『群系』 (文芸誌)ホームページ
33号 《特集》 昭和戦前・戦中の文学 その3 33号 正宗白鳥(澤田)〜坂口安吾(野口)
目 次 (文字色は本文の文字色と同じにしています)
正宗白鳥―人間通の文学
澤田繁晴
当誌「群系」の近代文学特集も、明治、大正を終え、今号においては昭和前期・中期に至り、佳境を迎えつつあるが、ここいらで近代文学を大局的に見ておくのも一興であろう。正宗白鳥が「明治大正文壇回顧」で述べている。
美術の話はさて置いて、明治文学は文学の余技といった感じがしないこともない。?外自身の創作は、世評の如く「余技」であったが、彼れは当時の周囲の作家の製作品を、文学の余技みたいに扱っていたのだ。(中略)自然主義の作品に、彼れは飽き足りなかったばかりでない。自然主義勃興期前の明治文学についても、彼れは重きを置いていなかった。(中略)「新進作家と言われる人が、遠目に女の姿を視ても気を失いそうな、極端なプラトン主義の作を出していて、自らハイネを愛読すると称していると、批評家はそれを取り上げて、あれはハイネに私淑しているといっている。いかにもハイネの詩抄には、わざと少(わか)いものに読ませるために、罪のない、無邪気な作ばかり撰(え)り抜いた小冊子もあるそうだが、彼の野合のマチルドと巴里(パリ)に客死したハイネの全集を見たらどうだ。浮気な、気の多い、人の悪い根調が全体にわたってプラトン主義と反対の熱い色情が、我らの地球の中心の火の如く、その底に潜んでいるのではないか」といったような調子だ。ハイネのみではない。バイロンでもニーチェでも、日本へ来ると弱く小さくなってしまう。(中略)新劇運動に熱中したあの時分の青年は、夢を喰って腹を満たしたつもりになり、空中楼閣(ろうかく)を描いて有頂天になっていたのだ。
第二次世界大戦後、連合国の総司令官として日本に来たマッカーサーは、日本人を「十二歳」呼ばわりしたが、この時代にも同じようなところがあったのだ。気の利いた小作家ならいなかったわけではない。しかし、大作家と言えるような人は、漱石、?外、藤村以外にいたとも思われない。?外にしてからが、人物はさておき、「舞姫」などは、そのような一連の作品以外の何物でもないであろう。
文学史に残っているような作品を無批判に有り難がるのも悪いことではあるまいが、一方で、白鳥の次のような見方を頭の片隅に取り込んでおくのも悪くはない。
独特の作者にちがいない泉鏡花の作品が私には面白くなく、それを読むことによって恍惚境に入り得なかった。幸田露伴の作品も、私にはその晩年のは多少読み応えがするのであったが、紅葉とならんで新進作家としての華やかな存在を示していた頃のは殆んど面白くなかった。その作品に示されている理想は私の心に感銘されなかった。紅葉は技巧だけ、露伴には理想があると早くから言われている。露伴の理想なんか、何ほどの事かあらん、と私は早くから思っていたが、今回顧すると、なお更そう思われる。全体、私などが学んだ日本近代の小説中の理想、社会批判などは、何ほどの事かあらんと私はいつも思っている。(中略)?外漱石藤村などのような勿体振った人々の理想、社会批判だって、有ふれた凡庸のものではなかったか。荷風の社会批判だってさしたる事ではなかった。
ここいらで私の文学遍歴を概観しておく。まず、芥川龍之介から入り、佐藤春夫、谷崎潤一郎の大正の三人を通過しながら、三島由紀夫、泉鏡花、石川淳等に至り、その間フランスの象徴主義文学等を通り、といった具合で、一般的に文学的香気の高いものと言われているものに心を奪われて来た。しかし、その一方で浪漫派文学にバカバカしさを感じるようなところもあって、拾い読み程度ではあるが、吉田健一等の大人の文学も無視できないと思うところもあった。私には二つの面があったように思う。役者の多くにあるナルシズムに付き合うことができないという一面もあったのである。年をとって病気をし、そのために一層年をとって、後者の一面が増幅して来たこともあるであろう。学者ではない我々は、「文学史」を満遍なく勉強する必要などはないのである。かつて福田恆存が若い人の小説をなぜ読まないかという理由として、「私がすでに卒業してしまったようなことが書かれているからだ」と書いていたし、吉田健一も「今日、書かれている小説の大部分は、読めないか、読まなくても損をしない代物で」と書いている。私にもそんなところがあったような気がする。そして、そうこうしているうちに、すでに過去の人と思っていた正宗白鳥にぶつかった。深沢七郎を介してである。最も白鳥らしいと思われる一文から入ることにしよう。
私などは、芸術至上主義ではないが、芸術は芸術として求むるところがあり、自我の克服のような、倫理的道徳修業なんかどうでもいいと思っている。私などは自我の小さな人間であって、従って自分の書いたものは甚だしくいじけていると思っている。それで自我の克服どころではない。嘘にでも自我をのさばらせて、我心の行衛を見ようと志すようになっても、内容は甚だ希薄であることを免れなかった(漱石の作品にしても小廉曲謹の士の作品と云った感じがする)
このような感じ方をするのは、心強いことに私一人ではないようである。大嶋仁は述べている。
本当の批評というものは、どんな批評をも擁護しようとせず、どんなイデオロギーにも取りつかれない、どんな物事にも平気で「否」と言える人のことである。その意味で、いかなる幻想をも拒否する白鳥は、批評家中の批評家である。そもそもが共同幻想の強い日本のような国にあって、真の批評家になることは至難の業である。とすれば、白鳥のような人はまことに貴重な存在だと言わねばならない。
ここで真っ先に取り上げなければならないのは、白鳥と小林秀雄の間で交わされた「思想と実生活」論争である。論争の取っ掛かりで、白鳥は次のように述べている。
小林氏曰く、「実生活を離れて思想はない。しかし実生活に犠牲を要求しないやうな思想は、動物の頭に宿ってゐるだけである。社会的秩序とは実生活が思想に払った犠牲に外ならぬ。……思想は実生活の不断の犠牲によって育つのである。その現実性の濃淡は、払った犠牲の深浅に比例する」云々。(文芸春秋、昭和十一年四月号所載『思想と実生活』論の結末参照)これは一通り穏当な見解である。常識を超脱し得ない我々の見解に類似している。それでこの見解に依ると、この評論家が、ト翁(トルストイ??筆者注)の家出は、人生に対する抽象的煩悶に燃えてゐたための所行で、山の神を怖れたためといふやうな、俗人的現実の問題に依るのではなかったと放言し、実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想といふものに何の力があるのかと力説したことが、意味ない空言になるのではあるまいか。新しい観察点に立ち、在来の凡庸な常識的の人生解釈の誤謬を暴露し、我々の考へ方に新しい力を与へるやうに論法を進めるかと期待していたのに、さうでもなささうだ。(中略)
「トルストイは抽象的思想に燃えてゐたために家出したに極ってゐる。夫人のヒステリーなんか怖れて家出したという凡俗流の言葉は断然信じない」との、最初の意気込みから判断して、この論者の批評家魂は一層磨きすまされ、実生活無視、抽象的思想賛美を強調し、「この世は仮の住ひにして、永遠の住ひは天の彼方にあり」と信じてゐた中世紀人にでも類似した境地に達し、その優越的態度で文学でも政治でも見下すようになるのかと、ぼんやり期待してゐたのに、最初の家出について、明白々たる『日記』の記事をも痛快に蔑視し、異様な批評家魂をちらつかせた甲斐もなく、その態度を持続けて思考の道を進み得ないで、次第に考へ方が、昭和の現代文士らしい常識に成下ってしまったらしい。人間は現代を超越し能はざるの一例とすべきか。
正宗白鳥と小林秀雄の「思想と実生活」論争は、私には一人の人間における二つの局面の対立であるように思える。
実生活が思想の影響を受けることはある程度止むを得ざることであるとしても、自分も少しは上等な部類に属していると考えている人間にとって、思想が実生活の影響を受けるということは、我慢のできないことなのであろう。この論争に直面した若い小林秀雄(昭和一一年。小林33歳)は、手の内を明かして、次のように述べている。
思想を実生活から絶縁させようといふ様な狂気の沙汰を誰が演ずるか。結論は最初に在ったのである。
僕がこの問題で発言の機を捕えたのは、トルストイの家出の原因は、思想的煩悶にはなく、実際は細君のヒステリイにあり、そこに人生の真相を見る云々の正宗氏の文章を読んで、永年リアリズム文学によって錬へられた正宗氏の抜き難いものの見方とか考へ方とかが現れてゐると思ひ、それに反抗したい気持ちを覚えたからである。僕はその気持ちを率直に書いたのであった。(中略)
細君のヒステリイなどはどうでもいゝのだ。どうでもいゝといふ意味は、思想の方は掛替へのないものだが、ヒステリイの方は何にでも交換出来るものだといふ意味だ。彼の思想は子供の病気に凝結してもよろしいし、犬の喧嘩で生動しても差支へないのである。(中略)トルストイの思想が後世に残る為には、必ずしも細君のヒステリイを必要としなかったのだが、細君のヒステリイが名誉あるものとなる為には、亭主の掛替へのない思想が要つたのである。
この論争そのものは、昭和一一年、正宗白鳥が「実生活重視」、小林秀雄が「思想の優位性」を唱えて平行線を辿ったまま立消えになったかに思えるものであるが、約三年後、小林は「正宗白鳥の『文壇的自叙伝』」という文章において白鳥を以下のように褒め称えるといった変な展開を見せている。論争と全く無関係とも思われないが、かと言って論争の結論とも思えないようなものである。ここは白鳥に習って(?)、大人の対応をして猛獣の尻尾を踏まないことに努めた方がよいのかも知れない。
正宗氏は如上の意味での、批評の本質的な技術に通達した、文壇で殆ど唯一人の人だと僕は思ってゐる。従って氏の感想文の中味は、圧してみないと解らない。
世人は、気難かしい、皮肉な人間を正宗氏に見度がるが、さういふのは氏の批評文の見掛に惑わされた俗見に過ぎない。
圧してみれば、意外に自由な闊達な、澄んだ氏の心といふ中味が見附かるであらう。
この本には、文壇的自叙伝の他に、数篇の批評感想が集められてゐるが、やはり、この自叙伝を一番興味深く読んだ。
そして僕は、これを現代文学の一傑作と断ずる者だが、そんな事を言ふと、僕の言葉は、パラドキシカルに響くのである。
この文章において小林は、白鳥の文章を「感想文」呼ばわりしたり、一方で白鳥を褒め称えたりしているが、「僕の言葉は、パラドキシカルに響く」などと、論争の余波から完全に離れ切れていないことをにおわせたりもしている。一度小林の文章に言及しただけで、蒸し返すことをしなかった白鳥に比べて、尾を曳いているのは小林の方であるようだ。このことから推測すると、文学の神様と人間の論争において、未練がましいのは神様の方だと言えないこともない。あるいは、男性と女性の論争において未練がましいのは男性の方だとも…。
白鳥には文芸評論家という言葉よりも、文学批評家という言葉がふさわしいのではなかろうか。白鳥は、文学批評家でありながら、小説家、劇作家でもあった。しかし、自分にその才能などはないと思っていたようである。自分に対してももちろん冷徹な批評家であった。
私など文才が甚だ乏しいのだから、文壇のような社会へ仲間入りして、何か一仕事やろうというようなおおそれた事は考えもしなかった。(中略)
「芸術は人生よりも尊し。」とか「人間は何でもない。作品がすべてヾある。」とか、信念を吐露しているフローベルは、生粋の芸術至上主義者であった訳だが、私などはそんな境地に達せられそうもないし、達せんと努力する気にもなれなかった。才能のないものが芸術至上主義になったってはじまらない。
他の人に対すると同じく、自分自身に対しても情け容赦はない。白鳥を形容する言葉として私は「木で鼻をくくったような」が最もふさわしいのではないかと考えている。木で鼻をくくると、馬ではなくとも小林秀雄でさえ動きは鈍るであろう。
『独歩集』出版後の独歩は、急にえらくなり、島崎藤村と並んで、新時代の文壇の先頭に立つようになったが、その光景を見て私は感じた。「あれが新しい形の小説なら、おれでも書けぬことはない。」紅葉のような小説は書けないが、独歩のような小説なら書けぬことはないと、ひそかに意を強くしたのであった。
批評家だとて、ドン詰まりへ向けての「追い込み」だけでなく、将来へ向けての目端のきいた展望さえできたのである。
○
正宗白鳥は、「ジャーナリステックな目をもった」と形容されたりもするが、何あろう元々優秀なジャーナリストであったのである。日本には、一向に「気の利かないジャーナリスト」も少なくないが、もともと「気の利かないジャーナリスト」はジャーナリストの名にさえ値しないであろう。何でこんな風になったのであろうか。
また、内村鑑三を通してキリスト教に帰依したかに言われたりもするが、白鳥をキリスト教徒などと言っては西洋人はびっくりすることであろう。
彼(内村??筆者注)は歴史や詩歌は愛好していたが、小説は嘘を書くといってきらい、芝居のごときは極度に排斥していて、私はそういうものかと思っていたが、そう思わされたため、かえって、小説や芝居に魅惑されたのであった。禁制の木の実を食うような楽しみだ。(「小説界に君臨する尾崎紅葉」)
評論では、高山樗牛(明治四・一〜三五・一二)が群を抜いて目ざましく活躍していた。今から見て内容は大したものではなかったが、デタラメの造語沢山の漢文調が、青年読者の心に詩のように響いていた。傍若無人の筆鋒であったが、当時の文学に対する不満の感じの現われているところが、読者に共鳴を覚えさせたのであった。明治以来今日までの評論家で、彼ほどにぎやかに勢いよく働いた者はいなかったのである。そして、内容は粗雑であり、ニーチェでも日蓮でも、どれほど深く理解していたか怪しいのであったが、体裁は評論でありながら、そこには青春の詩が現われていたのだ。
(「『金色夜叉』『不如帰』の時代」)
この二つの文章を目にすると、時代の息吹を敏感にとらえることに秀でた白鳥のジャーナリストの目に納得させられることであろう。
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志賀直哉と小林多喜二
―私小説の視点から―
名 和 哲 夫
小林多喜二は生真面目で真摯であった。だからこそ志賀直哉に親愛の情を抱かせたのである。そしてさらにはそれが彼をプロレタリア文学へと進めさせたのではないだろうか。彼の小説や手紙から感じるものは生真面目さや真摯さなのである。
『蟹工船』等の代表作を持つ、プロレタリア文学作家の小林多喜二が、『小僧の神様』、『和解』、『暗夜行路』で知られる白樺派で私小説作家の志賀直哉に私淑していたことはよく知られている。
多喜二は大正一〇年に小樽高等商業学校に入学後、小説を書き始め、志賀直哉に何通も真摯な手紙を書く。この頃はとくにプロレタリア文学を書いていたという訳ではなく、私小説を書き、志賀直哉に傾倒していたらしい。
「志賀直哉様
すっかりご無沙汰してしまいました。お正月のおあいさつも申し上げず申しわけございません。」
「学校の方が忙しく、近頃はどっちの方にもご無沙汰してばかり居ます。」
「私が如きものが読後感を書くなんて、僭越の限りですが、貴方の作品の最も熱心な読者の一人の言葉として、お聞き流し下さい。」(大正十三年一月)
しかしながら、その後すぐに労働運動に目覚め、三・一五事件に題材を取った『一九二八年三月十五日』や博愛丸の虐待事件からくる『蟹工船』を相次いで発表し、それがもとで勤め先の北海道拓殖銀行を解雇される。
次いで多喜二は治安維持法で起訴され、逮捕されるが、収監先の豊多摩刑務所から志賀直哉あてに手紙を書いている。
「長い、長い間のご無沙汰の、その最初のお便りを、刑務所から差上げることになってしまいました。私が此処へ来るようになったことに就いては、申上げることができないことになっています。然しそれは大体の見当がつくことでしかありません。」
「私は今迄五つ六つの作品を書いてきました。多分、貴方は御覧になっていまいと思われますが、それはその時々に於ては、私の全力をつくして書き上げたものであるにも不拘、いずれも粗雑な、古ぼけた、薄っぺらなものでしかなかったと考えています。」
「私は昨年の十一月、小樽の銀行をやめました。(やめさせられたのです。)そして、それからの短い一年は、然し、私の過去のどの十ヵ年にもまして、私にとって大きな意味をもったものであると考えています。」
「私が此処を出るようになったら、必ず一度お訪ねしたいと思い楽しみにして居ります。」(昭和五年十二月)
多喜二のこの二つの手紙の間に起こったことと言えば、労働運動への覚醒と言えば簡単だが、文学的には次のようなことも言えるのではないだろうか。
昭和元年一〇月の日記にはこうある。
「フト、これで何度目か、読みかえして見た。外国作家あたりとはまるッきり異なったアッサリした、それでいてピタリ来るものだ。何度読んでもいい。然し、俺は(書いている自身だ)断然、いいかい断然だよ! 志賀のカテゴリーのうちから、出ることだ。俺が志賀らしく書けば、あくまで志賀より出れないんだ。ところが、俺は志賀以上、ストリンド以上、ドスト以上になろうと思う。その俺が一志賀の下にいることは断然、もちろん断然! のがれなければならない」
つまり、多喜二は、志賀直哉に傾倒していたが、志賀を模倣するだけでは志賀以上になれないことから、新たなものを求めていたのではないか。「志賀のカテゴリーのうちから、出ることだ」というのは、最終的には、当時の多喜二の境遇や社会情勢のためもあろうが、プロレタリア文学へと向かうことだったのではないだろうか。
松澤信祐は次の事を指摘している。
「多喜二の初期習作は、ほとんど志賀の作品の模倣といってよいほどである。
題名、文章の段落や構成、リズム、文末の「た」「る」止め、普通の作家なら見落としてしまう些細な事を的確に描写するリアリズムなど、挙げればきりがない。」
(「多喜二と志賀直哉、芥川龍之介」『国文学解釈と鑑賞別冊・「文学としての小林多喜二」』)
志賀を模倣しつつも、結局志賀から脱却しようとしていたのである。ここにも多喜二の生真面目さが窺える。
では、一方、志賀直哉は多喜二をどのように思っていたのであろう。
「手紙大変遅れました。
君の小説、「オルグ」「蟹工船」最近の小品、「三・一・五」という順で拝見しました。
「オルグ」は私はそれ程に感心しませんでした。「蟹工船」が中で一番念入ってよく書けていると思い、描写の生々と新しい点感心しました。
「三・一五」は一つの事件の色々な人の場合をよく集めよく書いてあると思ひました。
私の気持から云えば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたづさはる人として止むを得ぬ事のように思はれますが、作品として不純になるが為に効果も弱くなると思ひました。大衆を教えると云ふ事が多少でも目的になっているところは芸術としては弱みになっているように思へます。」(昭和六年八月)
よく知られる志賀の「主人持ちの文学」という批判であるが、全体として好意的であると言えるだろう。
さて、昭和八年二月の志賀直哉の日記にはこうある。
「ヒル頃茶谷宅を小野と出る、歌ブキ座の新派を見る。井上、水谷の「紙芝居」よし、前夜より眠らず疲れる。福喜にて夜食 小野と別れてかへる、疲労にて ぐッすり眠る、小林多キニ捕へられ、悶死の記事あり」
「午後、若山 加納来て麻雀、夜二時頃までやる」
「小林多喜二 二月二十日(余の誕生日)に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなりアンタンたる気持になる、不図彼等の意図ものになるべしといふ気する」
さらには、志賀直哉は、二月二四日、小林多喜二の母小林セキに手紙を送っている。
「拝呈御令息御死去の趣き新聞にて承知誠に悲しく感じました。前途ある作家としても実に惜しく、又お会ひした事は一度でありますが人問として親しい感じを 持って居ります。不自然なる御死去の様子を考えアンタンたる気持になりました。御面会の折にも同君帰られぬ夜などの場合貴女様御心配の事お話しあり、その 事など憶ひ出し一層御心中察し申上げて居ります。同封のものにて御花お供へ頂きます。二月二四日。志賀直哉。小林おせき様。」
志賀直哉は「主人持ちの文学」と批判しつつも、多喜二の才能を認め、さらには彼の生真面目で真摯な態度に「一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり」、さらには「人問として親しい感じを」持っていたのである。
『党生活者』は、昭和八年に「前篇」のみが発表された未完の作品となっている。なぜならその年の二月二〇日、多喜二は築地署特高に逮捕されており、拷問によって虐殺されているからだ。
「ところで、この作品は、個人的生活と階級的生活を一致させんとする主人公「私」の姿と悲劇的な最期を遂げるに至る作者小林多喜二とを重ねてか、従来から私小説的に読まれてきた。」(「小林多喜二『党生活者』論」山中秀樹『私小説研究 第七号』)
『党生活者』以前の作品、『蟹工船』「不在地主」などは、モティーフとなる事件があり、それを小説に仕立てたものだ。例えば、「蟹工船」は、最近映画化されたが、いかにもドラマティックである。冒頭の「おい地獄さ行くんだで!」での一語で読者はその作品世界に引き込まれる事になる。逆に言うと、『蟹工船』はある意味、モティーフがある分ストーリーがおのずと存在し、大衆文学的であるとも言えるかもしれない。
さて、『党生活者』について、多喜二はこのように言っている。
「この作品で私は「カニ工船」や「工場細胞」などのような私の今迄の生き方とちがった冒険的試みをやってみました。」
「今までのプロレタリア小説の型から抜け出ようと、努力してみた作品です。今までの私の一系列の作品から見ても、私はこの作品の成果を特に注目しています。単なる失敗をおそれずに書いたものです。」
実際、『党生活者』を読んで感じるのは、生真面目な主人公の生活である。そして、笠原や伊藤といった女性の登場人物との個人的関係や母との関係に留意して筋を追う事となる。その点では嘉村礒多や現代の西村賢太と同様な私小説的な読みができる。
個人の日常の中に労働運動家としての主人公の日常が入り込んでいる訳であるから、そのまま私小説として充分成立している。
また、筆者の意見としては、人は逆境の中でこそ輝くものだと思うが、『党生活者』の主人公たちは、制約のある中で、生き生きと活動し、そのため緊張感のある魅力的な作品に仕上がっていると言えるだろう。
ただし、部分的に志賀が「主人持ちの文学」として指摘したような彼の主張が前面に出てくる部分が長く続く場面があり、それは私小説としてのスムーズな読みの妨げになっていることは否めない。
最後に私小説作家であり、心境小説の境地を開いたと言われる志賀直哉についても、書いておきたい。
少なくとも多喜二との交流の中だけでも、いわゆる社会とは無縁な、安穏ともとられがちな心境小説の世界にそのまま棲んでいたいたわけではなく、充分、社会とも向かい合っていたということは言えるのではないか。
代表作『暗夜行路』一つ取ってみても、大正十年から、昭和十二年という実に十七年間の年月を要して完成した長編小説であるが、その間に、多喜二との関係で言えば、彼が学生時代に志賀あてに手紙を書いた大正十三年から、『蟹工船』を書き、『党生活者』を書き、最後に虐待死した昭和八年までが含まれているのである。
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宮澤賢治の戦争観
―「北守将軍と三人兄弟の医者」を中心−
近藤加津
「北守(ほくしゅ)将軍と三人兄弟の医者」は三回の改稿を経て、昭和六年七月に雑誌『児童文学』に発表された。賢治晩年の作品である。大正十一年頃の初稿では、将軍の凱旋や、三人兄弟の病院の珍奇な情景そのものがテーマになっていたが、改稿を重ねるごとに主人公の北守将軍の比重が増大して、将軍の登仙譚が添えられ、ソンバーユーという人間像の造型が確立していく。
物語は六章から成り、一章は三人兄弟の医者の紹介から始まる。
*
むかしラユーといふ首都に、兄弟三人の医者がゐた。いちばん上のリンパーは、普通の人の医者だつた。弟のリンプーは、馬や羊の医者だつた。いちばん末のリンポーは、草だの木だのの医者だつた。
三人兄弟の医者は名医ではあったが、「遠くへ名前も聞えなかつた」。「ところがある日のこと、ふしぎなことが起つてきた。」と、二章へ続く。
第二章から北守将軍ソンバーユーが登場する。ラユーの人々は日の出ごろ北のほうから聞こえてくるチャルメラや太鼓の音におびえる。こわごわ覗いてみると、灰色の軍団が押し寄せてきている。北守将軍の帰還である。この物語はここから意外な展開をみせる。王の命令で迎えにきた大臣が馬から降りるように命じるが、将軍は鞍と馬にくっついてしまって降りられず、謀反と勘違いされてしまう。北守将軍は「するどい目をして、ひげは真つ白、背中はまがつた」「くしやくしや顔」という様相であり、その上、「おまけに、砂漠のまん中で、どこにも草の生えるところがなかつたために、多分それが将軍の顔を見付けて生えたのだらう。灰色した不思議なものがもう将軍の顔や手や、まるでいちめんに生えてゐた」のだ。
将軍は戦いに明け暮れて、愛馬と一体になったことが、「あの国境の砂漠の上で、三十年の昼も夜も、馬から下りるひまがなく、たうたうからだが鞍につき、そのまま鞍が馬について……」というように描かれている。北守将軍が馬にまたがりつづけた行為は、「昼も夜も」ひとつの姿勢をとりつづけて砂漠で戦いぬく戦士の姿を象徴している。
これについて王敏は次のように述べている。(『宮澤賢治 中国に翔る想い』岩波書店 二〇〇一)
戦さの悲壮感よりも、賢治が言いたかったのは、命の争奪が果てしなく繰り返される戦争の悲劇として、生き残っても心身の傷ついた人間をつくりだすということであろう。賢治が北守将軍に「体が硬直して」と言わしめた本意は、戦場の怖さを伝えたかったからではないか。硬直人間が戦さの犠牲と見なされるなら、砂漠の厳しい気候条件は戦場の残酷をわかりやすく語ったと思われる。昼は猛暑、夜になれば急激に冷え込み、この寒暖の厳しさが無防備なあらゆる生物を襲う。乾燥した気候の中で死体は風化に任され、自然にミイラ化してしまう。これも体の硬直を連想させるのである。
北守将軍が都に戻ったときの風体は異様であり、痩せつかれた老骨の印象だったろう。それに、将軍に生えていたと同じものが兵隊たちにも生えていて、
兵隊たちが、みな灰いろでぼさぼさして、なんかけむりのやうなのだ。(二、北守将軍ソンバーユー)
賢治は色彩にさまざまな意味を持たせている。灰色についても特別なイメージを持っていたと思われる。「灰いろをしたふしぎなもの」とは何を意味しているのだろう。「灰いろ」という色彩が賢治の「心象スケッチ」で使用されている主な例を挙げてみたい。
こちらには、紫色のギザギザと、かがやく灰色のねたみ合ひかな。 (『校友会会報』第三三号)
私は線路の来た方をふりかへつて見ました。そこは灰いろでたしかに、死ののはらにかはつてゐたのです。闇もさうでしたしかれくさもさうでした。
(短唱「冬のスケッチ二七」)
心象のはいいろはがねから/あけびのつるはくもにからまり (『春と修羅』「春と修羅」)
下では権現堂山が北〔斎〕筆支那の絵図を/パノラマにして展げてゐる/北はぼんやり蛋白彩のまた寒天の雲/遊園地の上の朝の電燈/ここらの野原はひどい酸性で灰いろの蘚苔類しか生えないのです (詩ノート「〔ちぢれてすがすがしい雲の朝〕」)
シグナ〔ル〕はもうまるで顔色を〔変〕へて灰色の幽霊みたいになつて言ひました。
(「シグナルとスグナルス」)
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
(『農民芸術概論綱要』「農民芸術の興隆」)
これら灰色に関する表現は、どれも決して明るくない。暗く重苦しいイメージを写している。原子朗著『新・宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍一九九九)では、「いらいらした憂鬱な心理の表現」という意味に解している。『北守将軍と三人兄弟の医者』に登場する灰色も、まったく同様の効果をだしていると思われる。王敏は、「軍隊や戦争が灰色に染められている。不気味な、憂鬱な、ときには、陰険な、こういった複合した印象を与えようとしたのである。」と述べている。
賢治が鳥同士の戦いを描いたものに「烏の北斗七星」がある。山烏が「お腹を空かして山から出てきた」のが原因であった。そこに棲み分け社会の崩壊が起こり戦争になる。明日は山烏との戦争だという夜、烏の大尉はマヂエル様と呼ぶ烏の北斗七星に祈る。その戦争は烏の艦隊が勝利するが、主人公の大尉は敵を葬り、涙をこぼしてマヂエルの星に向かって再び祈る。
あゝ、マヂエルさま、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。
(「烏の北斗七星」『注文の多い料理店』一九二一)
『注文の多い料理店』に収められたこの本の宣伝文の中で、賢治は「戦うものの内的感情です」という簡単な解説をつけている。短編ではあるが戦争に対する見方を窺うことができる重要な作品と言えよう。このほかに、賢治の戦争観を書いた作品、生前発表の断章「復活の前」がある。無差別、大量殺人を受容させられる場面である。
戦が始まる、こゝから三里の間は生物のかげを失くして進めとの命令がでた。私は剣で沼の中や便所にかくれて手を合せる老人や女をズブリズブリとさし殺し高く叫び泣きながらかけ足をする。
(同人雑誌「アザリア」第五号 一九一八)
これらの作品を通して、戦争の悲惨さ、無益さを説く賢治の反戦観が伝わってくる。因みに、賢治が盛岡高等農林学校在学中は第一次世界大戦中であった。
*
「北守将軍と三人兄弟の医者」に話を戻そう。謀反を起こしたと勘違いされたソンバーユー将軍は、このあと、三人の医者を次々と訪れ、病気を治してもらい、その結果「白髪は熊より白く輝」くようになった。高齢の将軍に威厳と風格・風貌が甦ったが、砂漠で戦い続けた三十年という歳月は戻らない。
それからおれはもう七十だ。/とても帰れまいと思つてゐたが/ありがたや敵が残らず脚気で死んだ/今年の夏はへんに湿気が多かつたでな。
(二、ソンバーユー将軍)
敵軍の敗因は脚気によるものという。実は賢治も脚気に悩まされた記録がある。一九二一年、在京中関徳弥から脚気の薬を送ってもらい、その礼状を書いている。(書簡 一九七 関徳弥あて)
日露戦争は賢治が八歳のときの一九〇四年に始まるが、このとき日本の陸軍は白米を常食していて、多くの兵士が脚気で苦しみ死亡したことは広く知られている。北守将軍の敵が脚気で全滅という構想は日露戦争時の悲劇を借り、また、「憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに」という賢治の願いは、兵器を使わずに具現化したものと推察することができる。また、この日露戦争に賢治は大きな関心を持ってみていたことも作品を通して推察できる。一九〇五年、陸戦の黒溝台は死傷者が九千人にのぼったとされる激戦の地であった。黒溝台に因んだ二作品を参考までに挙げておくことにする。
「こんな馬鹿げた戦闘があるか。/こんな馬鹿げた戦闘はあるか。」 (構想・梗概メモ「黒溝台」)
霰を避けて/葉桜の下/黒い石碑の前に遁げこむ/黒溝台の戦死者を/いろいろな燐光が出没するけれども (「霰」)
*
さて、三人兄弟の医者に病気を治してもらった将軍は、王に謁見の際「ここにいて大将の大将としてなほ忠勤に励んでくれ」と言われるが、将軍は固辞して、生まれた村へ帰ると答える。戦いはもうこりごり、富や名声といった世俗の欲はもういらない、静かに自分を見つめる時間がほしいということなのだろう。王様には自分の代わりに、戦争の傷を癒してくれた三人兄弟の医者を推薦した。あるいはまた戦争を引き起こすかもしれないという国の病《慢》((注1))の治療を期待しての推薦だったのかもしれない。将軍はソンバーユーという一人の人間に戻った。「粟をすこうし蒔いたり」して、仙人のような生活をしているうち、ソンバーユーの姿は消えてしまう。村人は「将軍さまは仙人になられた」というが、リンパー医者だけは「違うといつた。」なぜ違うと言ったのか。リンパー医者は「バーユー将軍が雲だけ食つた筈はない。おれはバーユー将軍の、からだをよくみて知つてゐる。肺と胃は同じでない。きつとどこかの林の中に、お骨があるにちがひない。」と。「なるほどさうかもしれないと思つたひともたくさんあつた。」というエンディングである。人間がなれるはずのない仙人になろうと思ったとき《慢》の心が生まれる。リンパー医者は将軍の心の中に《慢》はないとみたのではないだろうか。
歴史が書かれて以来、人間の世界には戦いがあり、軍隊があった。そして幾多の人々が戦場へと駆り出されていった。賢治の成長・活動期にファシズムの色は次第に濃くなっていき、没する一九三三年には国際連盟を脱退して、日本は戦争の道を駆け上って行く。
こうした戦争の色濃くなった時代に賢治は晩年を過ごしている。重苦しい時代背景の中で「北守将軍と三人兄弟の医者」は反戦、非戦の表現が難しくなった時代に書かれ、発表された。将軍の人生の三十年間は国家のための戦いに生きた歳月であった。将軍は戦うことに何の疑問も持たず、任務に対してただ忠実、且つ誠実であり、献身のみに務めた。遠い辺境の地で戦い疲れ、ボロボロの軍隊を率いて懐かしいラユーの都に戻ってきた将軍は、人生の最後に戦うことの愚かさを悟ったのか、悟らなかったのか。仙人になったのか、ならなかったのか。山に隠れたことはやはり厭世、厭戦ではないのかとは思われるが、賢治は将軍の最後を判然とさせないまま朦朧とした形で終わらせている。この時代にどこまで自らの主張ができたか。この朦朧の形が賢治の消極的な厭戦気分の表出であるとは推測することができる。
(注1)慢心。昭和八年九月十一日 柳原昌悦あて 書簡四八八「私のかういう失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病《慢》といふものの一支流に過つて身を加へたことに原因します。」とある。すべての過ちの元凶は《慢》であるとする賢治の思いをここに窺うことができる。賢治の作品で「貝の火」や「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」、その他に《慢》を扱ったものがある。
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横光利一・考
〜『春は馬車に乗って』から『機械』まで〜
荻野央
彼は子猫を下げるように百合の花束をさげたまま、うろうろ廊下を廻って空虚の看護婦部屋を覗いてみた。 (「花園の思想」)
小説内、いたるところに見られる横光利一的(?)なこの文章は、彼の特徴をよく物語っている。”子猫の首”(百合の花)を掴んで歩きまわる「彼」の行動は不気味に見えるし、誰もいない看護婦の待機所が空虚に彼に感じられる、というくだりは、読者の読みを少し妨げるだろう。あるいは、病妻が嫌った強い匂いのする百合の廃棄場所を探すという行動が、「空虚」にたどり着くとした表現上の工夫は、作品の読みの深みを手伝うことになるかもしれない。誰もいないことを空虚と形容されると、発病、その治療、その看護、そして回復の、一連の経過に重大な警告を発することになり、虚ろな部分が存在すると言われて、病室は死体安置室になる。するとそこに至るまでの経過は完璧なものではなく、危ういものに思われてくる。
「自己統一を欠いた感覚的断片ともいうべき新しい視点を持ち、奇矯な文学傾向に時代の新しさ」(『日本文学史』、奥野健男)を見つめた “新感覚派”は、大正十三年創刊の「文藝時代」を拠点として活動した。宣言たる『新感覚論』(大正十四年)は、作家と主人公を含む登場人物の関わり合いについて新たに光をあて、「作家と登場人物」間の対抗する、緊張ある関係を重心にして小説が「作られる」過程の論文である。「作家の認識とは何であるか」という問題が提起され論じられている。(後述)
『春は馬車に乗って』(大正十五年)
海沿いの療養地に、肺病を患う妻と看護に忙しい作家との物語である。妻はいま寝台のなかに生きていて愛する夫にいろいろと語りかけている。なじり、ひねくれ、哀訴し、恋い焦がれて言葉を投げつけるが、夫は巧みに避けながらおとなしく応じる。そんな毎日であった。
この作品は、生きていることと、やがて死ぬことが重ねられる場面が連続して、緊張感を読者に与えるものだ。肺結核の妻の看護をしながら作家は妻との生活のために、介護と売文家業に売文にも忙しい。
海浜の松が凩に鳴り始めた。庭の片隅で一叢の小さなダリアが縮んでいた。彼は妻の寝ている寝台の傍から、泉水の中の鈍い亀の姿を眺めていた。
亀が泳ぐと、水面から輝り返された明るい水影が、乾いた石の上で揺れていた。
「まァね、あなた、あの松の葉がこの頃それは綺麗に光るのよ」と妻は言った。
「お前は松の木を見ていたんだな」
「ええ」
「俺は亀を見ていたんだ」
妻は自分の命の果てることを予感しているが、それでも寝台の柵(檻)にしがみいて生に執着しているのに、夫は結婚前後七年の間に起きた不幸な出来事(妻の実家との諍い、嫁姑の確執と自分の煩悶、実母の死と妻の発病)が連続してその中に沈んでいる。松の葉の輝きに命の光陰を預ける妻に対して、生活的な亀を見る夫は、いつも私のそばにいてほしいと懇願する妻の言葉に、助からないであろう彼女の絶望を見て取り、彼は或る思想を得る。
彼は苦痛を、譬えば砂糖を舐める舌のように、あらゆる感覚の芽を光らせて吟味しながら舐め尽くしてやろうと決心した。
そうして最後に、どの味が美味かったか。―俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先ず透明で無ければ。と、彼は考えた。
透明な容器にならざるを得ない必然は、妻が死者になる必然に対応していて、受け入れざるを得ない宿命下の、或る断念と或る思想を生み出す。透きとおったフラスコとは何だろう。悲しいこととか、懐かしいこととか、ああすれば良かったとか、たくさんの悔恨など、数々の思いがひとつひとつの感情の昂ぶりになって種々の色彩を帯びるのだが、それらをすべて受け入れる透明の容器に自らを擬してしまわねばならぬと云うこの思想とは何だろう。
「彼」は事物を、それが自然や街々の景物であれ、また海や風や季節や動物や植物であれ、また<悲しみ>や<苦しみ>のような観念の苦痛であれ
すべて受容する。それらの事物が自己主張し、語りはじめるならば、それをおろおろとへり下って容認する。(中略)これが初期横光の文体、いわゆ
る新感覚の文体がはらんでいる倫理であった。
(「横光利一論」、吉本隆明、文芸誌『海』 1979)
この「へり下った姿勢」は『機械』において姿を変えて、つまり、自己意識の喪失からあらゆる対象について無限に撤退して、納得し了解するという恐るべき人間の創出という展開に現れることになろう。
どうにもならない宿命をいかにも平然と受け入れる風に見えることだろう。あるいはこうも言える。病人を自然現象のように把捉する心境、と。でも、なんと不条理なことに死を待つ人は彼の愛する妻であって、ここに絶望を、悪しき宿命を容器の中に入れて取り扱う倫理を彼は持たなければならない。この倫理がいまの彼を唯一支えているのは、とてもよく理解できる。
妻が食べたいと希望する鳥の臓物を、日に二回食べさせるため彼は町へ出かけていかねばならない。
「この曲玉のようなのは鳩の腎臓だ。この光沢ある肝臓は、これは家鴨の生肝だ。これはまるで、噛み切った一片の唇のようで、
この小さな青い卵は、これは崑崙山の翡翠のようで」
すると彼の饒舌に煽動させられた彼の妻は、最初の接吻を迫るように、華やかに床の中で食慾のために身悶えした。
彼は残酷に臓物を奪い上げると、直ぐ鍋の中へ投げこんでしまうのが常であった。妻は檻のような寝台の格子の中から、微
笑しながら絶えず湧き立つ鍋の中を眺めていた。
「お前をここから見ていると、実に不思議な獣だね」と彼はいった。
「まァ、獣だって。あたし、これでも奥さんよ」
「うむ。臓物を食べたがっている檻の中の奥さんだ。お前はいつの場合においても、どこか、ほのかに惨忍性を湛えている」
「それはあなたよ。あなたは理智的で、惨忍性を持っていて、いつでも私の傍から放れたがろうとばかり考えていらしって」
「それは檻の中の理論である」
妻は新鮮な臓物を、とりわけ自由に羽ばく鳥の臓物を求め、触れてその生々しさを実感したいのに、夫はそれを平然と鍋のなかに入れてしまう。夫の残酷な仕打ちに冷たさを覚え、自分が疎ましいのではないかと詰め寄るが、夫はお前のいうことは檻のなかの理論、すなわち檻内の円転するだけしか結論を得ない妄言にすぎないと、フラスコの自分に放り入れるのである。妻のそばにずうっと日長居られないのは売文家業に精をださないと家庭生活が、おまえの看護方策がなりたたないからもと夫は宥める。
臓物は滋養を与え、いっぽう、夫は絶望的な「受容する観念」でもって彼女をその空虚な希望において、瞬間瞬間に甦らせている。
さて、絶望的な精気と云う観念を思いながら、いよいよ夫の精神のかたちは定められていく。妻の病状は日に日に進行して一分ごとに痰が口にからみ激しい腹痛に苦しみ、ひどい咳き込みが続いている。彼女は胸をかきむしり、獣のようにして寝台のうえでのたうちまわる。尋常な精神でなくなりゆく状況にありながら、彼は端然と精神の態度を崩すことはない。精気は強く彼自身を絶望の意識において支えているのであった。妻は、死に直面する痛みに苛まれながらも夫への愛で自身を満たしているから、夫は自分と一緒に死ななくてはいけない、そうするべきだと決めこんでいる。いまや彼女は夫を傷つけまわし、この破滅的な望み(ともに死ぬこと)を達成したいと切望している。
「人の苦しんでいるときに、あなたは、あなたは、他のことを考えて」
「まァ、静まれ。いま怒鳴っちゃ」
「俺が、いま狼狽ては」
「やかましい」
彼女は彼の持っている紙をひったくると、自分の痰を 横なぐりに拭きとって彼に投げつけた。
透明な容器に日々の絶望を放り入れる夫は、口先だけで死にゆく妻を看護するだけであって、汗まみれの妻の身体を拭いて痰を取り除き、彼女が自分の胸を叩くのを抑え、すると彼女は布団を蹴り上げてからだをどたばたさせて起き上がろうとする。夫は必死に押しとどめようとする。彼は叩かれながら妻の「ざらさらした」胸をさする。この戦いのさなかに、彼はあの、絶望的な「受容する観念」に不思議に安定した解釈をこしらえるのであった。それは次のような描写で表される。
しかし彼はこの苦痛な頂天においてさえ、妻の健康な時に彼女から与えられた自分の嫉妬の苦しみよりも、むしろ数段の柔らかさがあると思った。
してみると彼は、妻の健康な肉体よりも、この腐った肺臓を持ち出した彼女の病体の方が、自分にとってはより幸福を与えられているということに気がついた。
―これは新鮮だ。俺はもうこの新鮮な解釈によりすがっているより仕方ない。
彼はこの解釈を思い出す度に、海を眺めながら、突然あはあはと大きな声で笑い出した。
この異常なバランスの良さは、夫が妻の病的な柔らか味に寄せる理解と同情からやってくるように見える。病は弱者を保護すべき存在として演出し、それから造られる夫の都合のよい理解なのであろう。そうだ、実に分かりにくい彼の均衡感は、彼自身の理論のなかでしか理解されない。でもふと思えば、いたって簡単に理論を装う瞞着にしかすぎないことがわかる。判断をいっとき停止させ、彼は眼前の病と愛妻の姿のみ、透明なフラスコに取り入れる。病死と云う現象と抗う妻の動き、ふたつの現象の連続を取り入れ、判断はずうっと後でも、死後でもよい、と言わんばかりの解釈である。ここに、横光利一の特異な”感覚”の新しさが見て取れる。
或る日夫は医師から、もう妻の寿命は長くありませんとはっきりと告知されて枕辺に座っている。
「とうとう、春がやってきた。」
「まァ、綺麗だわね。」と妻はいうと、頬笑みながら痩せ衰えた手を花の方へ差し出した。
「これは実に綺麗じゃないか。」
「どこから来たの。」
「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先に春を撒き撒きやって来たのさ。」
妻は彼から花束を受けると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として目を閉じた。
一見、和やかな終りに見えるかのような、穏やかに花の美を讃え春の到来を喜び、陶酔する妻の姿から荒廃していた夫婦間は穏やかそうである。そうかもしれない。夫のこしらえた奇怪なバランスのうえに危うい二人の関係が平和のうちに保たれて、彼女は死に、夫は生きていく未来が予想されるというものである。二人の和やかな会話は穏やかさを醸し出し、調和の到来を暗示するかのようである。
ここで、わたし(筆者)は、横光利一の文学的特異点が新感覚の理論的合理性による、人間として“文学的な不幸”を見る思いがすることを言っておく。このことに関して、批評家、吉本隆明は次のように言っている。
ある作家がじぶんの切実な、狂わんばかりにのめり込んだ、避けようとして通らざるをえなかった主題を描くのに、もっとも珍しい表現の試みをくわえ、
新流行の技法を駆使してみようかとかんがえる余裕はあるものだろうか。もっとも切実な心的な状態はもっとも無我夢中に無意識に描かれるほかな
いのではないか。 (「横光利一論」)
「無我夢中」。もう方法とも呼べぬ「それ」しかない。わたしもそう思う。この書き出しの数行は横光利一に対する吉本の率直な感想ではないか。この文章を書いた後、吉本は、横光利一の初期作品は「並の結論を受けつけないような、文体の試みと作品の内容との和解しがたい矛盾のように見える」として、そこに作家の「病的な異様なあるひとつの性格悲劇」(太字は筆者)が推しはかられると、指摘している。
吐露されない感情(言葉)が変容して小説の特異的な構成と文体に隠れてしまって、“吐露したいが吐露し得ない”、どこか悲劇的な自己矛盾と自己欺瞞がある。わたしは、まさに「するすると自然に」、或る理論的統御にこの作家は自分を従わせている様子を見る思いがする。しかもそれは作家にある倫理的な規制(「作家の心得」と小林秀雄が言う)、彼の資質や性格が操作しているということだ。夫の感情の吐露を、作家の横光利一の「先天的な描写の特異点」が阻止しており、そこに”創作の不幸”(悲劇的な矛盾)を、わたしは覚えるだけだと言っておく。[結論@] (註1)
『花園の思想』(昭和二年)
『春は…』と同じテーマを取り上げた『花園の思想』は、『春は…』に比べて素直な嬉しさとか、悲哀とか絶望が語られる文章が豊かである。
臨死の妻の、最後の夜に交わされた夫婦の会話。
「お前は疲れているらしいね。ちょっと一眠りしたらどうだ。」
「あたし、さっきあなたを呼んだの。」と妻は言った。
「ああ、あれはお前だったのか。俺はパルコオンで、へんに胸がおかしくなった。」
「あなた、あたしの身体をちょっと上へ持ち上げて、何んだか、谷の底へ、落ちていくような気がするの。」
彼は両手の上へ妻を乗せた。
「お前を抱いてやるのも久しぶりだ。そら、いいか。」
彼は枕を上へ上げてから妻を静かに枕の方へ持ち上げた。
「何んと、お前は軽い奴だろう。まるで、こりゃ花束だ。」
すると妻は、嬉しさに揺れるような微笑を浮べて彼にいった。
「あたし、あなたに抱いてもらったのね。もうこれで、あたし、安心だわ。」
いたわり合う夫婦のやりとりのなか、夫から、苦しいだろうから眠りなさいと言われて目を閉じた妻を後にして、彼はすべてなすべきことが失せてしまった心境になっており、窓から療養院の花園を眺めた。月は出ておらず暗闇のなかの花園に、彼は或るものを見たのである。
遠くの病舎のカーテンの上で、動かぬ影が萎れていた。時々花壇の花の先端が、闇の中を探る無数の青ざめた手のように揺らめいた。
動かぬ影…誰か病者のたたずんでいる人影を気にしながら彼は、「無数の青ざめた手」の揺らめきを幻覚して「妻の死を嘆く絶唱」が、あざやかに表象されているのを見て取るのだ。昼間、患者を癒した花々が漆黒の絶望の夜において虚無の手になり、夫の、あがきやもがきに満たされてしまっている心の色を狂おしく発色する。この夜の庭園の、みごとな絶望の慰安の「印章」めいた光景描写は素晴らしい。(註2)
作者の筆は己の心情に迫られ吐露を限界いっぱいに封じながら、かろうじて留まり、文学表現の限界に己を置いて、独特の美文を展開している。ここには創作の不幸は無い。
その意味で、『花園の思想』は『春は…』と好一対をなしていると言える。
***
大正末期から昭和初期の時代は、一次大戦後の景気が怪しくなり、大正九年の戦後恐慌を経験して後の停滞気味の状況に、関東大震災の一撃が加えられたという、暗澹たる曇りゆきの時代である。この変化は経済社会的な打撃のみならず、精神の変容を作家に要請するものであったであろう。文壇においてはプロレタリア文学が台頭し全盛の時代を迎え、芥川が自殺する。
『機械』を発表する一年前に、横光利一は『新感覚論』という評論を書いた。自ら拠って立つ文学論を世に問うたものだが、文壇から、いったい横光の小説は何を言っているのかさっぱり分からない、理解に苦しむなど、「悪罵」(横光)に駁論を企てたわけだが、”新感覚”に、精密に定義を下そうと躍起になって格闘している。そうして、天災と新しい文学運動に対し、「強いられた感覚から、古い自然主義の情緒纏綿たるスタイルへの反抗」(『昭和精神史』、桶谷秀昭)を抱えて、横光利一は決然と己の文学観を建て時流に対抗しながら、またひとつ駆けあがって特別な世界へ向かっていく。その先に『機械』の世界がある。
『新感覚論』について(昭和四年)
少し理屈っぽい話になるが、彼の言うところの新感覚とは…。
新感覚派の感覚的表徴とは、一言で云うと自然の外相を剥奪し、物自体に躍り込む主観の直感的触発物を云う。 (「感覚と新感覚」)
「客観的形式」から「主観的形式」(いずれも横光の造語)への革新から導かれた文だが、ようは、<形式>を現れた文章とみて、<主観的>を小説のテーマに沿って、眼前の事象に対する創作態度のこととしてみれば、往時の文学観に対置する新しさがあるのが理会できる。
目の前の雨に濡れた一輪の黄色いバラ。雨、濡れる、一つの、黄色、バラ。それらを順序良く誰にもわかるように説明して全体のストーリーの一部を為す、そのような書法を彼は採らない。雨を含む五つの語に、主観において「内省されたもの」を語に送りかえし、それら五つの語の(内省からやってくる)文学的な意趣が一つの文に(構成されて)意味を与える、という論旨であることを、わたし(筆者)は理解する。こうした算段がこれからの文学にとって大切なものになる、と横光は言っているに違いないとも思った。
新感覚は、その触発体としての客観が純粋客観のみならず、一切の形式的仮象をも含み意識一般の孰れの表象内容を含む統一体としての
主観的客観から触発された感性的認識の質料の表徴であり、してその触発された感性的質料は、感覚の場合に於けるよりも新感覚的表徴に
あってはより強く悟性活動が力学的形式をとって活動している。(同)
ここで言われていることは、横光利一の言う「主観」が認識能力を指していて、得られる文学的意趣は、悟性と感性の”総合体”(横光)に他ならない、ということである。分かりにくいが、主観は単に「斯く」わたしは思うこと、の総体に留まらない。「斯く」思う力により文学的意趣は生みだされる。その場合、己の悟性が力強く在らねばならないのである。主概念として「躍り込む主観」は、眼前の薔薇の花をそのままに描写するという旧来の態度ではだめなのだ。薔薇の花を眺めて「主観が躍り込む」際に薔薇にまつわる主人公の(あるいは作家の)存在からやってくる”経験”がくっついていく。抽象的な不安その他は形を持たずとも、「主観は躍り込む」際に、それら抽象的な課題として主人公が(作家は)考えることがくっついていく。いずれも、純粋客観的事象を対象的としてとらえ、構成しなおし(自己内に取りこみ、つまり人間悟性の力を働かせてはじめて)語らなくてはいけない。ただありのままを描写するだけの書法では将来が貧しくなるから、その貧困を避けるべく作家は己の書法を絶えず革新しなくてはならないことになるだろう、という主旨になると思われる。
横光利一は、描き出す風物の全体に自分がゆきわたっていなければいけない、と言い、そのような見方、視線を作家は持たなければならないと主張するのだ。彼において「悟性」とは、人間性の集中された自己批評の謂いであり、よって旧来の文学理論と異なる”新しい感覚”が導出されると言う。
わたしが思うに、この理念にかなう「書法」はかなり特異的なものになってしまう。作家の文体に、作家の個人史や経験の総て、固有の想像力の出し方、すなわち工夫の加味される「書法」―それが旧来の自然な叙述や滑らかな文体からの逸脱とか、非文学的な(つまり文学に似合わない、薫り高くない)風変わりな言葉の採用を促しているのだ。[結論A]
「創作の不幸」とそれによる「特異的な、あたらしい書法」の登場から、傑作『機械』を生みだされた。
『機械』(昭和五年) 
代金支払いなど細君から持たされた現金を外出先で必ず落としてしまうネームプレート製造所の雇主の主人は、善良な人間で、プレートにかかわる技術の開発に余念がない。それから従業員の大男の軽部と最近勤めはじめた「私」。だが軽部は「私」をこの製造所の企業秘密を盗もうとするスパイであると疑っていて、たえず私を監視している。「私」はとうぜん不愉快な思いをするが、「私」は、すぐその誤解を当然の成りゆきの結果でもあると納得するのである。「それもそうだろうと…」と納得の方向へ舵を切るから、主人に忠実な軽部に対して悪意的な評価が一定せず二転三転することになる。主人への侮蔑が自身の悪いところと同期して侮蔑にならず、軽部への反感が軽部の主人への忠義心と同期して、すんなり彼を理解するといった、積極的な評価と消極的な評価が入れ替わり、しかし感情の起伏が欠けているから、妙な印象が残る。或る日、つまらぬ嫉妬から軽部からカルシウムの粉末を浴びせられるという事件が起きた。「私」はこの理不尽な振る舞いにこう思っている。
どうもつまらぬ人間ほど相手を怒らすことに骨を折るもので、私も軽部が怒れば怒るほど自分のつまらなさを計っているような気がして終いには
自分の感情の置場がなくなって来始め、ますます軽部にはどうして良いのか分からなくなって来た。
理不尽な暴行に対してなんとも穏便な理解ある感想だが、目の前のおかしな男に、自分の小心さを均衡させて、かえって混乱してくるという悪循環がみられる。不思議な悪循環だ。するとわたし(筆者)の疑問をすかさず「私」は解いてみせるのである。
全く私はこのときほどはっきりと自分を持てあましたことはない。まるで心は肉体と一緒にぴったりとくっついたまま存在とはよくも名付けたと思える
ほど心がただ黙々と身体の大きさに従って存在するだけなのだ。
ここに表れている「私」の納得の仕方に注目すれば、二人の諍いが予定されている作業工程に見えてくる。この工程は機械的な運行そのものである。この工程は始まりが生じて、過程から結論に至るまで淀みは無い。機械的な運行に感情とか意志はないのだから、あたかも法則にしたがう合目性が思われる。軽部の馬鹿げた、「私」への疑念と嫉妬と怒りが暴力を引き起こすのに、「私」の他人事のようなどこか「部外者的な態度」、この諍いにおいてぜんぜん当事者ではないとでもいうかのような態度は、作業工程にもくもくと仕事をしている人の姿を見ているようだ。そして争っているのである。
そして最も興味深いシーン。
市役所から大口の仕事が舞い込み、屋敷という熟練工が雇われて来た。今度は「私」が屋敷に、軽部が自分に抱いた同じ疑念を持つようになっていく。軽部が思ったと同じように、スパイをしているのではないかと不安に思っていく。屋敷が、秘密の技術情報のある暗室に勝手に入ったり、深夜に主人の妻の寝室に入るのを見て、「私」の疑惑は増すばかりだ。でも一言二言会話を交わすうちに「私」は屋敷とすっかり意気投合する。或る日のこと軽部が屋敷を抑え込みながら暴力をふるっている場面に出くわす。しかし「私」は屋敷を助けないで冷然と見つめていたが、怒る軽部が二人は共犯関係だな、と「私」に襲いかかってきた。三人の争闘になった。すると奇妙な具合で、屋敷は「私」を殴りはじめた。
「私」は屋敷に、ほんとうに暗室に入ったのかと問うた。
…君までそんなことをいうようでは軽部が私を殴るのだって当然だ、軽部に火を点けたのは君ではないのかといって笑ってのけるのだ。なるほどそういわ
れれば軽部に火を点けたのは私だと思われたって弁解の仕様もないので…
ここで使われる「そういわれればそうだ」とか「なるほど、それもそうだ」と云う接続の句で「私」はつぎつぎと考えを変え、状況の進向に並行していくのである。こうまでいたると奇怪な心理の持ち主であるとでは片づけられない。どうしてひょいと逆の理解へ心が動いていくのか。いま展開している状況に対する「私」の関わり合いが変転すると言ったが、見方を違えれば軽部といい屋敷と言い、それぞれの考えに「私」が合わせて寄り添っていて、その限りでは「私」の考えの変転なり迎合は止まらないとも言える。
反抗は従順に変わり、「私」は彼らの中に埋没して消えてしまう。つまり「私」という自己意識はほぼ失われている。つまり自分を虚しくさせる態度を「私」は採る。吉本隆明はこのような心的状態を吉本隆明は「無限に自分を解体する倫理」ある状態、「自分を低くする寛容さ」ある状態と言い、現代の自己救済の倫理であると批評した。
「私」を支配する哲学も倫理も、あくまでも自分を低くするということである。しかもこのじぶんを低くするということを、挨拶や儀礼や社会的な慣習に心
によってではなく理によって実行することである。「私」は「おのれの痛さを感じて喜ぶ人間」のひとりであり「わたしの豪さ、もしそれがあるなら、私は私の
弱さを強さと感じないことだけだ。」とかんがえる。つまり「弱さ」を逆手にとらずに無限に弱くなってゆくことができることだとかんがえる。(「横光利一論」)
虚しくあるにせよ、低くして寛容であるにせよ、相手に埋没するとは、まさに相手から無限に撤退しようとする生き様のことを示し、どこか恐ろしいものがあるのを感じる。恐ろしいほどに「寛容」(吉本)であろうと己れに与える最低限わずかな自己意識、またはその防御とでも言える。
また、読点のほとんどない文章流れが「私」の心理の流れを表象しているとすれば、それが作家の意図に沿っているとするならば、いかにも「心理的手法」(川端)は言い得て妙な発言になるだろう。まず、登場人物の行動から推測される心理表現から分かるのは、きわめて特殊な、定見のないその場その場の判断しか持たない、いつも迎合する方向に自然に曲がっていく、”恐るべき人間像”の出現である。
このような類いの人間は、平成の今の時代でも恐るべき存在だ。その表現のためには「恐るべき手法」が取られなければならない。心理変化を物理的現象のように見立ててすべてを語り尽くすという手法がそれだ。こう思ったことが、自分の何かに同調しているからすぐに修正されて別の方向へ変化していくのを語る書法が、とても革新的だ。今までにない人物を表すには今までにない書法が必要である。長い縄のような文章、転変する判断による思考がそれをよく表していると思われるし、単なる「心理的」な、で済ましてしまっては横光の労苦と挑戦が無意味になってしまう。それでは報われない。優れた方法意識の存在が重要なのだ。
「それもそうだと思って」の接続句は、この小説において書法によくマッチしている句であり、小説が「機械的な運行」に似ていくのを助ける。「この接続句の意味が分からないと全文は寝言に過ぎないと」、と指摘した小林秀雄はこのことを暗示していたのかも知れない、と思う。
作中の人物はネエムプレエト工場の骨組と合体して機械のように運動する。これはそんなに重要な事ではない。重心は作中の「私」という人物が、この
機械の運動に就いて決然たる覚悟を語っているところにある。(「横光利一」、小林秀雄)
「私」は工場の現実と言う機械の一部をみている。機械が始動してから以降の自動的な過程を表すときは「私」はその工程に従う。回転軸がベルトを動かしてロボットアームが製品を作り上げる流れは、「それもそうだと思って」の接続句が作業工程全ての潤滑的な役割を担っているから、「私」の変化、迎合が理解でき、「私」が機械の仕組みにすんなりと妥当する。この妥当性が分からないと小説全文は寝言にしかすぎない、とした小林秀雄の批評は鋭いものであった。
妥当しているとは「私」が一介の部品にしか過ぎないということを示す。機械は複雑な仕組みのうえでしか全体を見せないから、部品は一部なので全体を見ることはできない。
ふたたび小説に戻ると。
この私ひとりにとって明瞭なこともどこまでが現実として明瞭なことなのかどこでどうして計ることが出来るのであろう。それにもかかわらず私たちの間には一切
が明瞭に分かっているかのごとき見えざる機械が絶えず私たちを計っていてその計ったままにまた私たちを推し進めてくれているのである。
(中略)
私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖がじりじり私を狙っているのを感じるだけだ。誰かもう私に代わって私を審いてくれ。私が何をして来たかそんなことを
私に聞いたって私の知っていようはずがないのだから。
俯瞰するどころか自己意識の無い「私」は、ただただ機械の運行に身をゆだねるだけであって、その先に破滅が口を広げていても、仕方がない。恐るべき人間はあちらこちらへ、自己意識の欠如のまま彷徨い、虚無的に叫びをあげるという結末に至り小説は終わる。
「機械」は世人の語彙にはない言葉で書かれた倫理書だ。本屋に売っていない作家心得だ。それは兎に角、この作品から倫理の匂いをかがぬ人は楽書を
読む方がいい。事実この作から作家の心得を語る言葉を取りのけられたらこれは仕様のない楽書だ。(「横光利一」、小林秀雄)
わたし(筆者)は『機械』よりも、『春は馬車に乗って』よりも、『花園の思想』が好きだ。詩情ゆたかな、怪しげに美しい文章は、主人公たちの彷徨う感情の行方をみごとに描き出すからだけではない。文学者の「心得」として、書き出しの無垢な姿勢、あるいは習作のような無垢から溢れる「心情の吐露」の幻影を嗅ぎつけるからだ。それは作家の資性において死ぬまで失われては困る、とわたし(筆者)は願う。美しさ、醜さ、無原則な同調と裏切り、無限な理解と誤解など、自らを裏切ってはならぬ諸々の感情の顕われは、”新感覚”を通じて、「世人の語彙では表せない倫理」の不可能性に紛れて存在してもらいたい、とわたし(筆者)は望んでいる。その可能性を『花園の思想』は孕んでいるし、『機械』は別の手法で巧みに孕んでいると思うのだ。
極端な見方を採って、文学が内容(主題)と形式(構成)の二つの概念 (文体が全体を支えて) から成りたち、二つの配分割合と二つそれぞれの深化によって定められているという推論がもしも正しく的中しているのであれば、新感覚派の文学は、形式が内容に影響を与えるものだろう。続いて極端に言えば、形式が主題にとって代わる、極度に鋭敏な方法意識を持つ作家たちだと言うことになろう。
でもこれはいっときの状態として考えておかなくてはいけない。なぜなら、言語の否定性が裏づける絶えざる運動がその状態を更新するからである。感情の管理や統制は言語のその運動によって不動ではない。
初期の横光利一の文学論と作品はいまだ十分に、平成の文学界に対して十分にアクチュアルであるし、時代が横光文学を呼び返せば、もっと輝くはずだ。
常に”振りかえり、訪ずれては尋ねる”作家である。(註3)
(終り)
(註1) 「妻の死と新しい結婚を扱った短編なども、新感覚派の装飾と発想とに、横光の恩慈の愛情が邪魔されているところと生動しているところがある」(川端康成の解説、昭和二十七年)という発言があります。
また、批評家、桶谷秀昭は次のように言っています。「横光は人間生活の深さを、どういう理由かで嫌った……横光自身はけつして浅くない心情の持ち主であり、その証拠は、彼が新感覚派の新文学の旗手として文壇に登場する以前の作品にみることができる。なぜか彼はさういふ自分の素質を活かすかはりに封殺する道をあゆんだ。」(『昭和精神史』)
(註2)このあたりの事情は『寝たらぬ日記〜湘南サナトリウムの病院にて』(1926)という随筆に、詳しく書かれてあるので参照してください。
(註3)高橋英夫は「熱い地熱」(高橋)を持つ「横光利一に現代文学の世界は帰れ」と指摘。(講談社文芸文庫「機械」、解説) また吉本隆明は「横光利一を横光利一として読むというはじめての機会に、わたしたちも現在静かに佇たされている。それをどこまでの奥行きで適確になしうるかはこれからの思想と文学の命運に深くかかわっている」(河出版全集、解説、『言葉の沃野へ』収録)で指摘しています。
[引用および参考文献]
『定本 横光利一全集・第十四巻』(河出書房)、『日本文学史』(奥野健男、中公新書)、『小林秀雄全集・第一巻』(新潮社)、『横光利一論』(吉本隆明、文芸誌「海」1979/4ないしは筑摩学芸文庫『悲劇の解読』所収) 、『言葉の沃野へ』(中公文庫)、 『昭和精神史』(桶谷秀昭、文春文庫)
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梶井基次郎
―非運の蒼穹
間島康子
ほんとうは書きたくはないのだ。
十六、七で梶井基次郎の文学に出合って以来、密やかな片恋のように思いつづけてきた澄明の世界を、どのように書いたところで珠のかがやきを曇らせるだけではないのか。
伊豆の山間の大人しい村を何度か訪ねたことがある。その昔、梶井が全身に吸ったであろう辺りの大気を、私も感じてみたいと思ったからだった。そこでの彼の足跡を辿るというのではなく、ただそっと身を置きその架空めいた場所を視てみたかったのだ。今改めて、その時のことを思い起こしながら、梶井の眼のあとを多少なりともなぞりながら「蒼穹」を読んでみようと思う。
私は梶井の後を、山と渓の「勾配の地勢」である村の「一番広いとされている平地の縁」まで、つけるように歩いて行き、黙って坐ってみる。
晩春の午後だ。途中翳りを帯びた道の木々の間からは、杜鵑の鳴く声が渡ってきて時々肩の辺りに止まる。少しばかりひんやりとした木間を通って出た平地に、梶井は瘠せて骨張った背を見せて坐る。細い眼を一度閉じて、
深い息をつく。
もう何年も病んではいたが、ここにきて死というものが曖昧な塊などではなく、明確な事実として?の中に居座り、沈んでいた。学生の頃のようにその非運を、無分別な振る舞いで当り散らしてもしようがない。あの頃はあれこれ随分無謀なことをしたものだ。それ程遠い昔のことではないが、病身であることに変わりはないものの、やはり今より若い自分がいた。
午後の日は草叢の湿り気をいつの間にか蒸発させていて、腰を下ろした地面は心地よいあたたかさを伝えてくる。平静の体でここまで来たが、「光と影の移り変りは渓間にいる人に始終慌ただしい感情を与えていた」というそのことが、そのまま梶井にも射し込んでいたのは間違いない。平地の眺めに心は安らいだが、その平安に溶け込んで何もかもを忘れてしまうことは到底出来ない。常にどこかしら翳りはしのびこんでくる。
土堤に着いた時から空には巨きな雲があった。やわらかく温もった目蓋を開けてみると、その雲は動かずにそのままあった。それは梶井にはただ巨きく白いだけの雲ではなかった。「その厖大な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫漠とした悲哀」を感じさせる雲であった。
何も屈託のない若者であるなら、日のあたたかさに痴呆のように弛緩し、巨きな雲に護られてでもいるように、いつの間にかうつらうつら微睡みはじめるのではなかろうか。
梶井にとっては、平らな土地にいることで生まれる安らぎすら、それを感じれば感じるほどに「悲しいまでノスタルジック」になっていく。三十歳にも満たぬ若さで、「生」の時間を否応なしに意識せねばならないとき、存分な怒りを抑えきって郷愁に、しかも悲しいまでの郷愁に結びついていくのか。
彼に悲しさが宿りはじめる時、自然に、Lotus-eaterの住むという午後ばかりの国が想われてくる。その想像が永遠に続くものであったなら、と意識の底に湧くのだが、それを立ち昇らせることはこの束の間の平安を乱すことになる。
私は梶井の隣に坐って、その心情をおもんぱかる。芸術のためにか、美のためにか、究極のところそれは自分のためにであろうが、昇華の作用が働くことは確かだろう。死があるために強烈な野心とまがうばかりの、野心とは裏腹の意志の力が降りてくるのだろうか。梶井は落ち着いた居住まいで、むしろ悠揚とした風に見える態度で、彼方をみている。どれほどのものを呑み込んできたのだろう。熱いような冷たいような体でそこにいるのを感じる。どのような言葉をかけたらよいのか見当もつかぬが、隣から短い声を掛けたら、くっきりとした良い声で返事をしてくれそうに思う。激しさと冷徹さを同時に持ち合わせながら、他人にはそれらをどこか茫洋と思わせる風貌でくるんでいたらしいから。
梶井の三高時代の友人であった中出丑三は、昭和十七年八月五日の『京都帝国大學新聞』で次のように、梶井のことを回想している。
要するに梶井は、誰もが青年期にそうである如くに、正義と真理と最高美の憧憬者だつた。彼に於て他と異なるのわ、その度合の普通以上だつたこと。
その持続が死に至るまでだつたこと。その精神の途上に於ける彼自身の立場お非常に低い物に考えてゐたことだ。
何事においても普通以上の度合いを持っていた梶井には、やはりその持てる感覚―特に視ることに於いての―その感覚には殊更に逞しいものがあった。
梶井は村の街道に沿った土堤の上にある現在(いま)ですら、逞しい感覚で生きており、雲を眺めている。雲は梶井の内面を反映するように、茫漠とした悲哀を感じ、安逸の非運を悲しんでいるかのようであるが、梶井はどこまでも自分の感覚を研ぎ澄ますことに徹する。たとえ坐っているだけにしても、梶井の眼は生半可な凝視を許すことはない。
逞しい感覚の持ち主であった梶井は、「じつは一種の詩情を湛え乍ら科学的緻密さ」があり、「ギリ?のところまで度を合はせた顕微鏡で、対象の蕊を抉り出したやうなところ」があったという浅見淵の言葉がある。(「梶井君について」『評論』一九三五年九月号)
梶井は雲を見ていた眼を渓の方へ移す。梶井の?のなかには明らかな死があるから、どうしたってそれから逃れることはできない。ここまできて、逃れようとは毛頭思っていない。
渓の描写は、緻密ではあるが、梶井の絵画にも傾倒した画家の眼が投影されているのか、必ずしも分かり易い絵とは言えない。むしろ、詩情でもあるような、対象の蕊を強調するような描き方がなされる。
そしてその果てには一本の巨大な枯れ木をその巓に持っている、そしてそのために殊更感情を高めて見える一つの山が聳えていた。
日は毎日二つの渓を渡ってその山へ落ちてゆくのだったが、午後早い日は今やっと一つの渓を渡ったばかりで、渓と渓との間に立っ
ている山の此方側が死のような影に安らっているのが殊更目立っていた。(傍線-紙版では傍点-筆者)
実際の地形と心象の風景が綾をなすように描かれ、単なる言葉、文字の画家ではない深く詩味のある描写が表現される。しかもその表現には死が重しとなっている。正気の死が梶井の筆を支えている。
しかし、次に書かれるのは、少し前、三月の半ば頃に起きていた杉林の受精時の様子である。それと今の木々の様子を、焦点を近づけて対比させる。ほとんど静止しているような情景のなかに陰翳を見、そしてそこに過去を嵌め込み、梶井の眼は「風景のうえを遊んで」いる。遊んでいる眼は、さらに今度は「青空の透いて見えるほど淡い雲」を見つける。それは絶えず湧いてくる。動かぬ巨大な雲ではない。その動きのなかに眼は吸いこまれていく。雲は日に輝き巨大に姿を空に広げる。一方からの尽きない生成。一方では捲きあがった縁の消滅。生成と消滅の尽きない変化、繰り返しは、凝視を続けるうちに梶井の眼だけにとどまらず感情に響き、やがては身体の不穏へと導く。
病身である梶井は、もとより自意識過剰な質である。「不思議な恐怖に似た感情」は体内に不均衡を呼び、それらは一体となって梶井の存在自体を失わせるかもしれない。
梶井は負の情熱に巻きこまれていく。しかしながら、どこか一点で常に醒めている。あやうい感情に巻きこまれながらも、「ふとある不思議な現象に眼を」とめるのだ。雲の湧き出るのが、思ったよりも遠くにあることに気付く。そして、「空のなかにみえない山のようなものがあるのではないかというような不思議な気持に」捕えられる。
それはある闇夜の経験につながっていく。闇の街道にただ一軒しかない人家の燈が漏れている。その燈に突然現れた人影が、背に負った光をだんだん失いながら消えていく。それを眺めていたときの記憶が蘇る。
『何処』というもののない闇に微かな戦慄を感じた。
その闇のなかへ同じような絶望的な順序で消えて行
く私自身を想像し、云い知れぬ恐怖と情熱を覚えたのである。
そのとき梶井は悟る。空のなかにあったものは、見えない山や岬のようなものではなく、「虚無」―「白日の闇」が充ちたものだと。闇夜に消えた人の記憶は、村の土堤に坐って凝視めている空との陰画のように理解されたのである。
私には、午後の日に安らいでいるはずの梶井の表情が、途中からわずかに悲しみを帯び、顔色が白っぽくなっていくように感じられた。決して大きくはない眼であったが、その表情や顔色の変化にもかかわらず、眼の光りは
強いままだった。空に眼をやりながら、遠く覗くように眺めながら、梶井の眼の色は深く沈みながらも澄んでいくようだった。
雲を借りて陰翳を、雲を借りて非運を、雲を借りて生成と消滅を、雲を借りて虚無を、雲を借りて闇を、蒼穹に充ち満ちるものの正体を解ることの不幸を、梶井は生きている間に何としてでもつきとめ、確かめなければならなかったのだろう。
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坂口安吾・廃墟への意志
野口存彌
いにしえの都だったので、京都の街を歩くとまず眼につくのは神社と仏閣である。それに加えて、由緒ある庭園や林泉を随所に眺めることができる。名工の手になる美術品、工芸品を見る機会も多い。
坂口安吾は青春期に二度にわたって京都に滞在している。最初に訪ねたのは昭和七年春のことで、その当時、作品発表の場にしていた『青い馬』と『文科』の両誌が廃刊になり、精神的に行き詰まる状態に陥ってしまった。
安吾は昭和三年に東洋大学に在学しながらアテネ・フランセに入学している。作家になるためには文学作品を濫読するという経験が必須条件になる。安吾の場合、濫読した時期はアテネ・フランセに学んでいたあいだで、とくに読みふけったのはモリエールを始めとしたフランスの文学書だった。
当時、葛巻義敏をはじめ、アテネ・フランセに学ぶ友人たちのあいだで、同人誌を発行しようという計画が立てられた。その計画は昭和五年十一月に『言葉』の創刊となって実現した。創刊号に掲載されたのはほとんどがフランス文学の翻訳で、安吾はマリイ・シェイケビッチの「プルウストに就いてのクロッキ」を訳出している。翌昭和六年一月に第二号が発行され、安吾の最初の小説「木枯の酒倉から」が掲載された。『言葉』はその二冊だけで終刊することになり、その年の五月に『言葉』の後継誌として発行されたのが『青い馬』だった。『青い馬』は芥川龍之介の甥である葛巻義敏の紹介で、岩波書店から発行することができた。安吾は昭和六年のうちに同誌創刊号に「ふるさとに寄せる讃歌」を、第二号に「風博士」を、第三号に「黒谷村」を発表して、たちまち作家として確立する状態に到達していた。昭和七年二月にはエッセイ「FARCEに就て」を第五号に発表したが、『青い馬』はこの第五号で廃刊になった。
一方、『文科』に関しては「二十七歳」(『新潮』昭和22年3月号)に、
そのころ、春陽堂から『文科』という半職業的な同人雑誌がでた。牧野信一が親分格で、小林秀雄、嘉村磯多、河上徹太郎、中島健蔵、私などが同人で、原稿料は一枚五十銭ぐらいであったと思う。五十銭の原稿料でも、原稿料のでる雑誌などは、大いに珍しかったほど、不景気な時代であった。五冊ほどで、つぶれた。私は「竹藪の家」というのを連載した。
と記述されている。
これらふたつの雑誌が廃刊になったことは、安吾にとって多大の打撃となった。その状態を打開するために生活環境を変えたいと考え、京都を訪れてみることにした。京都には確かに東京とは異質の文化風土が存在する。河上徹太郎に京都帝国大学仏文科に在学していた大岡昇平を紹介されて、京都市左京区八瀬黒谷門前(七北数人『評伝坂口安吾 魂の事件簿』〈平成14年〉による)にアパートを見つけてもらった。そこに滞在しているあいだに成城高等学校以来の大岡昇平の友人で、京都帝国大学の独文科に学んでいた加藤英倫と昵懇になった。加藤は母がスエーデン人で、毎晩のように酒場に連れていってくれたり神戸に案内してくれたりした。そういう日々を過して一か月後に東京に戻った。
ところで、安吾が激しく恋愛感情を燃え上がらせることになる矢田津世子は加藤英倫の友人だった。たまたま加藤が上京してきた時、安吾は京橋のウヰンザアという酒場で会った。そこに矢田津世子が現れたのであるが、その際のことを「二十七歳」に、「私と英倫とほかに誰かとウヰンザアで飲んでいた。そのとき、矢田津世子が男の人と連れだってウヰンザアへやってきた。英倫が紹介した。それから二、三日後、英倫と矢田津世子が連れ立って私の家へ遊びにきた。それが私達の知り合った始まりであった」と記述している。
矢田津世子は美貌の女性である。安吾はいまの引用に記されていたような経緯で矢田津世子と知り合ったが、その時期を既刊の年譜では一様に昭和七年八月、或いは昭和七年夏と特定している。前掲の「二十七歳」に加藤英倫が上京してきたのは「多分彼の夏休みではなかったのか」という記述がみられるからである。
しかし、この説明は必ずしも正確ではないと言わなければならず、異論が提出されている。七北数人氏は『評伝坂口安吾 魂の事件簿』で、「二十七歳」に加藤英倫と矢田津世子が安吾の住まいに遊びにきた時、矢田がヴァレリー・ラルボーの小説を忘れて帰ったと記されている点に注意を向けている。「この時、矢田が持っていたラルボーの翻訳本は、おそらく堀口大学・青柳瑞穂共訳の長篇小説『仇ごころ』であろう。三二年(注、昭和七年)十月十五日、第一書房から刊行されたもので、一般に知られているかぎり、これ以前の翻訳本はない」と七北数人氏は述べている。
さらに、昭和七年には矢田津世子にあてた安吾の書簡は存在せず、矢田への最初の書簡は昭和八年一月二十三日の日付けになっているというのである。やはり昭和七年には安吾と矢田津世子が会っていたという形跡は希薄である。ふたりの出会いがあったのは、たぶん昭和七年十二月末頃から翌八年一月中旬にかけてではなかったかというのが七北数人氏の判断である。
ふたりの出会いの時期をめぐっては平成十六年に亡くなられた花田俊典も早くから問題点としてとりあげていたが、そのほかに花田俊典が重視したことがある。それは矢田津世子と知り合った時期の前後から安吾の作品に作風の変化がみられるようになったという事実である。
「安吾文学と矢田津世子・二人の出会いを中心として」(『語文研究』46号・昭和53年12月、『坂口安吾生成』〈平成17年〉収載)で、安吾が『季刊文学』第3冊(昭和7年9月)に発表した「Pierre Philosophale」から作風が変化を示すようになったと説いている。花田俊典は、
女は悧巧でさへなかつた。あらゆる欠点の魅力をのぞけば塵埃(ごみ)のやうな女だつた。二人は、行き交ふ万人の男女に心を惹かれてきたよりも、もっと希薄な恋心で、いはば獣の情慾で露骨に結び合ったのだ。
という記述を引用したうえで、「この『獣の情慾で露骨に結び合つたのだ』なぞという直截的な表現は、これ以前の彼の小説には見あたらない。以後、坂口安吾の文学は、しだいにこういった傾向をつよめ、さきの『淫者山に乗り込む」や『狼園』などをへて、一直線に『吹雪物語』に向かっていくのである」と指摘している。
先程ふれたとおり、「Pierre Philosophale」が発表された時点では、安吾はまだ矢田津世子と出会っていなかったのは確実あり、矢田津世子を知ったために作風が変化したと判断するのは妥当ではない。あとでも触れるが、これ以前に安吾には仏教哲学の修得に専念していた時期がある。情慾と葛藤するのは人間に精神があるからにほかならないが、この精神と肉体との葛藤という問題は仏教哲理の基礎にも結びついていると考えていいのかもしれない。仏教哲理を学ぶ過程で把握していたものがたまたま問題意識となって表面化し、「PierrePhilosophale」を書かせる結果になったようにも推測される。
その後、矢田津世子との出会いがあって、安吾の問題意識のなかに美貌の女性としての矢田の存在が組みこまれることになった。しかし、安吾をめぐる人間関係は矢田津世子ひとりだけに限定することはできない。矢田津世子との恋愛は必ずしも順調には進展せず、昭和九年当時、安吾は酒場を経営しているお安という女性と蒲田のアパートに同居したことがある。安吾がお安と知り合ったのは、既刊の年譜に記載されているよりさらに早くさかのぼることが考えられる。村上護氏は『聖なる無頼 坂口安吾の生涯』(昭和51年)で、「海の霧」(『文藝春秋』昭和6年9月号)に描かれている女性についてお安がモデルではないかという判断を示している。お安と知り合った時期は、当然その作品が発表される前の昭和六年夏ごろが推定される。
花田俊典が表題を挙げていた「淫者山へ乗り込む」は『作品』昭和十年一月号に、「狼園」は『文学界』に昭和十一年一月号から三月号まで掲載され、『吹雪物語』は昭和十二年七月に書き下ろし長篇小説として竹村書房より刊行された。花田俊典は触れていなかったが、当時の安吾の問題意識が凝縮して表現されている点で、とくに際立っている論考が『枯淡の風格を排す」(『作品』昭和10年5月号)である。
ここで安吾は正宗白鳥と徳田秋聲という明治初年代と十年代に生まれた、文壇のふたりの老大家の言説に徹底した批判の矢を向けている。
「枯淡の風格」とか「さび」というものを私は認めることができない。これは要するに全く逃避的な態度であって、この態度が成り立つ反面には、人間の本質が肉や慾や死生の葛藤の中にあり、人は常住この葛藤にまきこまれて悩み苦しんでいることを示している。ところが「枯淡なる風格」とか「さび」とかの人生に向う態度は、この肉や慾の葛藤をそのまま肯定し、ちっとも作為は加えずに、しかも自身はそこから傷や痛みを受けない、ということをもって至上の境地とするのである。
と述べている。安吾が批判しているのは、情欲との葛藤を肯定しているだけで、苦悩する様相がまったくみられないという点に対してである。逆に言えば苦悩を伴わない情欲との葛藤とはなになのかということにもなるが、人間に精神が存在する以上、情欲と葛藤するのは当然であるものの、ふたりの老大家に苦悩するすがたは見られない。結局、苦悩しない程度の葛藤だったということにもなる。そのようなありかたを「枯淡の風格」などと称していることに批判の矢を向けずにはいられなかった。
正宗白鳥は『中央公論』に発表した「痴人語夢」の冒頭で、国木田独歩と佐々城信子の恋愛問題を題材化した有島武郎『或る女』に言及している。有島武郎は「結婚前までは葉子の方から迫つて見たに拘らず、崇高と見えるまでに極端な潔癖だつた彼であつたのに、思ひもかけぬ貧婪な陋劣な情慾の持主で、而かもその情慾を貧弱な体質で表はさうとするのに出喰はすと」というように描写をつづけている。この部分を読んだ「痴人語夢」の主人公は、「貧婪陋劣な情慾を貧弱な体質で表はさうとする光景を目に浮べると、嘔吐しさうな気持がした。『青春の恋』と言つて、詩に唄はれたり小説に描かれたりしてゐるのを読むと、いかにも美しさうであるが、その正体は概して貧弱であり醜悪ででもあるらしい。獅子の如く豹の如き肉体を具へた『猛獣の青春の恋』は想像しても壮観である」と語っている。
それに対して安吾は「正宗氏は、いまだに救われざる肉体を持ち、しかも不当にその肉体を醜なりと卑下しながら、猛獣の性欲が壮観であるなぞという薄っぺらな逆説を弄び、もって肉体の醜が救われたかの野狐禅的悟りに綿々ととらわれている。斯様な逃避性を帯びた、架空な、そうして我々が決して避くべきでない肉体の真実の懊悩には何の拘わるところもない、ゆがめられた想像によって悟りすまし」たような姿勢を示していると批判を述べている。真に悩むべきことに悩まなければならないとするのが安吾の立場だった。ここに単に精神と肉体の葛藤という問題ばかりでなく、安吾に特徴的な合理主義精神のあらわれをみることも可能である、真に悩むべきことに悩むというのは合理的であり、真に悩むべきことに悩まないというのは合理性に反しているからである。
徳田秋聲の「旅日記」は『文藝春秋』に掲載されたというが、若い愛人のいる老作家の淡々とした生活的記録といった作品のように思われる。この作品についても安吾は次のように述べている。
いわば自分の行為を全て当然として肯定し、同様に他人のものを肯定し、もって他人にも自分の姿をそのまま肯定せしめようとする、肯定という巧みな約束を暗に強いることによって、傷や痛みを持つまいとする、揚句には内省や批判さえ、一途に若々しい未熟なものと思わしめようとする、「旅日記」の一篇の底に働く徳田氏の作家的態度というものは、これ以上の何物でもないのである。
このように安吾は正宗白鳥に対してと同じように徳田秋聲にも容赦なく批判の矢を浴びせる。自分自身に甘く、他人に向かっても甘い姿勢でしか向き合わず、内省を欠いた無神経としか言いようのない作家のありかたを告発している。
敗戦後の昭和二十三年八月発行の『作品』に掲載された「対談・伝統と反逆」で小林秀雄が「君なんか、誰も尊敬してないだろう」と尋ねている。安吾は「誰も尊敬してない」と断言している。「枯淡の風格を排す」の全文からうかがわれるのも、「誰も尊敬していない」と言う安吾の基本的な態度である。それは権威を認めないということと意味がかさなる。
また、「枯淡の風格を排す」という論考の背後に存在するのは、矢田津世子とお安というふたりの女性を対象にしての安吾自身の精神と肉体の深刻な葛藤にほかならないことが判る。「枯淡の風格を排す」の文中にふたりの女性に関して触れた記述はないものの、この論考にはそうした葛藤がもたらした苦しみが吐き出されている。
ここでこの精神と肉体との葛藤という問題に関して触れておきたいことがある。「風と光と二十の私と」(『文藝』昭和22年1月号)に、安吾の住まいに戦争から帰還した二十二歳になるふたりの青年が頻繁に訪ねてくることが記されている。彼らには野性が横溢しているのに、精神的に驚くべき節度をもっている。このふたりの青年について、「彼等には未だ本当の肉体の生活が始まっていない。彼等の精神が肉体自体に苦しめられる年齢の発展にまできていないのだろう」という指摘がある。だから、精神と肉体との葛藤などと安直に述べるのは避けなければならないのかもしれないと思う。「枯淡の風格を排す」を発表した時、安吾は三十歳だった。
お安を知っていた田村泰次郎は、「青春坂口安吾」(『小説新潮』昭和30年5月号)に次のように記している。
お安さんは、坂口よりも二つ、三つ齢上に思えた。顔色の悪い、いつも髪のほつれが、額やくび筋に垂れかかっているようなひとであった。眼が外人のようにくぼみ気味で、そのくぼんだ眼の奥に、ちらちらと絶えず燃えつづけている、青い小さな炎のような瞳があつた。背丈もそんなに高くなくて、凄艶という感じもないではなかったが、世帯くずれのような怠惰な翳がつきまとっていた。
坂口にすっかり惚れこんでいたらしく、いつも坂口のいうことをおとなしく聞いていた。陰気な感じのひとだった。そのくせ、情が深そうで、坂口は結局、その陰気さと、情の深さとにしんが疲れてしまったのではないかと思う。このままでいたら、自分まで彼女と一しょに亡んでしまうような不安に襲われたのである。
お安には別居状態の夫がいたので、その度合いだけ安吾とお安の関係は錯雑したものに化してしまう。結局、昭和十年に安吾はお安との関係に一応の結着をつけている。敗戦後になって、「いづこへ」(『新小説』昭和21年10月号)のなかでお安は対象化されることになるが、そこに「二十九の私は今の私よりももっと疲労し、陰鬱で、人生の衰亡だけを見つめていた」という記述が存在する。先程の引用で田村泰次郎が「このままでいたら、自分まで彼女と一しょに亡んでしまうような不安に襲われたのである」と記していたのは、「いづこへ」の記述を踏まえたうえでのことだったのかもしれない。
お安との問題をかかえていたとすれば、安吾と矢田津世子との関係も順調に進展しないのは当然だということになるが、矢田津世子自身も複雑な問題にとりかこまれていた。
「二十七歳」から次に引用するが、寅さんという人名は時事新報の記者だった笹本寅をさしている。また、私たちとは安吾の文学仲間のことである。
ある日、酔っ払った寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾ったのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアイビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てでポケットへもぐしこんだという。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋していることは知らないのだ。居合せたのが誰だったか忘れたが、みんな声をたてて笑った。私が、笑い得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。
そう記されている。Wとは時事新報の幹部の和田日出吉である。矢田津世子より九歳年長で、詩人逸見吉の実兄だという。ふたりは単なる恋愛関係という以上に、矢田が女性としての節操を代償にして原稿を採用してもらっているという風評があった。
京橋のウヰンザアという酒場で安吾が矢田津世子と最初に会った時、矢田はひとりの男性と連れ立っていた。その男性がほかでもなく和田日出吉なのだった。
「三十歳」(『文学界』昭和23年5月号)に、矢田津世子が安吾に向かってある男性のことを語った言葉が書かれている。
「私が女学校をでてまもないころ、私に求婚した最初の人があったんです。私が求婚に応じてあげなかったものですから、私の住む日本にいるのが堪えられないと、今は満洲に放浪し、呑んだくれているのですけど、私のことを一生に一人の女だといって、世間の常識がどうあろうとも、自分の心には、妻だと言いきっているのです。粗野で、狂暴で、テンカン持ちのように発作的な激情家で、呑んだくれですけど、その魂には澄みわたった光がこもっているのです。日本も、そして全てのものを捨てて、満洲へ、あの人のところへ、とんで行きたくなることがあります。あの方の胸には清らかな光が宿っているから」というのである。
この男性が誰なのかは具体的には述べていないが、和田日出吉は満洲の新聞社に赴任したので、ことによると和田日出吉のことを言ったのかもしれない。その男性はいま身近にいるのではなく、満洲にいるということで、安吾に向かって話しやすかったのかもしれない。
近藤富枝氏は「狼園のひと ?坂口安吾と矢田津世子」(『別冊婦人公論』昭和57年冬号)で、矢田津世子の男性関係を洗いざらい安吾に告げたのは真杉静枝だったと記している。安吾は「二十七歳」を執筆する際、真杉静枝に配慮して矢田津世子を告発した人を笹本寅に置き換えたというのである。
真杉静枝は矢田津世子の男性関係を暴露してしまった際、そればかりでなく矢田が大谷藤子と同性愛の関係にあることも安吾に告げていたにちがいない。矢田津世子はそれほど複雑な人間関係の渦中を生きた人だった。近藤富枝氏は「誄歌(るいか) ?大谷藤子と矢田津世子」(『婦人公論』昭和54年12月臨時増刊号)で、取材のためにインタビューした人のあいだでは、「矢田さんは大谷さんを嫌っていた」と述べる人が多かったという事実を指摘している。そのことに関して近藤富枝氏は「津世子の性格からおして、周囲のひとには、藤子を迷惑がる風を見せ、藤子にはその心を迎えるような言葉を述べたのにちがいないと思う」という判断を示している。さらに言えば、矢田津世子には大谷藤子との同性愛そのものを周囲の人に極力隠そうとする意志があったことも考えられる。
昭和七年末または昭和八年初頭に安吾は矢田津世子と最初に出会ってから、矢田への恋愛感情を燃やしつづけながら、互いに会わずにいた約二年間の日々がある。近藤富枝氏の「狼園のひと ?坂口安吾と矢田津世子」で、矢田津世子が文学仲間の高橋鈴子に「あんな汚いひとキライ」だと言い、「うるさく追いまわされて困っちゃう」と述べたことを紹介している。侮蔑的な発言であり、安吾と矢田津世子との関係が順調に進展しなかった事情もうかがうことができる。
安吾は「三十歳」の冒頭に自分でみずからの汚らしさを描写している。アパートで同居していたお安との関係に結着をつけ、母のいる蒲田の住まいに帰ると、その三、四日後に長いあいだ会わずにいた矢田津世子が突然訪ねてくるということがあった。その時、安吾は一週間ほど顔を剃らず、ひどく顔面が汚れていたそうである。
私は自分のヒゲズラがきらいである。汚らしく、みすぼらしいというより、なんだか、いかにも悪者らしく、不潔な魂がめだってくる。ヒゲがあると、目まで濁る。暗鬱で、邪悪だ。
と記している。それでいて、顔を剃るのが煩しく、そのままにしていた。そういう姿のまま、長い日々をはさんで矢田津世子と対面した。
矢田は安吾を睨みすくめながら、「私はあなたのお顔を見たら、一と言だけ怒鳴って、扉をしめて、すぐ立去るつもりでした。私はあなたを愛しています、と、その一と言だけ」と言った。
それに対して、安吾は「僕もあなたを愛していました。四年間、気違いのように、思いつづけていたのです。この部屋で、四年前あなたが訪ねてこられた日から気違いのようなものでした。いわばそれからあなたのことばかり思いつめていたようなものです」と答えた。四年前に訪ねてきたというのは、京橋のウヰンザアで最初に出会った直後、矢田津世子が加藤英倫とともに安吾の住まいを訪れた日をさしている。
結局、矢田津世子も安吾もあらためて互いに相手への愛を告白したことになるが、それは結ばれるための愛の告白ではなく、離別が近いことを予感したうえで発した言葉だったのかもしれない。
「三十歳」にこういう記述がみられる。
私はあの人をこの世で最も不潔な魂の不潔な肉体の人だという風に考える。そう考え、それを信じきらずにはいられなくなるのであった。
そして、その不潔な人をさらに卑しめ辱しめるために、最も高貴な人の姿を空想しようと考える。すると、それもいつしか矢田津世子につながつてくる。
この説明のなかに、安吾が苦悩しなければならなかった精神と肉体との葛藤とはどういうものだったのかが表現されているように思われる。
「風と光と二十の私と」には安吾が大正十四年、二十歳の時に、世田谷の小学校の分教場で代用教員として勤務した日々のことが語られているが、そこに本校に勤務しているひとりの女性教師が登場する。「驚くべき美しい人なのである。こんな美しい女の人はそのときまでは私は見たことがなかったので、目がさめるという美しさは実在するものだと思った。二十七の独身の人で生涯独身で暮す考えだということを人づてにきいたが、何かしっかりした情念があるのか、非常に高貴で、慎しみ深く、親切で、女先生にありがちな中性タイプと違い、女らしい人である。私はひそかに非常にあこがれを寄せたものだ」と記している。
本校と分校とはふだんはほとんど没交渉だったので、言葉を交すような機会はなかったが、それ以後数年間、安吾はこの女性教師の面影を高貴なものとして胸にだきしめていたということである。安吾はその当時、聖書を読んだが、それはこの女性教師の面影から聖母マリアを空想したからだったと付け加えている。
青年が青年らしく生きるためには、純真さや潔癖さというようないわば精神の純粋さがなくてはならぬものとして重要である。聖女のイメージはそういう精神の純粋さを支える働きをするはずである。矢田津世子と出会ってからは、安吾にとって矢田がそういう役割を担うものとなったことが推測される。不純な評判まであった矢田津世子だったが、安吾の精神はそれほどまでに聖女の存在を必要としていたと言える。
安吾についに矢田津世子との離別の時が訪れた。矢田と最後に会った日の深夜、「三十歳」で安吾自身が用いている言葉を引用すれば、「絶縁の手紙」を書いた。「私の絶縁の手紙には、私たちには肉体があってはいけないのだ。ようやくそれが分ったから、もう我々の現身はないものとして、我々は再び会わないことにしよう、という意味を、原稿紙で五枚ぐらいに書いた」ということである。「私たちには肉体があってはいけないのだ」という一行は、私たちは結ばれてはいけないという意味に解釈できる。手紙を書き終えて眠ろうとした時、涙が溢れてきたと記している。
手紙は翌日配達で差し出したが、その日は昭和十一年二月二十六日で、二・二六事件の当日であり、街には音もなく雪が降り積っていた。
しかし、聖女のイメージは作家が芸術の創出を意図した時、そのまま芸術創出を促す基盤にも転化していくように思われる。安吾は矢田津世子と離別したのを機会に、これまでの自身に区切りをつけるために長篇小説を書き上げることを決意した。言葉を換えれば、過去に決別を告げようとしたのだと思われる。そのまま東京にいるよりも、京都に赴いて執筆に専念することに決めた。
ただこの場合、長篇小説を書こうとする動機をそれだけに限定してしまうことは妥当ではない。当時、ひとつの運動のようになって長篇小説の登場を促進させようとする機運がミまっていたことに注意しなければならない。それには横光利一の活動もたぶんに影響を与えていたように受け取れる。大原祐治「坂口安吾『吹雪物語』論序説 ?ふるさとを語るために」(『日本近代文学』第62集 平成12年5月)の注記には次のような記載がみられる。
昭和十二年三月から小雑誌『長篇小説』の刊行が開始された。創刊号には長篇小説についてのアンケート結果が掲載されているが、この回答の中に安吾からのものも含まれている。「一、この運動に対する貴下の感想。二、貴下は目下長篇小説のプランをお持ちですか、お持ちでしたらその抱負を。三、どういふ形態乃至方法で長篇を発表したいとお考へですか。」といふ質問に対し、安吾の回答は「一、同感。二、三。私は文学界に「狼園」を書きましたが、長篇は雑誌に発表しつゝ書くべきものではなく、書き終つてのち発表すべく、とにかく形態としては単行本を唯一の発表方法と心得書くべしと痛感しました。ドストエフスキーの悪霊の後半にも発表しつゝ書いたが為に読者の批評にわざはひされた欠点を認められます。」というものである。
このように安吾にとっては長篇小説を書くという行為自体が作家としての自身に課せられた重要な問題にほかならないのを自覚していた。矢田津世子と離別してから一年近くが経過して、昭和十二年一月下旬に京都に向かって出発した。博文館に勤務していた隠岐和一の実家が借りている家が嵯峨にあって、とりあえず安吾はその家に落ち着かせてもらった。
安吾にとって二度目の京都滞在が始まったが、翌二月下旬には伏見区稲荷前町の計理士事務所の二階の部屋に移った。さらに近くの食堂の二階に転居している。七百四十枚に及ぶ作品が完成したのは昭和十三年五月のことである。『吹雪物語』と題された長篇小説が書き上げられたのだった。もはやそれ以上京都に滞在している必要性はないので、さっそくその原稿の束を携えて東京に戻ってきた。
『吹雪物語』は昭和十三年七月に竹村書房から刊行された。安吾の作者としての意気ごみにもかかわらず、理解できない読者の多い作品となった。『吹雪物語』の背景にあるのは、知的な思考の世界のように思われる。ファルスとして書かれた「木枯の酒蔵から」や「風博士」の最初期作品に共通する性格があるようにも感じられて、逆に「木枯の酒蔵から」や「風博士」の背景にあるのも、空間を吹き渡る風というより、やはり知的な思考の世界だったのかもしれないと思わせられてくる。『吹雪物語』には老齢の世代から若者の世代まで多様な人物が登場し、いくつもの物語の筋が交錯し、たとえば意味と無意味のようにさまざまな観念が相克する。主人公の青年も、必ずしも物語の中心にいて、物語全体を通して圧倒的な存在感を見せるというようには設定されていない。菊地薫「坂口安吾『吹雪物語』の試行 ?一五年戦争下の思考をめぐって」(『社会文学』第8号・平成4年6月)の注記には、相馬正一「戦時下の坂口安吾 ?『吹雪物語』と『イノチガケ』」(『太宰治研究』第8号・平成4年6月)から「……長篇小説の主なる登場人物の中心で、最も影の薄い存在が、ほかならぬ青木卓一なのである。作者の分身とも読みとれる卓一が、単なる狂言廻しではなく、主役の座に据えられていることの必然性がよく飲みこめない」という指摘が引用されている。前衛的な手法の作品という見方ができるにもかかわらず、壮大な失敗作とする評言のほうが目立つ結果になった。
一年四か月に及ぶ京都滞在のあいだに、時代状況は大きく変動をみせていた。昭和十二年七月七日、日中戦争が開始された。街頭では日の丸の小旗を振って戦場に出征兵士を送り出す光景が眼につき、ラジオからは戦局の拡大を伝えるニュースが流れていた。安吾は京都では昼間は机に向かって執筆に励み、夜は街に出ていくというのが生活のパターンになっていた。京都に滞在した一年四か月という月日は必ずしも短いとは言えなかったから、さまざまな見聞やあたらしい経験があった。
京都から戻って二年ほど経過して、次の長篇小説として、その京都での体験を作品化しようという構想をいだいた。それは「孤独閑談」と「古都」(『現代文学』昭和17年1月号)となって実現した。「孤独閑談」は戦争中は発表される機会はなく、敗戦後に書き下ろしのかたちで小説集に収載された。
昭和十六年十二月八日、日本はアメリカ、イギリスに対して宣戦を布告した。世界のふたつの強大国に戦いを挑むという太平洋戦争に突入した。国力に歴然とした差異のある国々との戦闘開始だった。この太平洋戦争開始という重大事態に関して、安吾自身の反応を表明した作品として採り上げられるのは「真珠」(『文藝』昭和17年6月号)である。この作品には十二月八日、特殊潜航艇に乗ってハワイの真珠湾奥深くに突入し、二度と生還することのなかった九人の海軍軍人について記述されている。これらの人たちは軍神とよばれるようになったが、安吾は作中で「軍神」という用語をいちども使っていない。一般に兵士たちは生還の可能性を信じながら戦場に赴いている。しかし、九人の海軍軍人には生還の可能性は絶無だった。
安吾が注意を注いでいるのは、彼らが深刻に苦悩したような悲壮な表情で出撃したのではなかったと伝えられた事実についてである。「生還の二字を忘れたとき、あなた方は死も忘れた。まったく、あなた方は遠足に行ってしまったのである」と述べて、この作品を閉じている。
「真珠」の発表は先程記したように昭和十七年六月であり、「真珠」に表現されているのは太平洋戦争開戦から六か月以上が経過してからの感想ということになる。
そうだとすれば、書誌のうえでは太平洋戦争開戦から最初に発表された小説作品は「古都」になる。しかし、現実には「古都」は「孤独閑談」とともに昭和十五年前後に執筆されていた。結果的に新聞に掲載された断片的な文章は別として、昭和十七年三月に『現代文学』に発表された「日本文化私観」こそ、太平洋戦争開戦後、最初に書かれた論考だったことが判明する。「日本文化私観」は安吾の全作品を通じて最重要な論考に位置づけられているが、太平洋戦争開戦という現実の事態に対して、直後の反応を表現した作品であり、そういう観点からも作品の重要度はいっそう深まる。
考えてみれば、すでに早く「孤独閑談」「古都」でかつて一年四か月にわたって滞在した京都での生活の日常的経験を描いてしまっていたために、もはや滞在中の生活的ディテールにはとらわれることなく、「日本文化私観」では伝統文化の問題と徹底的に対決する姿勢を示すことができたのである。
「日本文化私観」を採り上げる前に、「孤独閑談」と「古都」をみておきたい。これら両作に描かれているのは一般的な概念としての古都ではないので、作品内容には表題から受けるイメージとは乖離がある。
安吾は伏見稲荷の近くの食堂の二階の部屋に住んでいた期間が最も長く、一年以上をその部屋で生活したが、伏見稲荷の周辺は京都でも最も物価の安いところだったと述べている。伏見稲荷には平日でも参詣人が多く、私鉄の駅から神社までの道の両側には、参詣人相手の店が立ち並んでいた。「古都」にはその情景が次のように語られている。
特色のあるものと言えば伏見人形、それに鶏肉の料理店が大部分を占めている。ところが、この鶏肉が安いのだ。安い筈だ。半ば公然と兎の肉を売っているのだ。この参道の小料理屋では、酒一本が十五銭で、料理もそれに応じている。この辺は京都のゴミの溜りのようなものであって、新京極辺で働いている酒場の女も、気のきかない女に限ってみんなここに住んでいる。それに一陽来福を希う人生の落武者が、稲荷のまわりにしがない生計を営んで、オミクジばかり睨んでいるし、せまい参道に人の流れの絶え間がなくとも、流れの景気に浮かされている一人の人間もいないのだ。
このように安吾は京都滞在中に最も長い期間を過した街を自身で「京都のゴミの溜りのようなもの」と記している。京都では貧乏書生とでもいうような画家の卵が大勢住んでいたので、収入のない安吾も普通に生活することができたそうである。
「古都」に登場するのは主として男性である。とくに食堂経営者について詳しく述べている。食堂の二階の広間が使われていなかったので、安吾は食堂経営者にすすめて碁会所を開設させた。そこに碁を打ちに通ってくるようになった人に関しても描写されている。安吾の部屋は食堂とは別棟の二階にあったので、碁会所に大勢の客が訪れても支障はなかったと語っている。
「古都」の作品内容と対蹠的に、京都で出会った女性を採り上げたのが「孤独閑談」だった。そこに登場するのは女性といっても、具体的には食堂経営者の養女だった。まだ女学校に通っている少女であるが、素行のうえで問題を起こし、養父である食堂経営者からその少女への対応を依頼された際の経験を描いている。
この作品と「古都」に共通してみられる特徴は、知識人とよばれる人がほとんどひとりも現われないということである。すべて市中に生きている、最下層に近い庶民だった。
大井広介は安吾について「安吾と小熊」(『バカの一つおぼえ』収載・昭和32年)で、「彼は育ちのいいせいで、私が牛めしの屋台に誘っても、遠くでブラブラして待って、決してノレンをくぐらなかった。貧乏していても、気位だけは殿様」だったと述懐している。そういう貴族的に映る性格の一面があった安吾が、京都滞在中に居住環境としてあえて「京都のゴミの溜り」と形容しているような場所を選択したことになる。知性の世界を背景にして描かれた『吹雪物語』と対比して、アンバランスな落差にやはり注意がひかれる。
「孤独閑談」には家出した食堂経営者の養女の問題を解決するために奔走する安吾が、銀閣寺に立ち寄ってみたことが記されている。その際の感想を「銀閣寺は箱庭のようにくだらぬ庭で腹が立った」と述べている一行が存在する。ここに着目すれば、「孤独閑談」に「日本文化私観」が成立するうえでの起点を見出すことも可能である。「孤独閑談」は作品内容から判断して執筆当時、発表するのはほとんど不可能だったと想像される。太平洋戦争開戦という事態への反応を表明するために「日本文化私観」の執筆を決意した安吾は、一、二年前に完成していた「古都」をとりあえず『現代文学』に掲載した。そのことによって京都滞在当時の日々を思い返しながら、京都を古都として特色づけている伝統文化の実態に深く思索をめぐらし始めた。京都滞在のあいだに伝統文化に触れて直接に把握していたことがあり、それを思い起こすこともしてみた。こうして安吾が採り上げようとした伝統文化の問題に関しては、すでに早くドイツの建築学者ブルノー・タウトが『日本文化私観』(昭和11年・森携郎訳)を著わして注目を集めていた。ブルノー・タウトが日本にもきたのは昭和八年であるが、日本伝統文化を紹介する活動を開始し、桂離宮の美しさを賞賛したことによってひろく知られるに至った。安吾はあえてブルノー・タウトの著書と同題の、安吾自身の「日本文化私観」の執筆を進めた。そのような作業を通して、自分が太平洋戦争開戦という現実に直面して、時代状況にどう反応したかを明らかにせずにはいられなかった。
この論考は『『日本的』ということ」「俗悪に就いて(人間は人間を)」「家に就いて」「美について」の四章で成立している。冒頭で「僕は日本の古代文化に就いて殆ど知識を持っていない。ブルノー・タウトが絶賛する桂離宮も見たことがなく、玉泉も大雅堂も竹田も鉄斎も知らないのである。况んや泰蔵六だの竹斎師など名前すら聞いたことがなく」と述べている。これは予備知識や固定観念は一切身につけず、極端に言えば、まったくなにも知らないという位相に立脚して伝統文化に向き合おうとしたことになる。
いまの引用に挙げられている人名は江戸中期以降の南画の画家たちの名前であるが山本昌一氏は「『日本文化私観』私見」(『坂口安吾研究講座』T収載、昭和59年)で、人名に誤記かみられることを指摘している。
「冬樹社版全集『第七巻』)昭42・11)解題」で右の文中の安吾のいう「泰蔵六」が実は「秦蔵六」の誤りであることが指摘されているが、この誤り以外にも『玉泉』という人の名前も安吾は誤記しているのである。これはタウトの『日本文化私観』と対照すればすぐわかるように『玉泉』とは『玉堂』すなわち『浦上玉堂』のことを数ヶ所に誤記しているのであり、それが初出以来今日文庫本を含めた諸版にいたるまでどこの誰ともわからない『玉泉』として扱われて来ていたことになる。
と述べている。「日本文化私観」を読む際に留意しなければならない点である。大雅はもとより池大雅、竹田は田能村竹田をさしている。
それぞれの章について、とくに目立っている諸点を採り上げてみると、安吾は第一章の「『日本的』ということ」で、故郷新潟の街の古い風景が破壊されて、近代的な建築物が建つことに、悲しみよりもむしろ喜びを感じるとしている。伝統の美や日本本来の姿などよりも必要なのは便利な生活だとしている。「京都の寺や奈良の仏像が全滅しても、我々の生活は滅びない」と主張している。京都の寺や奈良の仏像が全滅するのはなにが原因なのか、ここではなんら説明されていないが、同じことがあとで繰り返して説かれていて、これは「日本文化私観」のいわば主調音的な主張と受けとめて差し支えない。
第二章の「俗悪に就いて(人間に人間を)」では、まず舞妓を批判の対象にしている。たまたま花見小路のお茶屋に案内されて、舞妓の芸を見る機会があったが、じつに馬鹿馬鹿しかったという。特別の教養を仕込まれた訳でもなく、踊りも中途半端で、清潔なエロティシズムなどはまつたく感じられなかったとする。舞妓が愛玩用につくりあげられた存在であるのは判っているが、子供としての美徳がなく、とくに羞恥心をもっていないと指摘している。「羞恥心がなければ、子供の価値はゼロだ。子供にして子供にあらざる」ものが舞妓だと断言している。
次いで、この章では、京都の各所の寺めぐりをしたことがあるが、「天龍寺も大覚寺も何か空虚な冷たさをむしろ不快に思ったばかりで、一向に記憶に残らぬ」と述べている。寺めぐりからではなく、場末の劇場に入って旅芸人の演劇を見ることから満足感を与えられている。
そういう安吾に、隠岐和一がこれまで見てまわったものとは、まったく異質の風景を見せようと計画を立ててくれた。ふたりが汽車に乗って向かったのは亀岡だった。
そこはかって明智光秀の居城があった跡で広大な面積の敷地に最近まで大本教の本部があり、多数の信者がいて、豊富な資金を集めて、豪壮な神殿や道場が建てられていた。しかし、隠岐和一に案内されて安吾か訪れた時、荒涼とした一面の廃墟がひろがっているだけだった。当局による宗教弾圧が開始されて、昭和十一年十二月、五百人の警官隊が大挙して大本教の本部を襲った。施設はことごとくダイナマイトで爆破された。教祖出口王仁三郎は治安維持法違反や不敬罪に問われて検挙された。宗教団体に対して治安維持法が適用されたのは大本教の場合が最初の例であり、大本教には邪教というレッテルがはられた。
城跡は丘に壕をめぐらし、上から下まで、空壕(からぼり)の中も、一面に、爆破した瓦が累々と崩れ重なっている茫々たる廃墟で一木一草をとどめずさまよう犬の影すらもない。周囲に板囲いをして、おまけに鉄条網のようなものを張りめぐらし、離れた所に見張所もあったが、唯このために丹波路遥々(でもないが)汽車に揺られて来たのだから、豈(あに)目的を達せずんばあるべからずと、鉄条網を乗り越えて、王仁三郎の夢の跡へ踏みこんだ。頂上に立つと、亀岡の町と、丹波の山々にかこまれた小さな平野が一望に見える。雪が烈しくなり廃虚の瓦につもりはじめていた。目星しいものは爆破の前に没収されて影をとどめず、ただ、頂上の瓦には成程金線の模様のはいった瓦があったり。酒樽ぐらいの石像の首が石段の上にころがっていたり、仁王三郎に奉仕した三十何人かの妾達がいたと思われる中腹の夥(おびただ)しい小部屋のあたりに、中庭の若干の風景が残り、そこにも、いくつかの石像が潰れていた。とにかく、こくめいの上にもこくめいに叩き潰されている。
と描写されている。
安吾は重大な光景を見たのである。そのことを「日本文化私観」に詳しくは述べていないが、重大な意味をもつものを探りあてたと言い換えることもできる。少年期に家庭からも学校からも疎外されて安吾が自分の居場所として見出したのが、果てもなくひろがる空の下、波が光る海を前にして、形あるものがなにひとつ存在しない砂の丘だった。そこが少年期の安吾にとって家庭や学校にかわる安吾自身の生存の場になったと行って差し支えなかった。「中学校をどうしても休んで海の松林でひっくりかえって空を眺めて暮さねばならなくなってから。私のふるさとの家は空と、海と、砂と、松林であった。そして吹く風であり、風の音であった」と「石の思い」(『光』昭和21年11月号)に記している。
安吾と新潟中学三年生の時、たまたま同級になった山田又一が「彫刻の名手 坂口安吾」(『甦る坂口安吾』収載・昭和61年)で述べているところによれば、二人掛けの机の隣の席が安吾のすわる席だったが、そこはいつも空席だったそうである。
昼食のあと、その頃は学校のグランドから海岸まで一軒の人家もなくて、ただ一面の砂丘が広がっているだけであったが、何時、どこで昼食をすませるのか、ぼんやりと海を眺めている生徒がいた。
私は何か不思議な生き物でも見るような、そしてまた、私にはわからない深い事情がある生徒だなあと遠くから眺めていたがある日、その心地よい初夏の風が吹き抜けてくる教室に、突然彼が入ってきたのである。そして黙って私の隣の空席に坐ったが彼はノートも教科書も持たず、全くの手ぶらであった。
それは国語科漢文の授業だったと山田又一は語っている。しばらく手持無沙汰にしていた彼が机の蓋を裏返すと、ポケットから小刀をとり出して、なにかを彫り始めた。まるで取り憑かれたような異様な熱心さで、一心不乱に彫りつづけていたそうである。
突然、教師の「次ぎ、坂口読んでみろ」という声がしたと思うと、彼はパッと私の教科書を取って立ち上つた。その場はうまく切り抜けたかどうか、ハツキリした記憶はない。しかし着席した彼は直ちに彫刻作業を再開した。そして時間の終る頃、作品は完成したと見えて、彼は両手でその蓋を持ち、顔から少し離して熱心に眺めている。私もつられて目をやると、それは「横たわる裸婦」とでも名付けたような私の目にも素晴らしい名作に見えたのは確かであった。
一学期は終り、夏休みも終って、やがて二学期が始まったが、学校で彼の姿はついに見ることはなかった。それが炳五であった。
炳五は安吾の本名であるが、安吾は新潟中学を放校になり、大正十一年九月に東京の豊山中学に転校している。いまから数年前、NHKで昭和二十四年六月六日に放送された「朝の訪問」が再放送になり、ラジオから安吾の肉声が流れた。その際、新潟中学を放校になった原因に関して、安吾自身が「先生を殴ったりして」と語るのを聴いた。
海岸の砂の丘は安吾が少年期に周囲から疎外されて自分の居場所としてやむなく見出した無機的な自然空間だった。大本教本部の広大な廃墟に立った時、少年期の海岸の砂丘での経験を想起するとともに、この廃墟がそれとも異なるあらたな意味をもち始めているのに気づかされていた。
この少年期の経験から大本教本部の廃墟に立つに至るまでの中途に、世田谷の小学校の分教場で代用教員をしていた当時の経験があった。「風と光と二十の私と」に、
私は放課後、教員室にいつまでも居残っていることが好きであった。生徒がいなくなり、外の先生も帰つたあと、私一人だけジッと物思いに耽っている。音といえば柱時計の音だけである。あの喧騒な校庭に人影も物音もなくなるというのが妙に静寂をきわだててくれ、変に空虚で、自分というものがどこかへ無くなったような放心を感じる。
という記述が存在している。子供たちの姿が消えた放課後の学校は一種の擬似廃墟とでもよぶべき状態をみせる。安吾はそういう静謐で空虚な状態を好んだ。瞑想しながら自問自答を繰り返した。「満足はいけないのか」「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」「なんのために?」「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」というように、自分で問いを発すると、自分の内側からその問いに答えようとするものがあった。安吾は一年間勤務しただけで代用教員を退職する。「『さとり』というものへのあこがれ、その求道のための厳しさに対する郷愁めくものへのあこがれ」を感じて、仏教哲学を学ぶことを決意して大正十五年に東洋大学印度哲学科に入学することに決めた。たとえ擬似廃墟であっても、その廃墟に身を置くことが生きるという営みをつづけるうえで、いかに重要な意味をもっているかが明らかになる。
「日本文化私観」で安吾は大本教本部の廃墟に関して語ったあと、廃墟とは対蹠的な景観を呈している庭園や林泉について見解を述べている。それらは「南画などに表現された独特な思想や精神を林泉の上に現実的に表現しようとしたものらしい」として、単に自然を模倣したのではなく、思想や観念を表現しようとする意図により、いわば自然を創造したのだと記している。
けれども、と安吾は言う。「茫洋たる大海の孤独さや、砂漠の孤独さ、大森林や平野の孤独さに就いて考えるとき、林泉の孤独さなどというものが、いかにもヒネくれてみたところで、タカが知れていることを思い知らざるを得ない」というのである。この記述から読みとれるのは、先ず人間のありかたとして孤独でなければならぬという信条である。普通、重視されるのは人間関係であるが、安吾はその種のことにはまったく言及していない。もう一点は大自然の雄大さに対比すれば人工の手を加えた庭園、林泉はあまりに矮少ではないのかという主張である。安吾の伝統文化に向けた批判の強さが目立っているが、さらにこうも述べている。
龍安寺の石庭がどのような深い孤独やサビを表現し、深遠な神機につうじていても構わない、石の配置が如何なる観念や思想に結びつくかも問題はないのだ。要するに、我々が涯ない海の無限なる郷愁や砂漠の大いなる落日を思い、石庭の与える感動がそれに及ばざる時には、遠慮無く石庭を黙殺すればいいのである。
このように自然を切り取り、人工の手を加えることによって成立した造型物に対しては「黙殺」しようという姿勢を示して、いっそう批判を強めている。自然の素朴さを装うとして払われた配慮自体が無用なのだとしている。茶室的な不自然な簡素さに対して、一方に人工の限りを尽くした豪着な造形物があって、「簡素なるものも豪華なるものも共に俗悪であるとすれば、俗悪を否定せんとして尚俗悪たらざるを得ぬ惨めさよりも、俗悪ならんとして俗悪である濶達自在が取柄だ」と述べている。その例として挙げたのが歴史上の人物である豊臣秀吉で、もし造形物をうみ出そうとするならば、「人工の極致、最大の豪奢」なものが望ましいと結論づけている。
そして、「日本文化私観」の主調音的な主張を、次のようにまたも繰り返している。
京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。日本の建築すら微動もしない。必要ならば、新たに造ればいいのである。バラックで、結構だ。
前に安吾が語ったのは、「京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らない」ということだったが、ここではそれらの寺がことごこく焼失してもかまわないと述べている点が注意をひく。全滅の場合はなにが原因であるのかが明らかにならないが、焼けるという場合は、その原因はたぶん空襲によることが想定される。「日本文化私観」発表の三、四か月前に太平洋戦争が開戦している。京都や奈良の寺が空襲で焼けるというのは、京都、奈良の寺だけが焼けるのではなく、その時には日本の到るところの都市が焼失して廃墟になっているはずである。ここにおいて、かつて京都滞在中に見た大本教本部の廃墟の風景が意味をもってくる。日本のあちらこちらに空襲によって廃墟と化した大空間が現出する。
それはかつて少年期に周囲から疎外されて海岸の砂丘にやむなく見出すことができた自分の居場所とは異質の性格をもつものであり、時代状況が自分の生存の場を創出してくれる働きにほかならなかった。
安吾の戦争への対応について、磯田光一は対談「坂口安吾の精神」(『ユリイカ』昭和50年12月号、対談者秋山駿)で、
『日本文化私観』が十七年(注、昭和)で、なぜあれだけ凄じい文章が検閲にひっかからなかったかということね。ゆうべ昭和一七年の綜合雑誌の目次を調べたんですが、かなり戦争讃美がファナチックになっています。しかし、よく考えて見ると、京都の寺をぶっこわして鉄橋をつくるというのは“大東亜戦争”の論理なんだ。極端に言えば「日本文化私観」は“大東亜戦争”肯定論としても読めるんです。そこのところをいままでだれも言ってない。あの戦争はただファナチックじゃなくて、堂々たる近代的戦争です。
と発言している。
大東亜戦争肯定論といえば、政治論として戦争遂行の目的は大東亜共栄圏の建設にあると主張する言説に賛成することである。「日本文化私観」で安吾は太平洋戦争開戦という時代状況を踏まえて伝統文化に対して徹底した批判を加えることができたのは、伝統文化に拮抗し得るものを内面に確立していたからである。内面的に充実した状態が現出していて、「日本文化私観」の全篇を通してその充実感や昂揚感が充溢しているという印象を与える。それは大東亜共栄圏の建設というような政治的命題に共鳴することによってもたらされたものではない。そのような政治論には安吾は関心がなかったと断定して差し支えない。開始されたばかりの戦争に日本ははたして勝つのか負けるのだろうかという点までは判断ができなかったとしても、日本が戦争によって多大の打撃を受けるに違いないことは予測していた。そうでなければ、京都や奈良の寺が焼失するというような事態に言及することはあり得ない。やはり自己の生存の場として必ず廃墟という大空間が現出するのを確信したのだと思われる。
もう一点、安吾にとっては意識下に隠れていた問題に属するかもしれないが、故郷新潟の有数の富豪で広大な農地以外に銅山、銀山まで所有していた安吾の家が、祖父の投機失敗や父の政治活動によってすっかり使い果たされて没落していたという事実が存在する。安吾にその事態に関して明確に自覚はしていなかったにしても、やはり心理的に拘泥するものがあったことが考えられる。しかし、もはや日本の国家が戦争によって多大の打撃を受けるかもしれないという状況に直面してしまった以上、自分の家が没落するというような事態は至極当然のこととして納得するものが得られたように思われる。
「日本文化私観」にはこのあとまだ「家に就いて」「美に就いて」のふたつの章がつづいている、「家に就いて」は短い章であるが、外出先から家に帰る際の心理状況を採り上げている。
「帰る」ということは不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も、子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることが出来ないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる。
これをみても判るように、安吾にとって家という空間そのものは必ずしも問題にならず、家に帰る際の心理的なこだわりや葛藤が問題なのである。家をめぐっては、確かに帰宅する際の心理状況が問題になることが多いのかもしれない。少年期には海岸の砂丘を、太平洋戦争が開始された時点では自身の生存の場として戦火によって破壊された廃墟が現出するのを確信するに至った視点からみた家の問題でもある。「魔物」というのは心理的葛藤そのものをさしているのだろうか。ふりかえるという行為には少年期の経験をふりかえるという意味も含まれているのだろうか。
少年期の経験として、安吾には両親との関係が大きな問題だったように受け取れる。「をみな」(『作品』昭和10年12月号)と「石の思い」で、父や母との関係を語っている。
父仁一郎は衆議院議員で新潟新聞社の社長もつとめていた。五峰と号して漢詩人でもあった。きわめて多忙な人で、平常、安吾は父と顔を合わせることさえなかった。親しく会話するような機会は皆無だと言って差し支えなかった。
「石の思い」で「私は父の愛などは何も知らないのだ」と述べ、
私は父の気質のうちで最も怖れているのは、父の私に示した徹底的な冷たさであった。母と私は憎しみによってつながっていたが、私と父とは全くつながる何物もなかった。
と記している。このように父親との関係は、愛されもしなかったかわりに、いじめられたりもしなかったという関係だった。一方、「をみな」によれば、母アサからは物置きに押しこまれて鍵をかけられたと語っている。「あれほど残酷に私一人をいじめぬくためには、よほど重大な原因があったのだろう」と記し、安吾が出産する時、難産で苦しんだという事実が原因のひとつではないだろうかと想像をめぐらしている。母は安吾に向かって大阪の商人に養子に出すと言ったり、安吾の実母は長崎にいると告げたりして、言葉の面でもいじめを繰り返していた。少年期の安吾にとって家に帰るという行為は、そういう母のいる家に帰ることを意味していた。母と和解したのは、はるか後年になってからだった。
結局、「日本文化私観」の「家に就いて」の章では、かつての場合もいまの時点でも家は安吾自身には生存の場にはなり得なかったのを確認したかったのではないかと考えられる。
「日本文化私観」の最後の章は「美に就いて」である。京都で長い歴史にわたって維持されている伝統文化に対して徹底的に批判を浴びせることができたのは、安吾の内面に伝統文化に拮抗し得るものが生成されていたからだとして、それはなにかと言えば安吾の独自の美についての観念である。「美に就いて」の章にはそのことが語られている。安吾が把握した美についての観念を具現化したものとして、三つの建造物が採り上げられている。最初に挙げているのは小菅刑務所である。昭和十四年から十五年にかけて茨城県取手に住んでいた時期があり、東京に出てくるたびに利根川、江戸川、荒川を越えると車窓から川岸に小菅刑務所が眺められたそうである。
汽車はこの大きな近代風の建築物を眺めて走るのである。非常に高いコンクリートの塀がそびえ、獄舎は堂々と翼を張って十字の形にひろがり、十字の中心交叉点に大工場の煙突よりも高々とデコボコの見張りの塔が突立っている。
勿論、この大建築物には一か所の美的装飾というものもなく、どこから見ても刑務所然としており、刑務所以外の何物でも有り得ない構えなのだが、不思議に心を惹かれる眺めである。
それは刑務所の観念と結びつき、その威圧的なもので僕の心に迫るのとは様子が違う。むしろ懐かしいような気持である。つまり、結局、どこかしら、その美しさで僕の心を惹いているのだ。
と記述している。
次が築地のドライアイス工場である。そこに雑誌の同人が勤務していた関係で、しばしば工場を訪ねる機会があったと記している。
さて、ドライアイスの工場だが、これが奇妙に僕のこころを惹くのであつた。
工場地帯では変哲もない建物であるかも知れぬ。起重機だのレールのようなものがあり、右も左もコンクリートで頭上の遥か高い所にも、倉庫からつづいてくる高架レールのようなものが飛び出し、ここにも一切の美的考慮というものがなく、ただ必要に応じた設備だけで一つの建築が成り立つている。町家の中でこれを見ると、魁偉であり、異観であつたが、然し、図抜けて美しいことが分かるのだつた。
と述べ、この工場の気密な質量感に対比すれば、すぐ傍の聖路加病院の堂々とした大建築も子供たちの細工のように他愛なかったと断定している。一方、ドライアイス工場には「僕の胸に食い入り、遥か郷愁につづいて行くおおらかな美しさがあった」と記している。
さらに、いまのことに敷衍して、法隆寺や平等院の場合は古代や歴史といった概念をつけ加えて説明することにより、一応、なにかしら納得させられるような美しさである。「直接心に突き当り、はらわたに食い込んでくるものではない」と判断している。
そして、安吾はもうひとつ、半島の港町の入江で見た駆逐艦を挙げている。一見しただけで、その美しさが安吾の魂を揺り動かしたという。海面に浮かぶ謙虚な鉄塊を飽きることなく眺めながら、小菅刑務所とドライアイス工場と駆逐艦の美しさの共通性について考えつづけていた。
この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から付け加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によつて、取り去つた一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上つているのである。それは、それ自身に似る他には、他の何物も似ていない形である。
このように安吾自身の心が魅了させられた三つの建造物について、それらが美しいのはその建造物が必要性という原則だけに基づいて成立しているからだと説いている。美の観念がいわば合理主義精神と結びついていて、その点に安吾の独自性をみることができる。また、そういう独自性が「日本文化私観」全編に強い説得力をもたらすものになっていると言える。「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停留場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである」という記述が「日本文化私観」の結びの言葉と受け取って差し支えないが、そこに表現されているのもまた合理主義精神である。
「日本文化私観」には井上章一氏が異論を提出しているので、触れておきたい。井上章一氏は「私の『日本文化私観』」(『坂口安吾論集V 新世紀への安吾』収載・平成19年)で、たとえば小菅刑務所について、
小菅刑務所は、一九三〇年に竣工した。蒲原重雄という建築家の作品である。そう、あえてそう言うきろう。あれは、作品である、と。
安吾は、ここに「必要」だけを見る。「一ケ所の美的装飾というのもなく」と、断言する。
なるほど、古代ギリシア風の柱はそえられていない。ゴシツクめかしたトトサリーなども、あしらわれてはいなかった。しかしここには、うたがいようのない「美的装飾」がある。表現派の様式にのっとって、形をつくろうとする建築家の意図が読みとれる。
まあ、ものが刑務所なので、「必要」しかないはずだと、思いこんでいたのかもそれない。だとすれば、安吾はまちがっている。建築家は刑務所であっても、「必要」以上の美をもちこみたがるのである。
と指摘している。建築学の専門家の眼には、安吾の見解は非専門家による強引な批判と映ってしまうことが考えられる。
これまでみてきたように、安吾は独自の美の観念を確立させて伝統文化を批判し、否定しようとしたのであって、美という問題が安吾にとって想像以上に大きく位置づけられるべき主題だったことが明らかになる。秋山駿が共同討議「坂口安吾の作品を分析する」(『国文学』昭和54年12月号・出席者は他に石崎等、黒田征、山田有策)で次のように発言している。まず、「文学というのはやはり美でなければならない。一つの脚は生存の裸の心に基づかなければいけないけれど、もう一つの脚は美に基づく。この美の部分は何だろうかということが一貫して安吾にはあった。要するに、美のほうは、裸の心に対比すると魔術的なんだな。つまり、人工的に造るものなんですよ。そして人工的に造る美しさというものが、一つの伝統の文化の形であると」と一般論に近い説明を加えたうえで、さらに発言をつづけている。
ところがこの坂口安吾という人は、文学の原点は、人間の生存、自分が生きているということであって、その生きているということの裸の真実はなんだろうかという問いがあった。底から一番最初の求道者精神みたいなものが発した。しかし、文学は一面において美でなければならない。その美といつも対立を感じていたんじやないかと思うのね。で、この精神と制作との矛盾が解決つかなかった。だからこの人は『日本文化私観』でも、伝統的な庭園のほうが美しいのか、それとも近代化の要請によつて人工的に造られた駆逐艦のほうが美しいのか。という問題などをいろいろ考えてやつてきたんだな。これは難問ですよ、本当に。
一方には人工的に造った魔術みたいなところの美がある。他方、これに対立する山賊の心、裸の真実というものがある。そこのところの論理化というのは、これは放棄したんだな。こんな難問には、一文学者が答えられっこないんだ。美というものは一体何であるかという問題にはね。
と語っている。これは「桜の森の満開の下」(『肉体』昭和22年6月号)を論じている際の発言で、「山賊」は「桜の森の満開の下」に描かれている男をさしている。これまでにも触れたが、断片的な文章は別として、安吾が太平洋戦争開戦という現実を受けとめて本格的に執筆を進めた最初の論考が「日本文化私観」である。その論考で秋山駿が指摘しているとおり、安吾は伝統文化を徹底的に批判するとともに、芸術に携わる人として根源的な課題にほかならない「美」の問題を提示したのだった。
「日本文化私観」が発表されたのは開戦から四か月後であるが、間もなく太平洋戦争の状況は悪化の一途をたどるようになった。「日本文化私観」の発表からちょうど三年後、東京大空襲があり、アメリカのB29による爆撃を受けて日本の各都市は次々に焼土と化していった。最後には広島、長崎に原子爆弾が投下された。なにもない廃墟という大空間が現出して、そこに狂喜する安吾がいた。その廃墟こそ安吾の生存の場であって、それを用意してくれたのは時代的現実であり、安吾自身が「白痴」(『新潮』昭和21年6月号)で「戦争の破壊の巨大な愛情」とよんでいる時代的現実にほかならないのだった。
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