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33号 自由論考




島尾敏雄「川にて」論 


      ――七つの企みから開かれる文学世界――

                                                       


                                                           石 井 洋 詩


【はじめに】

 昭和三十二(一九五七)年に「ねむりなき睡眠」(『群像』十月号)を発表して「病院記」を書き終えたあと、島尾敏雄は二年間の休止を置いて、三十四年十一月に南島をテーマにした「川にて」(『現代批評』)と死の棘体験を素材とした「家の中」(『文学界』)を発表し、創作活動を再開した。この年はさらに夢の方法による「家の外で」と戦争体験に繋がる「廃址」を執筆しており、素材・表現方法の異なる四作品を短期間で書き上げたことになる。翌年は「離脱」「死の棘」「崖のふち」と『死の棘』の連作だけを発表しており、この時期の島尾は強い創作衝動に駆られていたかのようである。

 島尾は三十四年年頭のアンケートに《これらの島々の歴史と現実とをふまえて「南島」というものを、文学の世界の中に、文学の表現を使って書きあらわすことです。その場合なるべくこころの内部のことばが使いたい》(注1)と答えた。その第一歩が「川にて」であり、三年後に「島へ」((『文学界』昭37年1月号)が書かれる。「島へ」は単行本『島へ』(昭37年5月新潮社)に収録されるが、「川にて」は単行本には収録されていない。しかし、「川にて」は島尾の南島への思いが託された南島小説の第一作として、興味深い《文学の表現》が試みられている作品なのである。

 南島を小説化するという思いは奄美移住直後から島尾の中に兆していた。そのことを南島エッセーに見ておこう。


   《私はこの島に根をおろさなければならない。歴史から取りのこされかけているこの未知の島に

  住みつき、生の根源の、生活の周囲の多くの事を、注意深く見て、書かなければならぬ。》

         (「南西列島の事など」(『朝日新聞』西部版昭31年1  、6日))


 島びとの心の内奥にある真実の思いを描くためには島に生涯を埋める決心が必要だということを島尾は何度も書いている。さらに方法論にまで踏みこんで述べてもいた。


   《奄美群島を描こうとする者は、何となく本土と変っているように感じられるその珍奇さを一先

  ず排除して、普遍的な人間の根本の問題の場所で把握した上で、再び、離島地帯の特異さ

  を組み立て直さなければならない。それははなはだ困難なことだ。》(「奄美群島を果して文学

  的に表現し得るか?」(『奄美新報』昭31年1月1、5、6日))


 南島を小説化するための前作業として《生活の周囲の多くの事を注意深く》観察した記録が昭和三十二年から書き進められた「名瀬だより」(注2)である。概略化し過ぎていることを押して言えば、「川にて」は《歴史から取りのこされかけている》《離島地帯の特異さ》を素材として、それを《組み立て直》し、《普遍的な人間の根本の問題》を文学として表現するという明確な意図のもとに準備され構想された作品と考えたい。

 「川にて」はこれまで論じられることの少なかった作品である。奥野健男氏が《奄美群島を舞台にして、埋もれた日本人の本質を、日本の社会の底辺を、夢の手法によって追求しようとした作品である》(注3)と早い段階で紹介したあと、「川にて」だけを単独で論じたのは岡田啓氏だけであり、多くは島尾のヤポネシア構想(南島論)を論ずる中で採り上げられてきた。管見に入ったものから独自の見方をしている論を紹介しよう。

 岡田啓氏(注4)は、《島尾は作中の「私」を、いつの場合でも一つの疑わしさの対象として提示》することを《意識的に自己の方法》としており、《この作品が島尾の内的な、それはそうした小説(?)的な仮構を施しての〈意識の劇〉の記述として存在している》と捉える。作中の描写の分析を通して、《深刻な〈生〉への渇望》や《人間存在の普遍的な様体の単純さ》への深い自覚を読み取り、《一つのことばの創出に成功している》と言う。

 岩谷征捷氏(注5)は、〈南島小説〉を《妻の育ってきた環境を追体験する》ための《島人との連帯を痛切に希求する祈りにも似た、鎮魂の視座による小説》であり《小説家島尾敏雄の内なる鎮めうた》と意義づけ、《「川にて」はその通過儀礼の困難さを語っている》作品だとする。

 鈴木直子氏(注6)は「島へ」と対で採り上げ、《島尾の関心は、南島を語るもの=「よそ者」のがわの自己意識を書くことにあった》とする。共通したモチーフが《語り手「私」の徹底した「よそ者」意識》であり、《「文化的他者」との関係とでもいうべきものが追求されている》とみて、《文体としては一人称一元焦点を採用した「自己批評文学」である》と性格づける。そして「川にて」独自のテーマを《「文化的他者」どうしの邂逅における「違和感」こそを文学化すること》だと言う。鈴木氏の言う「自己批評文学」とは、島尾の南島小説が《「南島とは何か」ではなく、南島を語ってきた我々とはなにか》を問うている、ということである。ここに鈴木氏独自の視点がある。

 西尾宣明氏(注7)は、鈴木氏の論を受けて《「よそ者」である自己と「南島」との関係性が読み取れる小説である》とみなし、《「治癒」の「場所」としての「南島」の役割》を摘出して、《島尾文芸における「南島」の意味は、「川にて」、「廃址」という二つの作品の成立によって、はじめて創作主体島尾の側に明確化した》と述べる。

 筆者は、岡田啓氏の「私」の捉え方と鈴木直子氏の「自己批評文学」という視点に注目したい。「川にて」の語り手でもある〈私〉を仮構された〈私〉と捉え、対象化された〈私〉を通して作者島尾がどのような「自己批評」の劇を作ろうとしたのかを読み解いてみたい。


【導入部 三つの企み》

 「川にて」の舞台は鈴木直子氏が指摘しているように沖永良部島の暗川(河)(くらごう)であろう(注8)。粗筋を記す。岬に行く前に〈川〉を見たいと言った〈私〉に、部落長のQは〈ゆあみ〉をしようと言う。「私」はQの言葉を不審に思いながら〈川〉に行く。途中島の女たちに出会い、明るい気持になるが、現実の〈川〉を目にしてその場所に入ることに罪の意識を感じる。ためらいながら〈ゆあみ〉場に入ると、老人たちに詰問される。〈よそ者〉意識に撃たれた〈私〉は岬に行く途中でQのことばに怖ろしさを覚える、というものである。筋はシンプルであるが、読み進めると疑問を生じさせる表現に出会う。しかしあとの展開の中で謎が解けるように書かれている。筆者はそれを作者島尾が仕掛けた企みとみたい。企みを読み解くことで作品の視界が開けてくる。作者島尾が書こうとしたことが見えてくるのである。

 第一の企みは冒頭と結びの呼応にある。作品は《岬に行きたいと思った。そこは小さな島だが、とにかく土地の終末のところが見たかったからだ》という二文で始まり、《私は最初の計画の通り、岬に行って海を見、そしてこの島の小ささも見たいと思った》で終わる。結びで《島の小ささも見たい》という思いが付加されているのは何故か。ここに第一の企みをみる。この仕掛けの意図するところは最後に考えよう。

 さて、冒頭文で〈私〉が鬱屈した気分にあることが伝えられる。部落は珊瑚礁の石垣や岩礁によって作られた高い塀に囲まれ、部落内の枝道は迷路のようにどこに通じるかわからない。そうした閉じ込められた場所から出たいと思っているようだ。

 部落唯一の水汲み場である〈川〉を見たいと言った〈私〉に、Qが《「そうですね、じゃ、ゆあみをして行こうか」》と《心得顔で》言ったことに、〈私〉は《「うん」》と気軽に返事をするが、ある拘りが生じる。それは、Qが以前〈ゆあみ〉場は《「男も女もいっしょなんだ」》と言ったことを思い出し、《ゆあみ場の方により関心があるのに遠廻しに川を見たいなどと言ったと受け取られただろうという思いがわいたから》である。それで〈私〉は〈川〉を見たいといった理由として、唯一の水場である〈川〉で部落の生活の《沸騰のさまの現場》を見るという《名目》を考える。では真意は何か? ここに第二の企みがある。真意があるわけではない。思いつきめいた言葉がきっかけとなって、〈私〉は予想もしない場面に引き込まれていく。出発点が思いつきであるからこそ、〈私〉の惑乱は増幅されてゆく。このことは〈私〉の〈よそ者〉としての皮相さを表している。こうした〈私〉の描出に作者島尾の批評性を見ることができる。

 ここにはもう一つの企みをみたい。Qが《心得顔で》言ったことである。そこに、〈私〉とQのある関係が想定される。二人は親しい友人関係にあるのではなく、〈私〉は公的な役目をもった指導的な立場の者としてQの家に来ているのであり、部落長としてQは〈私〉を持てなす立場にあると考えられる。このことは、〈ゆあみ〉場で描かれる両者の服装の違いにも示されている。Qが《色のあせた払い下げ軍服の作業着》であるのに対して、《私はといえば背広の三つぞろいにネクタイまでしめていた》とある。〈ゆあみ〉場に近づくにつれて、Qが次第にそれまでの態度と違った固さを表していくことも、このことに関わっていると思われるが、このこと第四の企みで触れよう。

 導入部の終わりで作品のモチーフの一つが提示されていることに注意したい。部落の構造の分かりづらさを語る中で、〈私〉が《本当に困難なのは、そこだと感じとった場所に「近づく」ことなのだ》と述べている。この作品が〈よそ者〉が島の本質的な部分に足を踏み入れることの難しさをモチーフの一つとしていることを表していよう。


【展開部 第四・五の企み】

 Qに従って〈川〉のある場所へ向かう〈私〉は島の女たちに出会い、女たちののびやかさかな身ごなしに《どこか特定の場所に「行き」そして「戻って」きたふうな安らぎ》を感じ取る。ここで〈私〉が感じている《安らぎ》は、南島エッセーで言われている《こころをとらえてはなさぬ底光りするもの》(注9)につながる島びとたちの本源的な姿を表したもののように思われる。《特定の場所》に近づくにつれて不安を募らせる〈私〉は、《Qが部落をはなれた別の場所でのときとどこかちがっていること》に気づく。Qが《自分の部落のすがたを或る部分》隠したわけではないが、《彼からは真実のことが何一つきき出せそうにない》と感じる。

 Qの変化、ここに第四の企みを見たい。Qは島外で生まれて帰島した故に、〈よそ者〉が部落の秘密の場所に入ることの困難さを経験的に知っている。そこに行けば何が待っているかを知っている。だからQは《口をつぐみ、表情をこわばらせている》のである。Qは入り口までの案内役であり、〈よそ者〉はどんなことが待っているかを知らずにただ一人でその中に入らねばならない。作者はそのように描こうとしているのである。

 〈川〉の近くに来た〈私〉は、〈よそ者〉には禁忌の場所に入ることに《罪の意識》(注10)を感じるが、《ゆあみ場の方に身軽につき動かすバネがいつのまにか強いはずみを加えて》くる。〈私〉は《さばかれる》ために敢えて行こうとしている。何故だろうか。ここに第五の企みがある。もうしばらく展開を追ってみよう。

 〈川〉に近づくにつれて〈私〉は非日常の空間に入っていく。《風と雨の天候は、いつのまにか私の感覚の外に出て》おり、《ほかの場所にくらべて調和を破ってしまうほどに格はずれて規模の大まかな》《急に渦巻き状に下り坂になった場所》に来る。すると《そのときまで聞こえていた部落の中のさまざまの鋭い音が、はぎとられるように消え去り》、《渦の底の方からきこえてくる底光りのするような》《この世のものとも思えない、猥雑なほどに底ぬけに明るいにぎやかさ》に気がつく。実際に見るまでは、〈川〉は祝祭的な雰囲気をもった場所と思わせるように描かれている。しかし、現実の〈川〉は全く違った姿を〈私〉に現す。《地表に横たわるそれではなしに、地表から渦巻の部分だけ蚕食されて凹み、その底に地底にひそむ川の一部がこんこんと湧き出》たもので、《いきなりそこを見た私は》、《犯罪現場に立ち合ったようなショックを受け》る。


   《そこには何か最初の凝視をそむけさせる原色のきつさがあり、とらえにくい騒音があった。おそら

  くは、生活のきしりやその垢だとかがそこで洗い流され、よごれた水がしばらくは洗い場の周囲によ

  どんでいるためであったろう。私は思わず足がすくんだ。ここは部落の外の者がやってくるところでは

  ない。よそ者がやってくるどんな理由も許されそうにない冷たい拒絶が、そこでかなでられている部

  落者どうしの許容の顔付の下から発散されていた。》


 〈川〉は孤島の日常の姿を露わにする場所なのである。〈部落者〉が幾代にもわたって流した汗と血と情念がその底に幾層も積み重なり、今を生きる姿を憚ることなく見せ合う場所である。孤島苦を慮ることのない〈よそ者〉に向けられる島びとたちの無言の抵抗への心の準備もなく、〈私〉はその場所に入ってきた。〈私〉に潜むものは近代文明の恩恵を日常的に享受している〈よそ者〉の傲慢さである。《底抜けに明るいにぎやかさ》に誘われる〈私〉には、孤島苦を自分の問題として関わろうとする視点はない。だから〈私〉は島びとたちに《冷たい拒絶》を感じ、《つきささるようなまなざし》に《すく》むのである。第五の企みの意図はこの〈私〉を描くことにある。《私の盾になってくれるはずだと思っていた》Qは〈部落者〉としての位置に戻っており、《青銅のように無表情》になっている。〈私〉の感受は〈よそ者〉としての高みから出ることがない。だから、《Q自身も彼の意志だけでは行動を中止することができない》ことが分かりながら《軽くQを憎みはじめ》、《彼も私が憎らしくなっているにちがいない》とQの心中を忖度しながら自分からは回避行動は起こさないのである。


【クライマックス 第六、七の企み】

 やがて《ゆあみする女たち》が見えはじめると、《私はみうちがあつくなり》、《足はそちらの方に向いて行》く。《歩みをおそくしてもどうしても自分がQの前に出てしまい》、《Qがどんどん先に立つべきなのに私を先に押し出すのはどういうわけか》と疑問を抱く。このあとも湯殿に行くまでQの行動に対して「私」は何度も《私のあとになろうとする気配》を感じて《私をためそうとでもしているのか》と思うようになる。前述したように、作者は「ゆあみ」場でQが「私」を先導することがないように描いている。ここでのQと「私」の行動の齟齬は、生きている時間の違い、生活文化の違いから来るものだろう。「私」には自分を相対化する複眼的な視点はない。部落の内実が最も色濃く出る場所においても自我中心の近代文明社会の行動様式、価値基準から脱け出せない。

 「ゆあみ」場に入る前、「私」は島の女たちが《けだものの目のように》《私の方を見ているにちがいない》と思う。《しかし実際は予想に反して、女たちは私を無視した。それは肯定の安らぎで私をも包みこむふうなやさしさを伴っていると受取れるぐあいにだ》。この《私をも包みこむようなやさしさ》とは、左記で《島のすがたの真実》の一面として語られている《あふれるばかりのやさしさ》と重なるものだろう。 


  《たとえば島はおそろしく粗野である反面つやのある礼節が生活のなかにしみ通っており、爆発的

  な気性の烈しさとともに、その一般的なあふれるばかりのやさしさは他  地方では珍しいことだし、

  そして外来者に圧倒的な歓迎をかぶせるかとおもうと、同じ者へ根深い拒絶を示す。つまりは、こ

  のように両極の性格を一つに合わせもっているのが島のすがたの真実かも知れない」

          (「南島について思うこと―ニライ・カナ」(『南日本新聞』昭34年7月10日))


 ついでに言い添えると、このあと湯船で〈私〉を詰問する老人たちは《島のすがたの真実》のもう一つの面《同じ者へ根深い拒絶を示す》島びとを表象しているとみてよい。

 その《やさしさ》に触れながら脱衣所に向かう〈私〉は、《私を見上げている女たちの目をいくつかはとらえたはずなのに、一つの個性をもつかまえることができない》。このあと湯船で男の老人たちを見たときも同様に《その老人は、先の老人なのか別の老人なのか私には区別がつかない》のである。〈私〉は島びと一人ひとりの《個性》を見取ることができない。それは〈私〉が島の表層をしか見ることができないということでもある。では、〈ゆあみ〉のあとで〈私〉は島びとの《個性》を見取ることができるようになるのだろうか。ここに第六の企みがある。その答は〈ゆあみ〉を終えた時に明らかになる。

 島の女たちは〈私〉が長靴のまま通路を通っても《それを非難しているようでもない》。その《感動》は《緊張から私を解放しようと》する。女たちの視線に出合うことで〈私〉から少しずつ近代文明で装われた外皮が?がれていく。脱衣所に来た時、《今その底の現場の所に来ているのだという自覚が、重く沈んだ感じで私を襲》い、〈私〉は《一箇の裸者》(注11)となる。身に纏う虚飾が剥ぎ取られるのである。Qに向ける視線もおのずと変わっていく。脱衣したあとで初めてQが《ここにおりて来るときから彼は一言もしゃべらなかったことに気がつ》き、このあと〈私〉はQが話すことばに注意を向けていくようになる。ここに第七の企みがあるが、その読み解きはあとにしよう。

 〈私〉は脱衣に時間のかかるQの姿を感じながら、湯船に一人入っていく。男女の間には仕切板が置かれており、男の湯船には三人の老人がいた。女たちとは逆に男の老人たちは監視する視線を〈私〉に送り、《いくらたちきってもまといついてちくちく刺してくるしびれくらげのひも足のように》、《「Nの町の人なら、こういうところに来なくてもいいはずだがな」》と繰り返す。老人が湯船から出ていったあと入ってきたQは次のように言う。


  《「いつもはこれもとりはずしてあるんだけれどね……」私は思わず眉根をきつくしてしまって、そし

   てすぐその自分を恥じた。Qはとらえようのない遠い顔付で湯の中にからだを沈める。もう私は彼

   と話すどんな話題もなくなってしまっていることを思い知った。》


 島外での生活の経験を持つQは、今は島の生活文化を身につけて生きている。Qが〈私〉を〈ゆあみ〉場に案内してきたのは接待的な意味合いからであり、〈私〉に人間的な親近感を抱いているからではない。「南島について思うこと」の中で、島尾は島の暮らしを軽視する島外者たちに対して、島びとたちが屈折した気持ちを生じやすいと分析して、《追従と反発の気分が一つの気持の中で不安定にゆれうごいているふうだ》と記しているが、〈ゆあみ〉場に案内しながらQが〈私〉と距離を置いた行動をとるのは、《追従と反発》がある故だと読むことができるだろう。しかし〈私〉にはそうした島びとの心を思いやることはできない。《Qはどういうつもりで私をここに連れてくる気になったのか》と不審な思いにとらわれるばかりなのである。

 先に湯船を出た〈私〉は《女たちの方からも見通しなので、いつまでもはだかのままではよくないと思い》、着衣する。Qも上がってきて、《「川の冷えた水を浴びると、とても気持ちがいいんだ」》と言い、〈私〉はそれが《三度目のことば》であることに気づくが、《汗がべとべとして不快なのをおさえて》《「ぼくはもう帰るよ、浴びたければあんたひとりでするといい」》と答える。今度はQが先に立って女たちの前を入口の方へ歩いて行く。そこでの叙述である。


  《家畜小屋の中を通るような気がした。来たときと同じように私は彼女たちの個性を一つとしてつ

  かみ得ない。小屋の外に出ると、やはり大気の広さと明るさがあり、私は思わず、ほっとした。そし

  て気持のむすぼれはほぐれるようであった。おかしなことに何か浮き浮きした気分がつきあげてきて、

  口笛でも吹きたいと思った。》


 ここで第六の企みの答が明らかにされる。〈ゆあみ〉を終えた〈私〉の目に、女たちが足を投げ出している場所は《家畜小屋》に見える。そして《来たときと同じように》と注意を促す表現をとって《彼女たちの個性を一つとしてつかみ得ない》と言う。〈私〉は「ゆあみ」をする前と変わってはいない。《家畜小屋》という比喩は、島びとを個性をもった人間として見ることができない〈私〉の内実を表しており、島の表層をしか見ない〈よそ者〉である〈私〉に対する作者島尾の批評性を内包している。小屋を出たあとに感じた《浮き浮きした気分》(注12)とは接待を受けた〈よそ者〉が感じる皮相な快感と読むべきだろう。

 さてここで、第七の企みを読み解こう。Qは《三度》ことばを〈私〉に投げかけた。〈ゆあみ〉をすること、いつもは仕切板がないこと、〈川〉の水を浴びることである。この三つは〈部落者〉が行う日常的な〈ゆあみ〉の方法である。つまり、〈ゆあみ〉は岩谷征捷氏が言う《共同体に入り込む象徴としての儀式》(注13)としての意味をもっている。Qが勧めた《はだかのままで》《川の冷えた水を浴びる》ことには、〈部落者〉の輪の中に入るための通過儀礼の意味があった。仕切板とは、〈部落者〉と〈よそ者〉を区切る板の意味であり、いつもは無いはずの仕切板が有ったが故に、〈川〉の水を浴びることで〈私〉は仕切板をはずすことができたはずなのである。Qのことばはそれを促したのである。しかし〈私〉は拒絶した。〈私〉は無自覚に〈部落者〉の輪には入らないことを伝えていた。来たときとは逆にQが先に立っていくのは、Qにそのことが分かったからである。


【結末部 第一の企みへ】

 〈ゆあみ〉場を出た〈私〉は〈よそ者〉意識を強くもつ。


  《私は老人や女たちに、顔やからだのかたちを覚えられてしまったが、私は彼らを一人として識別す

  ることができない。私のあいまいな願望が、あのゆあみ場の木小屋の中にこもって残されたと思った。

  私はこのとき自分が部落のよそ者だという意識にさしつらぬかれたようだ。》


 《私のあいまいな願望》とは、〈ゆあみ〉場で島の老人や女たちを《識別すること》ができるような接し方をしたいということだろう。言い換えれば〈部落者〉の輪に入るという願望であろう。〈私〉はその機会が失われたことへの強い悔いを感じながら、《一人の青年と行きちが》う。


  《「おや、あれは見たことのない顔だ」。そのことばを私は一度はきき流した。しかしやがてそれは次

  第に頭の中にしみ広がってきて、私はおそろしさにぞーっと寒気だった。私にはその青年はこの部

  落の者としか思えなかった。しかしQは敏感に反応を示した。それは根深い自信をこめた声であっ

  た。私は最初の計画の通り、岬に行って海を見、そしてこの島の小ささも見たいと思った。》


 この結びは、〈よそ者〉意識を述べること、島の閉鎖性を述べることに作品の主眼があることを示しているように読める。しかし、筆者が試みてきた読解を踏まえると別の読みができる。〈私〉が《おそろしさにぞーっと寒気だった》のは、〈部落者〉と〈よそ者〉とを感じ分ける島びとの鋭敏な感受のあり様に対してである。Qの声に感じた《根深い自信》とは、島の何代にもわたる歴史の層の積み重なりから育まれた自信であろう。近代文明の中で生活する〈よそ者〉の〈私〉には人間を見分けるそのような眼の深さは持ち得ない。このように読むと、第一の企みとして採り上げたこと、冒頭部に付加された《島の小ささを見たい》とは、地理的空間の《小ささ》を言うのではなく、島の人間の捉え難さ、島の生の在り様の奥深さを切実に感受した故の逆説的表現だと言えまいか。

 島尾敏雄は「川にて」を通して、近代文明の恩恵から取り残されている南島に本来的な人間の生の在り様が残されていること、そして、島の現実の中で生きない限りそれに触れることはできないこと、近代的思考様式に染まった〈よそ者〉には島の本質部を見抜くことが至難であることを、《文学の表現をつかって書きあらわすこと》を試み、新しい《文学の世界》を創出したとみたい。


           ※島尾作品の引用は、晶文社版『島尾敏雄全集』に拠った。


注(1)「今年の仕事」(昭34年1月20日『朝日新聞』鹿児島版)。

 (2)『新日本文学』昭32年5月号から34年1月号に連載。『離島の幸福・離島の不幸』(昭35年4月未来社)に収録。農文協人間選書『名瀬だより』(昭52年10月農山漁村文化協会)として再刊。

  (3)『島尾敏雄作品集3』(昭37年4月晶文社)「解説」。

  (4)「「川にて」へのノート」(『島尾敏雄』(昭48年9月国文社))所収。同書は『還相の文学』(平2年3月国文社)として増補再刊されている。

  (5)「鎮魂の視座・ヤポネシア」(『島尾敏雄論』(昭57年8月近代文芸社)所収)。岩谷氏は『島尾敏雄私記』(平4年9月近代文芸社)でも、同じ捉え方をしている。

  (6)「島尾敏雄のヤポネシア構想―他者について語ること―」(平9年8月『国語と国文学』第74巻8号)。

  (7)「都市の表象と「ヤポネシア」構想―『家の外で』『帰魂譚』の言説、あるいは島尾文芸の一九六〇年前後―」(『南島へ南島から―島尾敏雄研究』(平17年4月和泉書院))所収。

 (8)島尾は「沖縄らしさ」(『三田文学』昭34年3月号)でその年に沖永良部島を訪れたことを述べており、又『ヤポネシア考』(昭52年11月葦書房)所収の対談「綾蝶生き魂」初出『暗河』昭56年第10号)の中で、沖永良部島の暗河の印象を述べている。それによると《つまりあそこには濃密な何かがありましたね。ですから外部から行くと、あそこには本当に近寄れませんでした》とある。

  (9)「われわれのなかの南」(『南日本新聞』昭33年1月8日)。

  (10)岡田啓氏は注(4)で《罪の意識》を感受する「私」には《異常に深い〈生〉の飢え》が隠されていると述べている。

  (11)岡田啓氏は注(4)で《一個の裸者》に触れて《単にこの作品の中で屹立すると言うにとどまらず、この作者の全作品の中で特別の意味を担ったことばである》と述べている。

  (12)西尾宣明氏は注(7)《浮き浮きした気分》になることから、「島」は《「私」にある種の癒しを与える空間でもある》と述べている。

  (13)『島尾敏雄私記』(平4年9月近代文芸社)。






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