でながら自身の中にうごめく若い炎について考えざるを得なかった。自分はあらゆるエロス的なものを作品から排除してきた。それは詩作においても、戯曲や童話においてもそうだった。その中性的な感覚こそが自分の作品の美点であろうと思ってきた。果たしてそれは正直であったろうか。作品の中から己という存在を抽象化し、ある種の毒気や汚れを抜いて表現してこなかっただろうか。それがお前の作品の魅力ではないかと言う者もいる。お前の生み出すものに漂う、神秘的、宗教的な調べは独特のものかもしれないとも??。
だが俺はそんな高尚な人間ではない。自分に語りかけながら、自らの肉体に潜む淫らな炎と、うごめく衝動にうろたえた。俺は自らの悪魔的なものから逃避するためにこうした作品を生み出しているのかもしれない。そうつぶやいたとき舞い上がった風がうつむいた顔に砂を叩きつけた。染みる目を静かに閉じたとき聴覚から海鳴りが消えていた。
けだるい響きをともなった三味線の音がする。甘えた女の声も聴こえてくる。客引きの男が卑猥な薄笑いをうかべて近寄ってくる。袖をつかむようにして店の前に連れていかれる。赤い着物の裾をたくしあげた女たちが誘っている。はだけた胸もとから化粧の匂いに混じって甘酸っぱい香りがいやおうなく鼻孔をつく。やわらかな起伏が悩ましく波打つ。ほっそりとした指が腕にふれた。冷たい湿り気のある感触。その生肌におもいきりまみれてみたい衝動を覚える。見知らぬ女たちの顔が仄赤い光にゆれながら浮かぶ。放心している肉体は体重を失って進む。闇の中で白い蛇がうねっている。かすかな線香の匂い。一瞬の読経が耳をかすめた。めまいが襲ってくる。そのとき、あどけない表情の少女が別の格子戸から顔を出したように思った。トシ……。妹に似た女が現れたとき、胸をおしつぶす激しい痛みとともに海鳴りが聴こえ夢想から覚醒した。何もない。激しい罪悪感だけが残っていた。月は雲間に隠れ、空と海は黒さを増して一体化し、大地を巻き込んで巨大な淵と化していた。
立ち上がって再び歩き始めた。波濤のいななきは絶え間なく耳をつんざき、大脳の奥まで染みてくる。ここで刻まれた残響はいつまでも永遠に去ることがない気がした。岐路に立つものを導くためか、北の空に不動のポラリスが輝いていた。空に点在する星々のどれもが果てしなく孤独に思えた。砂地から土手を越え、干し草の横に戻って来た。先ほどまで遊んでいた牛の姿は木柵の中になかった。何もかもが波音に押しつぶされて沈黙している。潮風にさらされた砂も、おびえたように揺れる草原も、細い道に横たわる泥濘も、ただ茫漠とした闇がすべてを溶かし込んでいて、海鳴りが誘う深い眠りに落ちていた。
(了)
会長ファイル「福祉バス」
小野 友貴枝
氏神さまによって行こうと決めて少し早めに家を出る。
地域福祉センターに行くには回り道だが、五分と違わない。家から百メートルほどのところに外から見ても目安になる欅の茂った社(やしろ)がある。鳥居の脇の公孫樹はすでに一葉残らず黄に染まっている。英田(はなだ)真希(まさき)は、どうしても叶えて欲しいことを口の中で唱えながら本殿に向かって急ぐ。
この姿は厳寒のころ御百度参りする受験生の親に似ている。あの方たちのように素足で百度を踏む鬼気はないが、今年は勝負の年という意気込み、神にすがりたい気持ちは負けない。
近隣の中で一番由緒がある社と言われ、正月には初詣の人で混む。参拝者で長い行列になるのは、それだけ霊験新たなのかもしれない。
二礼、二拍手、三礼をした。「バス運行事業が廃止できますように」と声を出していた。重い言葉を吐き出すように頭を下げる、祈りよりも懇願に近い。
頭の上で、キジバトがとぼけた声で鳴く。湿りっけのある風が吹くから、午後は雨になる。これで公孫樹もおしまいになるだろう。
この時期、社団法人の福祉センターが白ナンバーのバスを運行することは大事業である。
事業廃止へ持っていくには幾通りもの壁がある。まずバス購入のきっかけとなったボランテイア連絡会(五十団体)の抵抗、地域の自治会・婦人会、障害者団体、そして行政。そこに突き当たりながら最終は理事会・評議員会の議決を得る。しかしまだ最終ではない、一七万人の市民の声だ。いやその前に、もっとやることがある、職員が一丸となって抵抗勢に当たってもブレないこと。だから氏神さまにお祈りして、その中心にいる英田会長自らの心がくじけないようアップさせて貰っている。
二年前、英田真希が市長推薦で、地域福祉センターの会長に着任した時、信頼できる元市会議員から、「職員十二人足らずの事務所に福祉バスの運営は重荷である、バスの運行事業はすでにガタがきている。今は市町村でさえ維持することが大変な時世なのに、ネーム入りの白ナンバーを持っているなんてナンセンス。誰が管理しているんだ民間のバス会社に任せっぱなしじゃないか、一歩間違えばバス事業でセンターが潰れる」と耳打ちされた。意味深長なその言葉を、英田が理解するには時間がかかった。
英田真希の職歴は、住んでいる市から外へ出た職場ばかり、横浜の県庁を最後に定年を迎えた。これで職業人生も終わりにしようと思っていた矢先、何の伝か、地域福祉センターの会長職に推薦され乗ってしまった。これこそ無謀だが、断るよりもやってみてからという軽い気持ちで受けた。地域福祉は、地縁・血縁の世界で福祉行政とは大きく違う、と気付いた時には後の祭りである。
英田の一年は、行事を追いかけるのに精いっぱいだった。大きなトラブルもなく一年経ち、二年目を迎えようとしたとき、「福祉バス事業費七百万円」に眼がいった。センターの総事業予算は千二百万円で、その六十%をバスの運行費に充てている。この予算書を見るまで元市会議員の言葉を思い出さなかった。
英田は、バス関係の事業の稟議書を一度も見たこともない、どのように運行されているのか、それすら聞いてもいなかった。もし聞いたとしても、疑いを持っていなかったときは、頭に入らなかったかもしれない。事業関係はすべて常任理事でもある、市役所の天下りOB、澤事務局長に任せ、彼が決裁していた。
二十年前、ハンディキャブ「福祉バス」を所有した時から、民間のバス会社に、七百万円で委託している。経費の内訳は、運転手の人件費、ガソリン代、駐車場、保険料である。
センターはバス利用者の受付窓口対応だけ行っている。後は「月末、運行計画をバス会社に出せば、すべて会社のほうで賄ってくれる」という手間のかからない事業として長年継続してきた。運転手はバス会社のOBで、人事管理も会社で行われていた。
もう少し、突っ込んで勉強すると、白ナンバーを運行するときには厳しいきまりがある。目的以外には使用しない、これはあくまでも福祉活動に使うものである。もちろん営利目的にも使ってはいけないと明記されている。原則、運行管理のためには職員が添乗することにもなっている。
さらに大事なことは、安全運行のために、バスに乗る人の名簿・連絡先、運行計画は、事業の責任者が把握していなければならない。しかし、いずれも守られていない。バスの走行距離、二百キロ以内、走行時間は七時から十九時までということだけは守られているが、後は乗車した人のニーズで「ついで観光」している。目的外使用も禁止されているはずなのに、添乗員がいないために融通つけていた。何しろ運転手は、観光バスを運行してきた超ベテラン。市民には人気があった。
年間七百万円もかけている金の卵のような事業、ハンディキャブ「福祉バス」は、年間一四〇日しか稼働していない。四十五人乗りに平均二十三人という実態は、贅沢な運営である。
そんな贅沢な事業に、なぜ予算を使っているかといえば、それは、購入時の状況を紐どかなければならない。
今から二十五年前、バブルがはじける前で、どこの市町村、地域福祉センターでもバスを持っていた。各種団体の視察や行政の同一行動にバスは便利と、一つの時代のブームになっていた。その折、当市の福祉ボランティアの間でもバスのニーズが高まっていた。
「ボランティア活動にバスが必要だ。福祉センターというネーミングしたバスで走れば、我々の宣伝にもなるし、ボランティアの普及にもなる」
福祉センターで買えないなら、自分たちで買っちゃおうと寄付を集め、市民運動まで広めたのが後々まで引き継がれた「一円募金」である。多くの寄付が集まり、後の不足分は国の補助金制度に応募し、購入するまでこぎつけた。その結果、リフト付きのハンディキャブ、福祉バスが福祉センターに寄贈された。このときセンターと市役所は一円の投資もしていない。
当初は、二二〇日フルに回転し、いつも満員だったと聞く。福祉団体が一緒にバスに乗ることのメリットは大きかった。
「バスの中で話し合いができる。障害者も一緒に行動できる」という便利な移動手段になっていた。しかし、数年経つ中で、週末にばかり集中する予定を一台のバスではさばけず、断わらざるを得ないグループが多くなり、実働が低下していった。ボランティアの稼働が年々落ち込み、一〇〇日を割るようになった。その隙間を埋めるように、市役所からの依頼で、市内の公共施設循環を週二回行うようになって、一四〇日の稼働が維持できた。
バスが寄贈された年月は過ぎ、バスの寿命は、常識で十二、三年と言われながらも二十年間「福祉バス」は運行していた。
二十三年前のバス購入の市民運動を聞けば、誰でもバス事業にメスを入れると言わないだろう、英田もこの由来にビビり、固まってしまったことは確かである。
もし福祉センターの経営が潤沢であったなら、という人がいたとしても、トップマネージメントとしては荷が重すぎる。専門でなければ管理運営はできない、元市会議員の言うとおり十二人程度の組織で、添乗員一人を出すことも出来ない。
今、福祉センターのオーナーでもある市役所がいかに経費節減を図っているか、市民は知っているだろうか。第三セクターに対して、市役所は人件費の一割カットを毎年明言している。この攻防が大変、なんとかして七%減を維持している。しかし、近い将来は半分になることは避けられない。センターのような法律に設置義務が謳っていない第三セクターは、人件費を削ることができる。行政と民間との中間の業務は目に見えないので、カットしやすいのだ
福祉センターがサービスに直接かかわるのではなく、行政の狭間を埋める役割に徹すればいいものを、目に見える「福祉バス」のような直接サービスに手を出してしまったから本来のソフト業務に予算が付けられないことを職員は知っている。でもそれを表だって言えば、市民感情が悪くなるからあえて言わないで口を閉ざしている。
その中で英田としては、センターの将来に向かってここでバス事業を廃止したい。彼女は、その仕事こそ自分の役割と信じている。
氏神さまにすがりたい気持ちは、闘志を持続させるための祈り。急に信心深くなったわけではない、ただ心が弱くならないよう朝の祈りが必要なのだ。
福祉バスの廃止を決定するまでには、どのぐらい時間がかかるか分からない、まず市民の抵抗をかいくぐれるほどの職員がいない、それを澤事務局長に期待しようとするが、彼の態度も曖昧である。彼は、二年前、英田会長よりも一年前、市職員を定年退職し、三年契約で常任理事兼事務局長に着任したという経歴のせいか、センターの職員になり切れていない。
澤事務局長の胸に落ちないことを心配して、再度バスを持つことの不経済さ、管理上のリスクの高さを訴えた。九九%委託事業であること、センターの本体運営とのかかわりのなさを力説したが、しかし彼は、返事をしない。
「一体貴方は何を守ろうとしているの、自分の立場、人からいやなことを言われるから、市の行政への義理立て、サービス低下」などを聞かせて欲しいと言った。もぞもぞと歯切れの悪い言葉の中から拾うと、彼が一番怖れていることは行政の反応である。
「市でも財政難であるから、マイクロバスを廃車しようしています、こんなときには、センターにバスがあれば便利だと思うのですが」
いかにも市役所の元職員らしい言い方だ。
「福山市長は、『センターのバスだから、役員自から決めてください』というおおらかな返事をもらっていることを澤事務局長は知っていますよね」
「市長とスタッフは違います。市の職員はみんな困っています」
「市役所の代替をやるつもりなの、今まで散々やってきたのに、なおやりたいのですか、なぜ、」
「だって、市がそれを求めるでしょう」
英田はあきれてものが言えない。市役所のために仕事をしていると言うのか、センターのために仕事をしているのではなかったのか。
見解の違いは明らかだ。誰が見ても澤事務局長は市に寄っている。センターのことを考えて行動しているのではない。この壁の厚さに英田は絶望感を味わった。
寒さからやっと抜け出したような日、英田は地域の敬老事業に出席するため、センター車で現地に向っていた。
ふれあい会館で開かれる「高齢者に感謝するつどい」は、八十五歳以上の高齢者が待っているセンター主催のイベント。だから、今日は、一日中福祉バスが稼働して、高齢者の人々を送迎している。自宅に車のある人は別だが約半数は利用している。
市の東側に位置する地区は一番高齢化率が高い。農村地帯でもあるこの地区は、里地というなだらかな土地に古くからの家々がある。道路の脇に並んだ家は陽を一杯に浴び、どこの家でも門に梅が咲いている。それが家の格式にもなっているのか老梅ほどいい。
広い庭を持つ家に住んでいる人は四世代が多い。曾孫まで含む八十五歳以上の高齢者。
英田は、高齢者を激励するためにも温かいことば、春を意識するような挨拶にもっていこうと内容を練ってきた。英田は立場上、市長の後、二番目に挨拶する。彼女はどんな場面でも挨拶は大切にしている。だから会場に向ういま、心を平らにしている。
ふれあい会館にもう少しで着くという時、運転する大曾根班長が突然話しかけてきた。
「会長、理事会にバスの代替案(だいたいあん)を出したくないと、みんな言っています」英田の思惑など気にする様子もなく話しかけてきた。
「バスの代替案は、新年度にしたいのですって」とも言う。
「代替案を出さなければ、福祉バス事業の削除はできない。せめて今日のような行事には、タクシー券を出さなければなじまないでしょう」
「議案が多すぎるだけでなく、本家本元の予算が通らなかったら困るからと」
「事業計画と予算はセットでやります。次に定款の改正として福祉バスの案件を出します」
大曾根は、法人班の班長だから、理事会の運営を心配することは分かるが、彼と車の中で議論することではない。このことは澤事務局長ときちんと話し合うことが必要だろう。
「澤局長に頼まれたのね、事業担当の中島班長も同じ意見」
ウン、と彼が頷いた。また、三人が英田のいない時に結託している。彼らの考えは、いつも「面倒くさい」ことがいやなんだ、大曾根は、英田の感慨など理解するふうもなく、会館に向って走らせる。後五分もたてば、着いてしまう。
英田は、さっき味わった、「またかよ」という感情を捨てて、高齢者に向ける、または関係者を慰労する笑顔に、気持ちのハンドルを廻した。平静に、品位とやさしさをもった表情に、これが会長であるポーズ。もちろん今日の催しにあわせ、パープルの地に紺の縦縞のスーツで決めている。催しは十一時に始まる。
ポーチのある入口には、関係者が揃いの法被を着て立っている。スカイブルーの衿が目立つ案内係が寄ってきた。
「裏手に回ってください」
大曾根班長は、「じゃ会長、ここで降りてください」とハンドルに手をかけたまま言う。
入口を入ればエントランスホール。直に二階に通じる階段がある。しかしまだ時間があるので、控え室に導かれた。顔なじみの民生委員が着物姿でお茶を出してくれる。いつもにこやかに「お休みのところをすみません。早朝から副祉バスを回していただいてありがとうございます」と丁寧な言葉がある。英田は、「皆様にお会いするのが楽しみで」と笑顔で返すが、バスのことが話題にのると胸がズキッとする。今は、市民は知らないが、来年は、話題に出て非難をあびるだろう。代替案でタクシー券で穴埋めするつもりでいる。
英田は二年やってやっと地域の付き合いが身についた。会長になりたてのころは、地域に溶け込むことが大変だった。まして一人ひとりの名前が出ない、名前よりも何の役員かが頭に浮かんでこない、やっと地域の縦横の関係、上下の関係が分かるようになった。自治会の三役は、重鎮だから、見逃してはいけない。それだけでなく、最近どこで会ったかも覚えていないと、失礼に当たる。地域側は、英田一人をターゲットにすればいいのだが、彼女の方からは数限りの人を覚えなければならないので、結構ハードである。
来賓が揃った、この地区の市会議員三名、市長代理の担当部長、公民館の館長が並んで会場に入った。大曾根班長は地区担当だから、末席に座った。
八十五歳以上の対象者は七割方集まった。シートを敷いた会場に座布団、座椅子、椅子に座った高齢者。その後ろに自治会・婦人会の関係者が並ぶ。高齢者といえども当事者意識の強い人ばかりなので、壇上に載る人の話に熱心に耳を傾けてくれる。それだけ、英田は、高齢者にフイットする明るい話題で盛り上げようと努める。
四時ごろに目が覚めるのは必ずこころに痛みか、考えなければならないことがある時だ。何故なく気持ちがざわざわしているから目覚めてしまう。六時間は眠っているので、眠り足らないということはないが、ただ体が重い。
気分を変えるように体の位置をずらした。手の届くところにソーラーの目覚まし時計がある。まだ四時半だ。こんな時間に起きる意味もない、外は、まだまだ暗い、さっき朝刊配達のオートバイが戻って行ったから新聞は手に取れるが、それでも時間は早い。英田はそれよりも目覚めさせされた、うっとうしさの在り処を突き止めようと目をつぶった。
「もちろん会長の言う通りですけど…、バス運行廃止に伴う代替事業を決めるのはまだ早い、敬老会や、ボランティア活動へのタクシー助成金だけでも計上しておきましょうよ」から始まった澤事務局長との意見の食い違いが、早朝攪拌を習慣化させてしまった。いつものことであるし、大きなトラブルにはならないだろうとは思うが、それでも頭の片隅にあるから目が覚めるのだ。
「どこかで、どうしようもない職場を立て直したというケースを聞いたことがある、NHKのプロジェクト×〜挑戦者たち〜だったかな、そんなリーダーになりたいと思った時もある。あれは夢の夢、現実は厳しい」あれはどんなケースだったかしら、と思いは馳せるが、鬱っぽい頭の中では、具体的な内容まで浮かんでこない。
「私にそんな役割ができるわけがない」と野心を捨てる。イイママヨ!、と眼を大きく開け、毛布から首を出す。
いつまでも横になっているから、血の巡りが悪く、ろくなことしか考えない、起きればまた生来の楽天家に戻れる。
「前向き指向が、わたしの良さよ」と、手を伸ばしてセーターに首を入れた。
「出口の無い失望感など、四十年の職業人生で何度もあった。そんなに難しく考える必要はない」と声に出して言って、廊下を素足でトイレに駆け込む。
「しかし、待てよ、トップで働くのは、はじめてよ。私は今トップなんだ、今までと違ってもっと責任が重い」
言い聞かせるなかで、会長の理念を邪魔する澤事務局長と大曾根班長の顔が浮かぶ。「理事会前に、あの二人をリストラしてしまえばなんとかなるかな」と無謀なことを考え、ほくそ笑む。
トイレの窓に明かりがさしてきた。六時過ぎている。出勤までの間にやらねばならないゴミだし、夫の食事、そして洗濯、ボヤボヤしていられない。英田は小さな組織だがトップリーダーでもある、新聞ぐらい眼を通して出勤しなければ、時事に疎くなる。
早春から続いている早朝攪拌症はまだ治らない。
最近は三時半に目が覚める。ほとんど五時間しか眠っていない。早朝このまま寝ていたのでは、頭がおかしくなってしまうか、本物の鬱になってしまうのではないかと怖れた。自分の浮遊力では上がらないほど、気が重く沈んでいる。英田は、足を高く上げて布団を蹴飛ばした。布団に潜っている限りこの重さから抜け出せない。
急に思いついたように、「惣田山の河津桜まつりに行きたい」と、英田は大声を挙げた。
小田急で三駅、あそこなら近い、一気にいける、急に頭が回転しだした。
春の日差しを感じられる日曜の朝、英田はリュックを背負って八時台の小田急に乗った。
電車の中は、山に行くのか装備のしっかりしたリュック客が多い。隣に座った中高年の女性は、しゃべっている言葉から西丹沢に登るようだ。いろんな計画を練って行動する女性が多くなってきた、と思ったが、それはずっと前からで今さらと言われそう。アウト・ドアをしない英田のほうが時代遅れなのだ。最近はすっかりで無精になってしまった、どこの祭りだとか、どこの花が咲いたというニュースをみても興味が湧かない、バーンアウトだ。
週末は、ほとんど本を読んで過ごす。もっと趣味を増やしたほうがいいと子どもたちは言ってくれるが、いつでも仕事が気になっている。もちろん日曜出勤も多い。
センターに入ってからは職住接近で精神衛生に良くない。いつも見張られているような気がする。
小田急からJRの駅まで、歩く人の流れが出来ている。どこにいても女性客で一杯。小さなアーケードのある商店街を抜けていく。どこの店の軒先にも桜まつりに引っ掛けて地産のものを売ろうとする意気込みが見られる。壷焼き芋の煙が上がる。帰りに焼きあがっていることを期待してバスに乗った。リムジンバスは山と河川敷の臨時駐車場を一〇分間隔で往復している。
惣田山の河津桜がヒットしている意味が、山に到着してみて理解できた。河津桜が植わっている山の中腹は高さ四五〇メートルほどだが、そこからの眺望が素晴らしい。
空が高い。雪を被った美しい富士が箱根連山の上にすっきり載って、日に輝いている。眼下には足柄平野が小田原の先、相模湾まで広がり、その真中を割るように酒匂川が流れている、大きな空と西を塞ぐ山々、平野を一望に収められる。
「いい観光地」を創った町長に拍手したい。
十五年前、企画した町役場の人に聞いたことがある。
「何も、河津桜の二番煎じに投資することもないだろうよ」と、町民は言った。
しかし、町長は頑として聞き入れず、「この小さな町は山を利用するしかない」と信念を貫いた。さらに「河津まで行かなくても、河津桜は見られるようにしたい」とも。
河津町の二番煎じだったかもしれないがこの眺望の良さを計算に入れていたとしたら、大きな未来投資だ。東名に設置した天気予報のカメラ、さらに東京からの近距離が味方して、マスコミまで動因する結果となった。もちろん町をあげてというローカル感が、都会人の関心を買っている。町起こしというけなげさが観光客にはたまらない魅力。
中腹に造成した広場に仮設の土産屋から飲食店がぞろっと並んでいる。ベンチに座って親子どんぶりまで食べられる。英田は案内人の大声に誘発されて、いろんな土産屋を回った。回る中で貯まった手に余るほどのミカン、花の鉢が重い。
満開の河津桜は赤紫色に咲き、土手を覆う黄色の菜の花と競い合っている。赤に黄色は似合っているのか反発しているのか解らないが、春旺盛。
今朝の下向きな気持ちが一気に上がってきた。高いところから、平野を見下ろし、東名高速の車の流れに、制覇者のような快感を味わった。
「バスに乗る人は」と呼ばれて、英田は座り込んでいたベンチから腰を上げた。
「もう帰ろう、十分ゆっくりした」英田は陽に火照った頬に手を当てた。顔が赤くなっているだろう、日に焼けた。
太陽の位置から見ると、昼に近い、まぶしい陽を見上げながら思った。
バス運行事業の廃止に伴って、まだまだ山あり谷ありの職場ではあるが、「河津桜を山肌に、」というリーダーの発想の転換こそ、その後の町起こしに大きな夢を与えたことを学ばなければならない。
今週、市内は桜まつりの予定だったが、陽気が暖かくならず、開花が遅れている。花見の予定を立てている人はがっかりしたことだろう。英田は桜の開花を待つゆとりもなく、もくもくと仕事をしているので、残念に思うこともない。
何のかのと言いながらも、会議の日はやってきた。議長、副議長だけはセンターに馴染む人を選び、協力体制を組ませて貰った。バス廃止反対派がどんな体勢に出るか、出たときには賛成派で巻き込んで貰いたいと根回した。
英田は自然体で持っていこうと、当日の挨拶にも、
「事業計画と予算の審議を頂く会でありますが、その議事に行き着くためには、「『バス運行事業の載っている定款と規則』を削除する案件を審議していただきたい」と挨拶した。
当日重々しく開催した割には、理事会、評議員会とも、バスの案件には反対派の動きもなかった。バス運行事業に使っていた経費の内訳と今後の予算の説明はしっかり求められた。手を挙げて素早く答弁する澤事務局長は市議会に揉まれている人だけに明快。
代替事業については対象から他団体との整合性などまだまだ問題があるとクレームが付いた。しかし、それらはいずれも当然の意見で、「部分修正は、議長と相談の上で」と言うことになり、五月補正予算の時に議論することになった。
本議題の「バス運行事業廃止の案件」と「○○年度の事業と予算」は賛成多数で採択された。
一年振りにもやもやが晴れた。これでいろんな事業が出来ると夢が膨らむ。
本来は、コスト・パフォーマンスからみてマイナスが大きい、バス運行事業を、もっと前に辞めるべきであった。しかし、そこが公益法人という協議会の欠点で、誰も責任を取らない、本来、責任取るものは、すべての事業に熟知している会長であり常任理事であるはずだが、その人たちの資質で事なかれ主義に徹すれば市の行政も職員も穏便に過ごすことができる。かえって問題に嵌るリーダーよりも喜ばれる。長期にわたってリーダーを務める人は往々にして事なかれ主義の人が多い。そこがこの協議会の大きな欠陥である。
英田は今年度事業に、福祉計画を作ることを考えている。この計画で地域福祉事業の見直し、評価をする第三者機能を持たせれば、事業を客観的に見ることができる。いつまでも同じことをしているセンターにならなくて済む。先輩たちが見逃してきたバス事業のような轍は踏みたくない、と思った。
英田は、これで当面の課題は整理できるだろうと胸をなでおろした。
明日の朝、氏神さまに一升瓶を持って、成就したことを報告しよう、一年の長い闘いだった。
欅も公孫樹の木にも新芽が出ているだろう。
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越前丸岡の大名有馬氏
柿崎 一
一
あるきっかけから関心のなかったことに興味を持つようになった、ということは誰にでもある経験であろう。筆者もたまたま松尾芭蕉の『おくのほそ道』を再読中、芭蕉が日本海に沿って越前まで南下し、天竜寺と永平寺を訪ねる箇所でそういう経験をした。
文中で芭蕉は、
「丸岡天竜寺の長老、古き因あれば尋ぬ。・・・五十丁山に入て、永平寺を礼す。・・」
とあり、永平寺にも行っているんだ、とその程度の印象で、丸岡天竜寺のことなどまったく無関心であった。ところが、俳聖芭蕉が天竜寺の所在地を間違えて書き記していたということが分かり、それも丸岡が有馬氏の城下町とあったので興味を持ったのである。というのも、著名出版社刊行の俳聖の紀行文には『奥細道菅菰抄(すがこもしょう)』という注釈書が付いていて、それによると天竜寺は丸岡町ではなく松岡町にあるという。
この注釈書の著者はすぐれた芭蕉研究家として伝わる蓑(さ)笠(りゅう)庵(あん)利一という人で、俳人佐久間柳居に師事し、師の死後に『おくのほそ道』の注釈を志した。農政に通じた利一は長年に亘り幕府御用を勤め、公用の都度、芭蕉の足跡を実地に踏査していたという。晩年は坂井郡下兵庫村の代官となり越前に下向、その縁で丸岡藩主有馬氏の知遇を得ることとなった。致仕後は丸岡で隠退、その後十年を経て注釈書を完成させたと言われている。
前置きが長くなったが本題に入ろう。利一の菅菰抄の注釈では、
「丸岡は越前の国、坂井郡、有馬君の城下なり。天竜寺は禅宗にて、福井の西、松岡といふ所に有。<本文に丸岡と云は誤なり>・・・」
越前の丸岡に住み着いた利一は芭蕉の足跡を辿っていて、松岡の天竜寺にも足を運んでいたとされている。芭蕉も松岡と記すところを、うっかり丸岡と書き記してしまったようだ。もっとも松岡であれば松平家の城下町(後に福井藩に吸収されて消滅する)であり、おそらく何の興味も湧かなかったであろう。天竜寺は永平寺の末寺で、松岡藩主松平家の菩提寺ということであった。
それはさておき、有馬君の城下とあったので九州の大名であったと想い出し、遥々九州から北陸まで遣って来たのだなと、国替えの苦労に些か同情した次第である。それも有馬といえば筑後久留米の有馬だとぴんと来た。この久留米有馬氏の出自というのは、足利幕府で四職の要職にあって播磨守護家であった赤松氏の庶流で、神戸の奥の六甲山地にある有馬温泉近辺を本貫の地とし、後にその地名を名乗った一族で、六代将軍義教(よしのり)を暗殺した嫡流家が滅亡した時に生き残った家系だ。因みに年末に行われる有馬記念は、競馬の発展や大衆化に尽力した有馬家の殿様の功績を称えて命名されたもの。
勿論、利一の注釈書では有馬君とだけあるので、外様ながら二十一万石の大名の久留米の有馬家と考えるのは極自然で、その分家が移ってきたと思ったのだが、実は有馬氏というのはもう一つある。キリシタン大名であった九州は島原の有馬氏というのがそれで、丸岡の有馬と言うのも島原から移ってきた有馬氏の末裔であった。それにしても、島原・天草の乱の起こった頃は、キリシタン大名にとって生き残るのも難しい時代であった。その荒波に揉まれ滅亡したと思い込んでいたが、どっこい生き残り、越前丸岡の城主となっていたのは意外だが、丸岡に辿り着くまでの道程は険しかった。
その足跡を辿ると鎌倉時代に肥前国御家人として、いくつかの小地頭職を得ていたのが島原半島に根を張るきっかけとなった。室町時代には肥前地方にしっかりと根を降ろし、室町後期に晴(はる)純(ずみ)という当主が誕生すると、島原半島一帯を支配下に治め、貿易で利益を上げ有馬家は最盛期を迎える。中央でも認められ、十二代将軍の義晴から「晴」の一字を頂戴するとともに修理大夫に任ぜられた。勢力拡大を図る晴純は、次男の純忠(すみただ)を大村家、三男直員を千々石家に養子として送り込み、肥前南部の支配確立に手を打っていった。
だが、晴純が退き嫡男義貞が家督を継承した頃から、肥前を巡る情勢に大きな変化が起ってくる。豊後の大友宗麟や、佐賀を本拠とする龍造寺隆信らの圧迫や被官の離反もあって、義貞は島原半島の一角の高来(たかき)一郡を治める小勢力に後退してしまった。この義貞の後を継いだのがキリシタン大名として世に知られた子の晴信である。晴信の家督承継当時、大友氏を蹴散らし瞬く間に北部九州を席巻し、島津氏と肩を並べるまでに勢力を拡大しつつあった龍造寺隆信の最盛期で、その隆信が軍勢を率いて度々島原へ侵攻してきた。晴信は侵入を跳ね返そうとしたが敵の圧力に苦戦の連続で、これをキリスト教布教の好機と見たイエズス会のアレシャンドロ・ヴァリニャーノ神父が手を差し伸べ、鉛・硝石などの軍事物資を提供し、晴信はその火力によって危機を脱することが出来た。余程嬉しかったのか、晴信は恩義に報いようとキリシタンとなったとさえ言われている。
評判通り鉄砲の威力は凄まじく、龍造寺の再三の攻撃を凌ぎ切り、遂に島津と連合して隆信を敗死させ危機を脱した。龍造寺の脅威から解放され、島原半島での優位を確立しつつあった晴信は、ヴァリニャーノの企画・発案になるキリスト教世界への使節派遣に賛同し、同じくキリシタンの叔父大村純忠や大友宗麟の協力の許、セミナリオで学ぶ四人の少年を遣欧使節として長崎から送り出した。
使節出発の四か月後にキリシタンに好意的であった信長が明智光秀の謀反に倒れ、光秀を討ち主君の仇を晴らした秀吉が後継者最右翼に躍り出る。後釜に座った秀吉が信長の政策を継承したことも幸いし、キリシタン布教は著しく進展し、晴信らのキリシタン大名もイエズス会からの軍事物資の支援を受け、武力を背景に近隣諸国へ圧力を加え、国力の増大を図っていった。すべてが順調に運んでいるかに見えたが、島津征伐を成し遂げ、名実ともに天下を握った秀吉が突如政策を変更し、バテレン追放令を発令したことで状況は大きく変わった。外国との貿易によって多大の利益が齎されることは秀吉も分かっていたので、いままで通り貿易の自由は認めていたが、それ以降キリシタンに対する風当たりは厳しくなる一方で、慶長元(一五九七)年十二月には長崎の西坂で神父を含む二十六人が殉教し、秀吉の死まで迫害は続く。
太閤死去後、天下を握った徳川家康は従前の禁教政策を踏襲しつつも、強硬な対応は採らず様子見の状況を堅持していた。家康もまた貿易が齎す利益の誘惑には勝てず、それが外国との通商によるものであることを知っていた。キリシタンの布教という不利益も承知の上で黙認し、晴信と従兄弟にあたる大村純忠の子喜前(よろあき)の信仰を許していた。
だが、キリシタンたちの平穏も長くは続かなかった。その原因を作ったのが晴信自身であったのは皮肉というしかないが、結局は為政者の御都合主義に振り舞わされただけのことである。家康が政権固めの目処がつくまでは我慢すると自分自身に言い聞かせ、キリシタン信仰も布教も許していたのを、晴信は家康の真意を見抜けず、調子に乗って墓穴を掘ってしまった。天命と言ってしまえばそれまでだが、それにしても脇が甘すぎた。
当時、生糸貿易はポルトガル商人の独壇場で、商売も彼らの思惑通りに進行していて、日本側の反発も募っていた。そのような状況下、有馬氏派遣の朱印船がマカオ寄港中に、その乗組員がポルトガル人に殺されるという事件が起こる。報復の機会を窺っていた晴信は、事件の責任者が長崎に来航したポルトガル商船に乗っていることを突き止め、家康の了解を取り付け商船を撃沈した。家康もポルトガルによる生糸の独占をオランダ船とスペイン船で補充できると踏んで、晴信に了解を与えていたのである。晴信が家康からお褒めの言葉を頂戴したのは言うまでもなかったが、彼は言葉だけでは満足できなかった。それを家康の側近本多正純の家臣岡本大八に付け込まれてしまう。
過って長崎奉行の配下であった大八は、幕府要路にも顔が利き且つ情報通でもあったから、家康が鍋島領となっている有馬旧領を与える意向と持ち掛ければ、信じてしまうのは無理からぬものがあった。悲願でもある旧領回復が叶うと喜んだ晴信が運動資金を出したのは言うまでもない。その上、大八は偽造した家康の朱印状まで与え、言葉巧みにその場その場を取り繕った。彼がキリシタンという心安さもあったであろうが、騙されているとも気付かず晴信は履行されるのを心待ちにしていた。ところが、何時まで経っても遣って来ぬ朗報に業を煮やした晴信が、大八の主人本多正純に催促したことでこの一件は明るみにでた。二人は駿府で対決させられ、大八は嘘がばれて火炙りの刑となり、晴信も家康の信頼厚い長崎奉行長谷川藤広暗殺の容疑を弁明できず、所領没収の上改易となり、甲斐に流され死を賜った。晴信が藤広を殺そうとしていたという大八の告発に、晴信自身が返答できなかったのが致命傷となった。確かに、晴信と藤広との間には貿易に関わるトラブルがあったようだが、藤広の妹が家康の愛妾であったのも不運であった。
幕藩体制の根幹たる所領に関わる疑獄事件で、その当事者二人がキリシタンであったことと、大八が重臣本多家の家臣であったことは家康を甚く刺激した。家臣の中にキリシタンがまだいるはずと疑った家康は摘発に乗り出し、原主水(もんど)他直臣十数名を改易・追放処分としたが、駿府城の奥女中にも信者がいたのを知り、その浸透力の強さに驚き、断固たる処置を講ずる必要を痛感した。これを契機として危機感を募らせる家康は、それまでの手緩さを改め、ついにキリシタン弾圧を指示した。
身から出た錆とは言え、晴信にも人を見る目がなかった。そこを海千山千の大八に付け込まれる。万事休したと諦め掛けていたが、晴信の打っていた一手で有馬家は救われる。恭順の証として、当時十五才の嫡男直純(なおずみ)を駿府の家康の許へ人質として送っていたのである。生き残るための方便には違いなかったが、直純は家康に可愛がられ、目を掛けられていた。それもあってのことであろう、直純と家康の曾孫国姫との縁組が決まった。直純には小西行長の姪でマルタという正室がいて、それを離縁してまで嫁に迎えたとあるが、マルタとの結婚は行長の敗死によって婚約段階で終り、離縁したのは家臣の娘の同名のマルタである。日本在住のイエズス会の神父の著書にもそう書いてある。いずれにしろ、この時点で直純の将来は保証され、家康も婿の取り立てを検討していた。そこへ今回の疑獄事件が発覚した。
それからの家康の動きは素早かった。てきぱきと問題を処理して行く。晴信を改易し切越腹させ、取り上げた有馬氏旧領を直純に与え帰国させ、キリシタン禁圧にあたらせることにした。それまでの緩慢な対応とは異なる家康に驚かされるが、その機会を待っていたとすれば頷けなくもない。婿の取り立てを策していたであろうから、絶好の時と判断し強行した。晴信の改易・切腹もその一連の動きの中でみれば納得がいく。キリシタンにして外様の晴信は見捨てられ、徳川家の婿となった直純は将来を約束された。
家康には国姫への思い入れがあった。信長に切腹させられた信康の孫娘で、十歳で越後福島(後の高田藩)の大名堀忠俊に輿入れさせたが、四年後忠俊が家中不行き届きの咎で改易となるや、離縁させ手許においていた。そして、再嫁先を探していた家康は恰好の相手を見つける。それが有馬直純であった。
二
駿府での出会いから縁組まで、とんとん拍子に進行していったが、順風満帆とは言えなかった。直純には試練が待ち受けていたのである。ドン・プロタシオの洗礼名を持ち、敬虔なキリシタンとなっていた晴信の子であったので、直純もドン・ミゲルという洗礼名のキリシタンとして育てられた。すでに信仰は捨てていたが、信者を改宗させる役割を担っての帰領で、キリシタン禁圧が旧領相続の条件とも言えた。
帰国後、イエズス会宣教師を領外に追放し、領内のセミナリオやコレジオを破壊、家臣たちには棄教を求めた。拒否した者は追放処分とし、抵抗する者は斬首刑や火刑とし弾圧を強めていったが、直純最大の試練は、父と後妻ジェスタとの子であるフランシスコとマテウスを殺さねばならぬことであった。腹違いとは言え、弟たちを殺すことに直純も悩んだが、果たさねばならぬ約束であり、心を鬼にして実行した。また、家臣の多くは棄教せず追放処分を望む者が多かった。これには直純も困惑し落胆を隠さなかった。
だが、有馬家の事情などお構えなしに、幕府のキリシタン弾圧は強化の一途を辿って行く。流れに乗れず焦燥を募らせ思い悩む夫に、国姫も救いの手を差し伸べざるを得なくなり、父祖の地島原を捨てることを進言した。幕府のキリシタン禁教令がさらに厳しさを加えることを、幕府から漏れてくる情報で知っていたからである。幕府要路に手を回し、日向延岡藩主の転封の情報を得ていたことも後押ししていた。
直純自身、父祖の地を捨てることに逡巡はあったが、個人の感情を優先する状況下ではなく、国姫の説得を了解し国替えに応じることにした。棄教できぬ家臣は延岡への転封を拒否し島原に残ったが、割り切った直純に迷いはなかった。信仰を捨てきれぬ家臣を連れて延岡に移っても、彼らが再び信仰に目覚めぬと言う保証はない。それよりは新天地で新たに家臣、それもキリシタンでない家臣を雇うのが無難、という結論になった。
それからの島原は果たしてどのように推移していったか。直純の延岡移封後、関ヶ原での働きを認められた松倉重政が大和五条から入国するが、重政は五条からほとんどの家臣を引き連れて島原に遣って来た。さらに入国早々、島原城という十万石の大名が入る規模の城を領民に負担を強いて完成させた。この重政は出世欲旺盛で、幕府に取り入ろうと、江戸城改築の際に四万三千石ながら十万石の軍役を勤めようと申し出るような人物であった。これらもすべて領民の負担となって圧し掛かってきた。
一方、直純が延岡に移った時島原に残った旧臣たちは、新領主松倉氏からすべての権限を取り上げられ、農民となって家族を養わねば生きて行けぬ境遇に陥った。それでも義貞・晴信の二代に亘り敬虔なキリシタンの領主であったから、その時代に根付いた信仰は旧臣や領民にしっかりと受け継がれてきた。その上、直純も禁圧に徹底さを欠いていた。
しかし、松倉家の入国後は以前とは事情が違った。松倉には何の思い入れもなく、ただ年貢取り立ての対象の領民としか映っていない。幕府の禁教政策の変化とともに、信徒への弾圧は顕著となっていく。税の取り立ても厳しくなり、旱魃や天候不順で収穫が落ち込むと一気に不穏な情勢となった。キリシタンへの弾圧は激しさを加え、改宗させようと拷問や見せしめの処刑が繰り返されるようになった。状況は隣国肥後天草でも変わりはなかった。有馬同様、敬虔なキリシタン大名であった小西行長が、関ヶ原の合戦で敗れ死罪となった後に、唐津八万三千石の大名寺沢広高が天草四万二千石を拝領し入国してきた。寺沢も幕府の指示が厳しくなるにつれ、信徒への弾圧を強めていった。
この天草と島原半島の間には島原湾と天草灘が横たわるが、半島南端の口之津から天草の鬼池まで僅か五キロほどしかない。そして、以前からキリシタン信仰という共通点を持った人々の行き来があった。当然、婚姻で結ばれる者もいたから、親類・縁者も多かったのである。彼らは情報を共有していたので、島原での出来事は天草の人々にも即座に知れ渡った。改宗させようと、信徒への拷問と見せしめの処刑や苛酷な年貢の取り立てに、キリシタンや領民の我慢も限界点に来ていた。その時を好機とみた、キリシタンでもある有馬家や小西家の牢人たちが、領民を率いて虐政に対し蹶起した。島原の乱の勃発である。
キリシタン蹶起の報を直純は複雑な思いで受け止めていた。転封以来、二十三年が経過していたが、島原のことを片時も忘れたことはなかったからだ。旧領主として幕府から担ぎ出された時も、何とか旧臣を助けたいと説得にあったが成功しなかった、厳しい状況を目の当たりにして、妻国姫の勧めに応じたことを素直に感謝していた。確かに、冷酷・卑劣な棄教者との汚名は蒙ったが、その代償として有馬家を存続させることは出来た。それでよかったのである。国姫とは琴瑟相和す間柄で、二男三女に恵まれていた。
有馬直純は島原の乱の三年後に世を去ったが、松倉と寺沢も虐政の咎で領地を取り上げられ、松倉は二代藩主勝家が配流先で斬罪の刑に処されたことを人伝に聞いた。寺沢も二代堅高が領地没収を苦に、乱の十年後自害、無嗣であったため改易となっている。いずれにしろ、島原の領主が有馬であったとしても、この難局を乗り切ることはできなかったに違いない。妻の進言に従った直純は命拾いをした。
その後有馬家は嫡男康純が継いだが、康の一字は家康の「康」を頂戴したもので、家康に可愛がられ幕府の覚えはよかった。だが、康純の子清純の時代に悪政に因って農民一揆が起こり、責任を問われ無城大名に格下げされ、越後糸魚川に移されてしまう。三年後、すでに元禄時代となっていたが、清純が越前丸岡へ移封され初代藩主となった。それも徳川家との縁続きを考慮されてのことであろう。また、二代藩主一準の正徳元年に外様から譜代となり、その後も若年寄や老中を勤めるなど、五万石ながら幕閣で要職に就き、幕末まで譜代として存続し明治を迎えるのだが、何百年も家を繋いできた有馬家には、生き残る智慧と運があったと言うことに尽きる。
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