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 赤穂貴志 昭和名作映画      連載(転載)





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 『長屋紳士録―飯田蝶子   (昭和22年5月公開72分 小津安二郎監督)



 中篇映画『下町』         (昭和32年公開59分 千葉泰樹監督 林芙美子原作)



「男はつらいよ」―梅太郎     (昭和44年-平成7年 渥美清主演、山田洋次原作・監督)






『長屋紳士録―飯田蝶子



                   赤穂貴志(あかほたかし)




 映画女優の中に「老け役の三枚目」と呼ばれるひとたちがいる。

 強い個性で主役を引き立て、映画に深みを持たせる俳優たちだ。かつて日本映画界には、そんな存在感のある名脇役が数多くいた。

 三好栄子、高橋とよ、北林谷栄、菅井きん、野村昭子など、若い頃から老人に扮し、老いの迫力、老いの才覚を見せながら、その年齢不詳な風貌でも観客を引きつけていた。

 中でも、その「老け役の三枚目」の代表格と言えば、飯田蝶(ちよう) 子だった。話し方、表情に飾り気がなく、早口で毒を吐きながらも、まったく嫌みを感じさせない。

 優しい笑顔はもちろんだが、不機嫌な表情さえも愛おしく、立ち振る舞いに親切な人柄がにじみ出ていた。

 その庶民的な風貌は、次第に松竹お家芸の「人情もの」には欠かせない存在となり、戦前は名匠・小津安二郎監督に重宝された。

 戦後復員した小津安二郎が、下町を舞台にした人情劇『長屋紳士録』(昭和二十二年)を撮るときも、起用したのはやはり飯田蝶子だった。


 戦災孤児の面倒を押しつけられ、迷惑顔で子供を迎える。粗相をする子供につらく当たっていたが、次第に情が移っていく。自分の子供として育てる決意をした直後、子供の父親が現れてしまう。わずか一週間ほどの出来事を細やかに描き、揺れ動く人情の機微を名優飯田蝶子が好演した。


 敗戦後一年。一面焼野原の東京築地。近くには焼け残った長屋の一画があり、戦前から気心の知れ合っている人たちが住んでいた。長屋の住人・おたね(飯田蝶子)もそのひとりだった。


 ある夜、おたねの家に同じ長屋棟の住人・田代(笠智衆)が訪ねてきた。見ると六歳くらいの男の子を一緒に連れている。九段の鳥居(靖國神社)で父親とはぐれ、おろおろとしていたのをかわいそうに思い、声を掛け連れて帰ったのだという。

「おたねさん、一晩泊めてやってくれんかな」

 田代はその子の世話をおたねに押しつける。

 おたねは子供がなく、夫は戦争で失い、今はひとりで後家暮しをしていた。

「やだよ。あたしゃ子供嫌いなんだよ!」

「まあ、そう言わんと頼むよ」

 田代はかわいそうだほっとけないなどと言いながら、自分で世話をする気はないようだった。長年の付き合いで、おたねがお人よしなのを知っている。拒むおたねを尻目に、田代は男の子を置いて行ってしまった。

 男の子はとっくりのセータと半ズボン姿で、「正ちゃん帽」を被っている。汚い身なりで背中にノミが這っているらしく、ときどき肩を動かすしぐさをしている。

 男の子はすがるような目でおたねをじっと見つめている。今夜はここに泊めてくれるのかどうか、子供なりに見極めているようだった。

 おたねは鬼のような怖い顔で子供を睨みつける。しかめ面で「めっ!」「しっしっ!」と犬を追い払うように邪険に扱う。あからさまに不機嫌な顔をしていたが、男の子にせんべい布団を与え、一晩は面倒をみることにした。


  


 翌朝、庭先の物干し竿に布団が干されていた。布団には大きな地図が描かれ、その横でおたねは仏頂面をし、男の子を睨みつけている。男の子はしょんぼりとして俯いていた。

 おたねは男の子に半分破れた団扇(うちわ) を渡した。

「ほらっ、これでよく乾かすんだよ!」

 男の子は黙って団扇を受け取る。言われるがままに、しばらく布団を煽(あお) ぎ続けていた。

 おたねは長屋の住人・為吉(ためきち) (河村黎吉)に愚痴をこぼしていた。

「困ったよ、とんでもないもの押しつけられちゃったよ。やられちゃったんだよ寝しょんべん。大事な布団が台無しさ。馬のように垂れやがって、ぐしょぐしょだよ」

 おたねは、早いところこの厄病神を追い出したくてしょうがない。この子が寝小便をするのは不安だからだろう。何とかはぐれた父親に会わせて手を切りたい。そんな思いから男のちがさき子が以前住んでいたという茅ヶ崎まで連れて行くことにした。

 子供を連れ茅ヶ崎に着いた。元住んでいた家を訪ねたが、そこには誰も居なかった。近所で尋ねると、母親は既になく大工をしている父親はどこへ行ったかも分からないとのことだった。

 おたねは呆然とし、湘南の海岸に座りふたりで弁当を食べ始めた。

「おまえのお父っつぁんも不人情なひとだよ。はぐれたんじゃないよ、置いて行かれちゃったんだよ」

 男の子は黙っておにぎりをほおばっている。

「おまえね、あの海行って貝殻拾っておいで、おばちゃんおみやげにするんだから」

 男の子は少し不安げな表情でおたねと海岸を交互に見つめている。

「行っといで、おまえいい子だよ」

 にっこりとしたおたねの表情を見て、男の子は無邪気に海岸へ走って行った。子供を見届けると、おたねはこっそりと逃げだした。和服に草履ばきで砂浜を猛ダッシュする。着物の裾がまくれるのもはばからず駆けていく。

 しばらく走り続け、ここまでくれば安心と歩き始めたところ、置いて行かれたことに気づいた子供が全速力で走ってきていた。

 逃げても逃げてもどこまでも追ってくる。見通しのきく広い海岸ではすぐに見つかってしまう。何度追い払っても必死につきまとってくる。今ここで捨てられたら生きていけないと、本能的に知っているのだろう。

 おたねは少し自責の念にかられ、結局長屋まで連れて帰ることになった。


 その夜、男の子はいつまでも布団の上に座り、なかなか寝ようとしなかった。不安そうな顔でおたねをじっと見つめている。また寝小便をして、おたねに怒られるかもしれないと思うと、怖くて寝られないのだ。

「夜中に起こしてやるよ。今度やったら承知しないよ」

 男の子は少し安堵すると寝床についた。

「おばあちゃん、おやすみ」

「おばちゃんだよ!」

「おばちゃんおやすみ」

 どんなに口うるさく言われても素直に従う男の子。安心するとすぐに寝てしまった。


  


 翌日、軒先に吊っていた干し柿が数個無くなった。おたねは男の子が盗ったと決めつけ、激しく責め立てていた。男の子は唇を噛みしめ、頑なに首を横に振り続けていた。

 ところが、それは長屋の為吉がつい食べてしまっていたことだと分かった。おたねは子供を詰(なじ)ってしまったことを少し後悔した。

「坊や、ごめんよ、済まなかったね」

 男の子は少し顔を上げ、おたねを見つめた。

「ごめんね、もういいんだよ、坊やじゃないことが分かったんだから。かわいそうにおばちゃん悪かったね。堪忍しておくれね」

 男の子はわんわんと泣き始めた。自分の無実が晴れたことと、初めておばちゃんに優しい言葉を掛けられたことで感情が高ぶっていた。

 おたねはそんな子供が愛しくなっていた。窓を開け残りの干し柿を数個もぎり、泣き止まぬ子供にそっと渡した。


 翌朝、おたねが目を覚ますと、子供の姿が見えなかった。布団がきちんと畳まれ板の間に置かれている。再び寝小便をしてしまったことを申し訳なく思い、責任を感じて出て行ったようなのだ。

 おたねが優しく接してくれるようになった矢先に、その期待を裏切ってしまったことが悲しかったのだ。

 子供がいなくなると、おたねは急にそわそわしてきた。昼が過ぎ時計はもう三時を回っさまよている。おたねは築地周辺を彷徨い歩いた。

 自分もあの子くらいのときは寝小便をした、かわいそうなことをしたと悔やみながら、あちこちと子供を探し回った。

 おたねは、子供が自分に必要な存在になっていることに、ぼんやりと気づき始めていた。


 その夜遅く、田代が再び九段の鳥居で男の子を見つけ、連れ戻してきた。

「今朝粗相してあんたに怒られると思ってそわそわしとった。あんまり怒らんでやってくれ」

 おたねはほっとした。男の子はおたねに背を向け玄関でもじもじしていた。

「お上がり、おまえお腹空いてんだろ」

 おたねは何ごともなかったかのように子供に言うと、二枚の冷えた「どんどん焼き」を差し出した。男の子はそれを美味しそうにかぶりついた。

 おたねは焦げた部分は残していいからと言い、子供のセータに着いた埃を払い落としながら笑顔で言った。

「坊や、おばちゃん好きかい」

「うん」

「そうかい、坊や、もう家に居てもいいよ」

 おたねは満面の笑みを浮かべた。本気でこの子が好きになっていることを確信していた。

「坊や、おばちゃんちの子になっちゃうか。なっちゃおう、なっ!」

「うん」

「たくさんお上がり。みんな食べていいんだよ」

 おたねは子供を自分の養子にする気持ちになっていた。知らず知らずのうちに、忘れていた母性愛が目覚めていた。


 翌日、ふたりは上野動物園にいた。子供は珍しそうにキリンを眺め、おたねは嬉しそうに子供を見つめている。

 自分の子供として迎え、正式に母子になることを記念して、写真館(フォツトスタヂオ)で一枚の記念写真をとることにした。

 おたねは和服で正装し、子供には晴着を着せていた。ふたり仲良く並んでカメラの前でポーズをとる。

「坊や、動いちゃいけないよ。口結んで、鼻出さないで、いいかい」

「お母様お静かに、お口を結んで」

 カメラマンに注文を受けながらも、和やかな雰囲気でシャッターが切られる。二人の映像が逆さになりスクリーンに焼き付けられた。


 その夜、清々しい気持ちで家に帰ってきた。夕食に「親子」で天ぷらを食べ、幸せの門出を迎えていた。

「坊や、おばちゃんくたびれちゃった、少しおばちゃんの肩を叩いておくれよ」

 おたねは肩を叩かれると次第に頬が緩み、顔が微笑んできていた。

「あした床屋行って頭刈っておいで。いい子になるよ。坊や、おねしょしなきゃいい子なんだけどね。そのうち治るよね、もうじき」

 そんな「親子」水入らずの最中、実の父親(小沢栄太郎)が訪ねてきた。九段坂で息子とはぐれてしまい、一生懸命に探し、やっと居場所が分かったとのことだった。

 おたねは、父親が息子を捨てたのではなく本当にはぐれてしまっていたことが分かった。常識のある優しい父親の姿に少し安堵した。

「坊や、またお父っつぁんと一緒に遊びにおいで。いいかい、遊びにくるんだよ」

 おたねは精一杯気丈に振る舞い、子供に買った晴着と絵本を父親に渡した。恐縮した父親は深々と頭を下げた。

「おばちゃんさよなら」

 男の子の別れの言葉を聞きながら、おたねは立ち去って行くふたりを静かに見送った。

 ふたりが行ったあと、長屋の為吉が訪ねてきた。父親が迎えに来たことを知り、良かったとつぶやくと、おたねは感極まり泣き出してしまった。

「あたしゃ悲しくて泣いているんじゃないんだよ。あの子がどんなに嬉しかろうと思ってさ。やっぱりあの子ははぐれたんだよ。さぞ不人情なお父っつぁんだと思ってたら、どうしてとってもいいお父っつぁんで、ずいぶんあの子を探してたんだよ。それが会えてさ、これから親子が一緒に仲良く暮らせると思ったら、どんなに嬉しかろうと思って泣けちゃったんだよ」

 為吉は強がりを言うおたねの複雑な気持ちが分かった。親子が一緒に居ることが、どんなに大切なことかと痛感しながらも、心に喪失感が漂っているのを感じとっていた。

「親子っていいもんだね、嬉しかったよあたし。こんなことなら、あたしもうんと可愛がっといてやりゃ良かったと思ってね」

 為吉はおたねを見つめ黙って頷いている。

「可哀想に、何にも知らない子供を邪険に小突きまわしてさ。考えてみりゃ、あたしたちの気持ちだって、随分昔とは違ってるよ。自分ひとりさえ良きゃいいじゃ済まないよ。早い話がさ、電車に乗るんだって、人を押しのけたり、人様はどうでもてめぇだけは腹一杯食おうって了見だろ。いじいじして、のんびりしていないのはあたしたちだったよ」

「そう言われれば確かにそうだな。そうだったよ。耳が痛いよ」

 為吉はおたねの悲しさをしみじみと受け止めていた。

「いいもんだね子供って。あの子と一緒に暮らしたのはほんの一週間だったけど、考えさせられちゃったよ、いろんなこと。欲言えばもうひと月ふた月暮らしたかったよ」

 おたねは急に子供が欲しくなっていた。既に子供の授からぬ年齢を考え、誰か親のない子を養子に貰おうと考え始めていた。


  


 上野公園の一角、西郷隆盛の銅像の下(もと) には、多くの戦災孤児がたむろしていた。そこには煙草をふかしている少年や、無気力さに満ちた子供が大勢あふれていた。


 小津安二郎は、平凡な中流家庭を保守的に描く監督として知られている。

戦後の代表作『東京物語』(昭和二十八年)、『秋日和』(昭和三十五年)、『秋刀魚の味』(昭和三十七年)など、両親と息子、母と娘、父と娘のあり方を堅実に描く作劇は、戦後のホームドラマの原型となった。

 そんな小津も、戦前は貧困庶民の喜劇を多く手掛けていた。『出来ごころ』(昭和八年)、『一人息子』(昭和十一年)など、庶民の生活を淡々と描くことで、現実の生活に根ざす本音の部分をきちんと盛り込んでいた。

 この『長屋紳士録』でも、戦災孤児を預かることを露骨に嫌がり、みなが互いに押しつけ合おうとするさまが、しっかりと描かれている。

 慈善家が熱心に子供の面倒を見るような理想は掲げず、現実の市井人がとるであろう日常の姿を忠実に表現していた。

 他方で、敗戦後人々の心から余裕が消え、世知辛い世の中になってしまったという、小津の皮肉な視点も見ることができる。

 父親からはぐれ、頼る大人から邪魔扱いされながらも、必死で生きようとする子供。台詞はほとんどなく、感情表現も少なく、その場の空気ですべてを語らせてしまうという、小津演出の神髄がここにある。

 戦後の混乱期は、自分ひとり食べていくのがやっとだった。他人の子に構ってやる余裕などなく、低所得の中でいかに生きていくかという気持ちに追われていた。

 戦後しばらくは不浄な世界が続き、人々は生きるため本能をむき出しにしていた。その一方で、つつましく美しく、また清らかに過ごすひとたちもいた。

 これらは泥の沼に咲く蓮(はす)の花に例えられる。

沼は泥にまみれている。蓮の花は美しく咲いている。泥は汚いけれど花は美しい。しかし、蓮の花も根は泥沼の中で生きている。

 上野公園にたむろする子供は、大人社会にもまれ、純真さを失った素行の悪い少年たちだった。

 戦災孤児は、あの坊やのように育ちがよく、素直さを持った子供ばかりではない。孤児を預かることは容易なことではない。

 しかし、いつの時代も子供は無垢な存在で、またそうあって欲しいという願望がある。物語後半のおたねの心変わりぶりにそれがよく表れている。

 生涯独身だった小津は、家庭とは無縁だった。それゆえに、家族という存在を客観的に捉え、現実は理想と程遠いものだという慎重な歯止めをかけることができた。

 おそらく、感傷的な甘い余韻を残すことを避けたかったのだろう。そして、そのブレーキは正しく作用した。


 飯田蝶子は明治三十年(一八九七年)東京浅草に生まれた。百貨店に勤務するうちに役者を志すようになり、松竹蒲田撮影所に応募するが不採用となる。

 その理由が、美貌の持ち主でないということを知るや、同所長でもある野村芳亭(ほうてい) 監督に直接掛け合い、自説をまくし立てた。

「いい女ばかりじゃ活動写真はできない。脇役の女中などは、やっぱり自分のような不美人がやるのが自然じゃないか」

 野村監督はこの主張に改めて共感し、見習い女優として採用されることとなる。

 当時の松竹人気女優・栗島すみ子の付き人となり、積極的に撮影所で駆け回る姿が認められると、野村監督の『死に行く妻』(大正十二年)で端役デビューを果たした。

 続く同年、牛原虚彦(きよひこ) 監督『人性の愛』での老け役が認められ、女優としての地盤を固めていく。

 その後、女中、母親、芸妓、おばさん役などで多くの作品に出演する。置かれた状況での心境を純粋に表現する、積み重ねの演技が開花し、老け役の名女優として戦前の松竹を代表する俳優となった。


 戦後はフリーとなり、大手各社の映画に出演し、おばあちゃん女優として親しまれた。

 中でも、杉江敏男監督『大学の若大将』(昭和三十六年)での、加山雄三のおばあちゃん役で人気が再燃し、晩年の代表作となった。

 明治生まれの新し物好き・元小町娘という設定で、いつまでも「若さ」を全面に出し、常に温かい表情で演じていた。

 ちゃきちゃきの江戸っ子おばあちゃんで、息子の有島一郎を「大正生まれは保守的でダメだねぇ」といびりながら、孫の加山雄三を溺愛するというギャップで笑わせる。

 大ヒットによりシリーズ化されると、各作品を担当した若手監督の期待に応え、サービス精神旺盛な演技を見せていた。

 福田純監督『ハワイの若大将』(昭和三十八年)では、東京オリンピック開催に向けて英語を勉強し始め、会話中にやたらと英語を使い、観客の笑いを誘っていた。

 岩内克己監督『レッツゴー!若大将』(昭和四十二年)では、孫のサッカーの試合に触発されて庭でボールを蹴り、家のガラスを何枚も割ってしまう天真爛漫な姿を見せていた。

また、孫の香港土産のチャイナドレスを着て「昔は青山で鳴らしたもんだよ!」と得意気に語り、艶(なま) めかしいポーズをとってもいた。

 古澤憲吾監督『南太平洋の若大将』(昭和四十二年)では、来日した日系ハワイ人のボーイフレンド(左卜全(ひだりぼくぜん) )を家でもてなし、余興で着物の裾を太ももまでまくし上げ、大胆な踊りを披露していた。

 福田純監督『ニュージーランドの若大将』(昭和四十四年)では、花柄のワンピースにウエスタンブーツという出で立ちで登場し、場を和やかに盛り上げていた。

 毎作品ごとに、ハイカラで明るいおばあちゃんを怪演する姿は、半世紀を経た今観ても微笑ましい。やはり表情からにじみ出る人柄がそう思わせるのだろう。

 そんな思いはスタッフも同じだった。東宝は長年の労をねぎらい、丸林久信監督『家内安全』(昭和三十三年)を製作した。「モダンばあさん」として主役をあて、還暦を迎えたお祝いのプレゼントとした。


 二年前、都内の名画座で「飯田蝶子とにっぽんのおばあちゃん」という特集が組まれた。

場内には年配者に混じり、多くの若い女性客の姿が見受けられた。

 没後四十年以上にもかかわらず、生前を知らない世代にも支持されている。それは、若い頃から身の丈を知り、その枠の中で颯爽と生きる前向きな姿を、フィルムの中に感じ取るからなのだろう。

 時代を超え後世の観客を魅了するその姿は、やはり偉容を誇る女優なのかもしれない。

 

 昭和四十七年十二月永眠した。満七十五歳。入院中も「私は死なないよ。八十まで仕事は続けるんだから」と明るく振る舞っていた。

 追悼で、栗島すみ子はしみじみと語った。

「女丈夫、女の中の女。どんな逆境にあっても必ず自力で道を切り開いていくひと。顔はシワくちゃのおばあさんだけど、心の中はシワひとつないひとでした」


         (了)



              初出「白雲」第38号(2014年7月10日発行)






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中篇映画『下町』―千葉泰樹監督

                                 


                                     赤穂 貴志    

                                   


 邦画全盛期は二本立て興行が主流だった。

 戦後復興した邦画界では、各社とも集客力を上げるため工夫を凝らしていた。

 昭和二十七年、松竹はメイン映画に対する「添え物」として「中篇映画」を製作する。上映時間六十分足らずの小品で、これを姉妹篇を意味する「シスター映画」と呼んだ。 主に新人スターのデビューや監督昇進の登竜門としての役割を担い、これを併映に二本立て封切りが行われた。

 昭和二十九年、今度は東映が二本立て興行への移行を断行する。「娯楽版」と銘打ったシリーズものを製作し、『笛吹童子』、『紅孔雀』(中村錦之助、東千代之介)などが大ヒットした。これにより残り各社も追従し、この上映形態が定着するようになる。

 映画黎明期が過ぎ全盛期を迎えると、各社は量産体制に入った。低予算で撮影も短期間済むこの中篇映画は重宝されるようになる。

 東宝は「ダイヤモンド・シリーズ」と呼ばれる、小説を原作とした文芸作品の中篇映画を作り出した。こちらは俳優、監督ともにベテランを起用し、一時間に満たない短い尺の中で密度の濃い物語を構築した。

 千葉泰樹監督『鬼火』(昭和三十一年)、筧正典監督「新しい背広』(昭和三十二年) 、丸山誠治監督『憎いもの』(昭和三十二年)などの佳作が生み出された。これらの作品には、限られた時間の中で表現する映画作家の矜持が伝わってくる。

 そのシリーズの口火を切り、庶民の生活感情を扱い、多くの佳作を演出した千葉泰樹監督が、林芙美子原作『下町』(昭和三十二年)を撮り上げた。


 戦争は敗戦後も多くの悲劇をもたらせた。いつ帰るか分からぬ夫を待つ妻。復員しても妻を他の男に奪われていた夫。先ゆく不安を抱えながら、懸命に生きる人たちがいた。

 山田五十鈴と三船敏郎。日本映画界を代表する名優がこの悲劇を静かに競演した。


 敗戦後四年目の早春。

 主婦・リヨ(山田五十鈴)は大きなリュックサックを背負い、下町の長屋棟でお茶の行商をしていた。もんぺに運動靴姿で、身なりを着飾る余裕もないようだった。

 民家のすぐそばには小さなどぶ川が流れ、住人の主婦たちは乳呑み児を背負いながら洗濯物を干していた。

「静岡のお茶はいかがですか」

 各戸で声をかけるがなかなか売れない。生活が楽でないそんな地域では、お茶は贅沢品でしかない。そんなものを買う余裕がないのだろう。リヨの生活も日々の暮らしは厳しく、八歳の幼い息子を抱え家計も逼迫していた。

 そんなある日、下町の工場街を歩いていたところ、寒さに耐えかね暖をとろうと、川沿いにある運送会社の掘っ立て小屋を訪ねた。

 番小屋にいた中年男・鶴石(三船敏郎)は、一見無骨だが親切に迎えてくれた。千住のお化け煙突を川向に望むバラックの安普請な建物だった。

 案内を受け部屋の中に入ると、ひとつしかない椅子をリヨに差し出し自分は木箱に腰掛ける。細やかな気遣いだ。女性に安心して休んでもらおうという暖かみが伝わってくる。

「弁当をつかわせてもらえませんか」

 今の時代ほとんど耳にしないこの言葉が、彼女の人柄の良さを伝える。

 鶴石は快く承知し、七輪に火をかける。リヨは弁当を開き彼に商売もののお茶を入れる。鶴石は恐縮し自分も弁当を開く。彼女の倍はあろうかというドカ弁だ。一緒に弁当を食べながら彼女の貧相な弁当に同情すると、自分の弁当の焼き魚を箸でぐいぐいと半分に割り、彼女に差し出す。

「食べなよ」

 無愛想な男にありがちな、照れからくる愛情表現だった。

「商売ってやつはその日の運不運ってのがあってね…、まあ何の商売も楽じゃねえな」

 相手を思いやり、ひとつひとつ言葉を選びながら、人情味あふれる笑顔で静かに語る。

 穏やかな人柄に安堵し、なんとなく言葉を交わし続けていくうちに、互いにウマが合うことに気づく。会話の掛け合いがスムーズで気持ちが楽なのだ。時間が経つに連れ、彼女の笑顔にも余裕が出てきていた。

打ち解けて身の上話をするうちに、リヨは夫のことを尋ねられた。

「主人はシベリアにいるんです」

「いやオレもシベリアからの引き揚げでね」

 お互いがシベリアという共通の境遇に身を置かれていることが分かる。リヨの夫が、かつての自分と同じ境遇に身を置いたまま戻れぬ身だと知った。シベリアでの苦労は言葉にならないほどつらかった。そんな男の妻と知るや、彼女をそのまま放っておけなくなった。

 リヨもまた夫のいない寂しさから、彼を頼りたいという気持ちが湧き起こっていた。

 帰りがけリヨは何度も振り向きながら小屋

を後にした。鶴石もまた逢いたいというオーラを出しながら、笑顔で手を振り続けていた。


 翌日、リヨは子どもを連れて行商に出た。近所の総菜屋でコロッケとフライを三人分注文する。店は女将がひとりで切り盛りし、赤ん坊をおんぶしながらフライを揚げていた。リヨはそんな姿に自分と同じ匂いを感じとっていた。

「まあかわいいお子さんね、よく太って…」

「まあなんですか…、はい、坊ちゃんにおまけですよ、ひとつ」

 下町の婦人たちが交わす和やかな会話と、その善意に応えるやりとりが実に微笑ましい。「よく太って」が褒め言葉になるほど生活は貧しかった。

 再び鶴石の小屋を訪ねる。

 彼の姿を見つけると、リヨの頬が緩んだ。

「やあ、今日は坊やも一緒かい」

「ええ、留吉って言うんですの、おじちゃんにごあいさつは」

「こんにちはおじちゃん」

 きちんと帽子をとってお辞儀をする男の子。戦地に残された父親の厳格さと母親のしつけの良さが感じとられる。

「こんちは、いい子だな坊主」

 鶴石が相好を崩す。子どもを見つめる視線がとてもやわらかい。子どもはすぐに彼に懐いた。父性に飢えていたかのようだった。

「坊主、トラックでお祭りに連れってってやろうか」


  


 鉄材の運搬トラックに子どもを乗せ、白鬚神社の縁日祭りに向かう。思わぬ出来事に子どもは大はしゃぎだった。

「かあちゃーん、バンザーイ、バンザーイ、わーい、わーい、行ってきまーす」

 上機嫌な子どもの姿に彼女も心が揺らいできた。抑留中の夫への義理立てから、女を捨て母親として生きていた心の抑留が、次第に解き放たれそうになっていた。


 その夜、リヨは同じアパートに住む若い主婦(淡路恵子)と話していた。

「おリヨさん、恋愛結婚?」

「いいえ、見合いなんですの、ありきたりの」

「そう、私恋愛かと思った。だっていつ帰ってくるか分からない旦那さんをじっと真面目に待ってるんですもの、六年も。私があんただったら、待ちきれずにどうにかなっちゃうな…」

 彼女の話を聞くうちに、リヨは自分の心にあるモヤモヤした気持ちが少しずつ整理され始めていた。

「私って意気地がないんですわ。ほんと言えば私だって、とても心細くて、何かにすがりつかなければ、沈んで溺れてしまいそうな気持ちになることがあるんですもの。でもそうなると、私って無理にでも主人の方に気持ちを縛り付けようとするんです。それでいてこの頃は滅多に主人の夢も見なくなりましたわね…」

「よく支えてられるわね自分を。もっとも、あんたにはあんなかわいい坊やがいるんですものね…」

 リヨの心は夫からの呪縛から解き放たれつつあった。今まで待ったのだから待たねばという気持ちから、今まで待ったのだからもういいだろうという考えに変わりつつあった。


 鶴石はかつて結婚していたが、復員してみると妻は別の男と暮らしていた。妻に裏切られた形だったが、最後には許していた。

 リヨもまた、いつ戻るか分からない夫を待ち続けている。周囲には、そんな夫を見捨てて再婚したひともいた。しかし、そのために悲劇を味わった男が今目の前にいる。

 シベリアから解放されたが妻を失った男と、シベリアから戻らない夫に縛られた女。彼女が正直な気持ちで寄り添えば、夫が戻ったとき彼と同じ悲劇が繰り返される。

 新たな決意で進むこともできない。かくも長き不在の夫に、今も愛情を持っているかも分からない。息子が愛しいことが、その気持ちが続いてるということの証なのだと自分に言い聞かせている。

 しかし、いつ戻るか分からない夫のために、人生の岐路となるこの僥倖を逃したくはない。そんな揺さぶられる心を解き放ったのは、彼の強引さだった。


 休日、鶴石はふたりを誘い浅草へ遊びに行った。楽しいひとときのあと、帰途で激しい雨に降られる。遊び疲れて彼の背中で眠る子どもを見つめると、リヨは感極まりながら言った。

「このまま帰りたくない」

 三人は小さな旅館で休むことにした。降りしきる雨音が響いている。子どもが寝静まった夜半、鶴石はリヨに思いをささやいた。

「おリヨさんは偉いよ、女はみんなだらしがないってわけでもねえんだなあ。戦争ってやつは人間を虫っけらみたいにしちまったね。大真面目におかしなことをやってるんだからなぁ」

 鶴石はリヨの健気さに感情が高ぶり始める。

「…そっちへ行っていいかい」

 彼女の健康的な色気に迷い抱こうとした。

「いけないわ。わたし、シベリアのことを考えてるのよ」

 しかし、リヨは言葉で拒否しても本能には逆らえなかった。理性が乱れ、彼女の方から彼に激しく抱きしめられていった…。

 翌朝、ふたりは昨夜の出来事を複雑な思いで逡巡していた。

「もし妊娠していたら、あのひとに何て言えばいのか…」

「オレ責任とるよ」

 鶴石は固く結婚を約束した。


 翌々日、鶴石の小屋を訪ねた。子どもを先にやり道の端で少し化粧直しをする。河辺を歩く彼女の顔は川の水面の乱反射に照らされ、キラキラと輝いていた。幸せに向かって歩きながら、湧き上がる喜びを噛みしめていた。

 小屋に着くと、見知らぬ男ふたりが鶴石の部屋を片づけていた。

「あのう、鶴石さんいらっしゃいますか」

「鶴さん昨日死んじまったよ」

 男たちは憮然として彼の死を告げた。

 昨日、事故でトラックもろとも河に落ちたという。

「いい男だったのに…、まったく人間の命なんて分からねえもんだ…。鶴さんもわざわざ死にに復員してきたようなもんだよ」

 男の言葉がリヨの胸に突き刺さった。神棚にある「武運長久」の祈願札の横で、灯されたロウソクの火が小さく揺らめいていた。

 小屋を出た彼女は、放心しながら土手をとぼとぼと歩いた。降りかかった現実を受け入れられないでいた。ふと後ろで付いてきている子どもが唄を歌っているのに気づいた。

 それはシベリア抑留者たちの間で歌われていた『異国の丘』だった。状況の飲み込めない子どもの何気ない唄に、忘れていた夫の存在に気づかせられた。


 今日も暮れゆく異国の丘に

 友よ辛かろ切なかろ

 我慢だ待っていろ嵐が過ぎりゃ

 帰る日も来る春も来る


「夫が戻ってくるかもしれない」

リヨは噴き出る涙をそのままに、川風に吹かれながら前向きに歩くのだった。

 山田五十鈴は、薄幸な女の内面にある感情に寄り添う姿を好演した。純粋に愛し合う者同士の慎ましやかな関係を、背徳感と恥じらいを同居させながら切なく魅せていた。

 戦争が残した爪痕は、市井のひとたちの人生観を変えてしまった。戦争前は、たとえ貧しくとも夫と別れて暮らすこともなく、家族そろっての生活があった。

 生きて戻るかどうかも分からない。でも子どものために裏切ることもできない。待つしかない。本当に当時、こういう日本人女性が多かったのだろう。

 彼女たちが抱えていた不安や悲しみが細かく描かれている。不安定な毎日を健気に生きながらも、やるせない思いが込み上げてくる。

 そんな日常に差し込んできた幸せの光が、突然視界から消えてしまった言葉にならない悲しみ。それでも彼女は生きていかねばならない。後をついてくる子どものために、吹き付ける現実の冷たい風を受け止めてやらねばならない。

 子どもと二人で土手を歩いて行く姿はどこか頼りなげだが、彼女の表情はきりっと引き締まっている。自分にはこの子しかない。子どもを支えに「母」として生きていく。そんな決意が背中から伝わってきた。


 山田五十鈴は大正六年(一九一七年)生まれ。敗戦時二十八歳。

 同年代のほとんどの女性たちは結婚し、幼い子どもを抱えていた。夫の戦死を知らされたり、シベリアに抑留されたりと、帰らぬ夫を諦めきれなかった世代でもある。

 三百万人の日本人が死んだあの戦争では、多くの若い男性が亡くなった。そのため結婚の道を封じられた女性も多く、また再婚もままならない時代だった。

 そんな同世代の不遇な人生を代弁するかのように、心の奥にある叫びを静かに演じきっていた。


 三船敏郎は、いかにも子ども好きといった表情をしていた。屈託のない笑顔がとてもいい。トラックでのドライブや、お祭りで大はしゃぎする男の子を優しい眼差しで見つめていた。

 この子どもへの愛情あふれる姿は、翌年の稲垣浩監督『無法松の一生』(昭和三十三年)の富島松五郎へとつながる。父親の父性に飢えた子どもに好かれ、やさしく面倒を見ていく姿はとても微笑ましい。

 三船敏郎と言えば、野性味あふれる男性美で、圧倒的な迫力と重厚感を持つ俳優という印象が強かった。その存在感は、誰よりも目立ち、三船の個性が際立つことになる。

 黒澤明監督『七人の侍』(昭和二十九年)、『隠し砦の三悪人』(昭和三十三年)『用心棒』(昭和三十六年)で魅せた迫力ある立ち回りは世界の観客を魅了した。

 また、端正な顔立ちで、インテリジェンスと繊細さも併せ持ち、鋭い眼光と野太い声の持ち主でもあった。黒澤明監督『天国と地獄』(昭和三十八年)での威風堂々とした姿は、ストーリーをより骨太にした。

 この作品では、「動」と「剛」だけでなく、「情」という魅力も併せ持ち、繊細な心の動きが入り混じった複雑な役を演じていた。


 三船敏郎は大正九年(一九二〇年)生まれ。敗戦時二十五歳。

 戦争に行き、軍隊では少年兵の教育係を任された。自分が育てた後輩たちが、次々と南の海で死んでいくのを見送ることとなる。敗戦後この戦争体験を「悪夢のような六年間」と述懐したという。

 シベリアに抑留された日本人は、関東軍の兵士、満州の開拓民など六十万人といわれている。極寒の凍り付く大地に骨を埋めたひとたちは約六万人。十人に一人は生きて帰ってくることはなかった。

「死ぬために復員したようなもんだ」

 劇中、遺品を整理に来た元同僚がつぶやいた言葉が虚無感を増幅させる。

 奇跡の生還を果たしたが妻を失い、その絶望から立ち直り、ようやく新たな幸福を掴みかけた矢先、泉下の客となってしまった。

 この世代(大正十年前後)は、「大東亜戦争のために生まれてきたようなもの」と言われた。旧復員庁の統計では、最も戦死者が多かったのは「大正九年生まれ」だった。

 このひとたちが持つ特有の情念は、まるで観る者の海馬に深く斬り込んでくるような執念を感じる。それだけ、「生」に対して他の世代以上に貪欲なのだろう。

 千葉泰樹監督は、この切ない物語を湿らせることなく、前向きに生きるさまに描いた。

 悲しい結末に渇いた叙情性を感じさせるのも、ふたりの名優が体験した「死に臨んで至る境地」がもたらせたものであろう。

 上映時間わずか五十九分。諦観の上にあるポジティブな姿が、終映後に温かい余韻を残していた。


  


            初出「白雲」第36号(2013年7月10日発行)




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「男はつらいよ」―梅太郎


                       赤穂 貴志



 映画『男はつらいよ』は、人情喜劇だ。

 シリーズ終了後十数年を経たが、今も変わらず愛され続けている。それは渥美清扮する主人公「車寅次郎」に魅力があったからだ。

 テキ屋家業の男が日本中を旅して回る。寒くなれば南へ、暑くなれば北へと気の向くままぶらりと出かけていく。旅先で地元のひとと交わり商売し、付き合いを深める。そのうちに薄倖な美女と知り合い、同情するうちに彼女に惚れて夢中になる。彼女との結婚を考え始めた頃フラれまた旅を続けていく。

 かくも長き不在の中、寅さんがひょっこりと故郷柴又に現れる。そこには、親代わりに面倒を見てくれる叔父・竜造と叔母・つね、いつも自分を心配してくれる優しい妹・さくら、その妹の夫で真面目で寡黙な義弟の博がいる。

 身内たちはいつも突然の帰省に驚く。居ないと気になるのだが、居れば居たで心労が増す。そんな複雑な気持ちを持ちながら生暖かく迎える。

 生家の団子屋「とらや」に逗留し、卓を囲みながら旅の思い出を語る。表現豊かな情景描写と心情を揺らす独白に引き込まれ、まるで自分もその場に居合わせたかのような気持ちにさせられる。

「寅さんがスクリーンの中から手を出して、中の世界に引き込まれる」かのような錯覚を起こしてしまう。

 観客はその「桃源郷」への誘いを待ち望んでいる。寅さんの軽妙な話術に酔い、銀幕に映える四季折々の日本の風景を眺めながら旅気分を味わう。

 そんな心地よい世界に満腹させられる中、この作品にはもうひとつの「別腹」が用意されている。それは寅さんのケンカ相手、太宰久雄扮する「桂梅太郎」、通称「タコ社長」の味わいだ。


「とらや」の奥に居間がある。

 妹夫婦は子どもを連れ、叔父夫婦と一緒に夕飯をとる。寅さんが帰ってくるとその団らんは賑やかになり、部屋の外まで笑いがこぼれていく。

 梅太郎はそんな和やかな場所にいつも同席している。裏に構える印刷工場「朝日印刷」の社長で、博の勤める会社の社長だ。

「とらや」の人たちとは家族同様の付き合いをしている。

 苦労して会社を立ち上げたが経営は苦しく、年中金策に駆けずり回っている。暗い表情で「とらや」に現れ、景気の悪さにため息をつき愚痴をこぼす。その話をみなに聞いてもらい気を取り直すと、伝票整理の続きをし、白のヘルメットを被りスーパーカブで税務署に出かけていく。

 人柄は良いのだがおしゃべりで一言多く、ついうっかり本音を漏らしてしまう。そのため、相手の怒りを買ったり、トラブルの原因を作ってしまうこともある。


 ある日寅さんが帰ってくると、店先に「貸間あり」の札がかかっているのを見つける。自分の部屋が貸し出されていることを知った寅さんは、帰る早々みなに怒りをぶちまけた。「なんだあれは、オレにはね、もうお前の住むところはないよぉって読めたなぁ。フン、どうせオレは歓迎されざる男だよ」

と愚痴りみなを困らせる。そこへ事態を収拾させようと梅太郎が現れ、

「なぁ寅さん、お前だって不愉快だろうけどみんなもあんまりいい気持ちじゃないんだよ。肉親のお前が帰ってきて…、ただでさえ迷惑なのになぁ!…」

と余計なひと言を言ってしまう。

「しまった!」という梅干顔の梅太郎に寅さんの怒りが爆発し、

「タコ…、てめえ今何て言ったんだ?オレが帰ったらそんなに迷惑か!」

と逆に火に油を注く結果になってしまった。

(『柴又慕情』第九作)


 また、場の状況をいっさい理解しないで現れるのも特徴で、寅さんの怒りを増幅させてしまうこともしばしばだった。

 寅さんが近所の幼稚園の美人先生・栗原小巻に惚れ、恋人気分で何度もデートし有頂天になっていた。ところが、ある日彼女が婚約者と一緒にいるところに遭遇し、放心してしまう。みなは寅さんが暴発するのではないかと恐れながら見ていたところ、梅太郎が笑みを浮かべながら現れ、大声で叫んだ。

「いやぁ寅さん聞いたよぉ、近頃は先生とうまくやってるんだってなぁ、このぉ色男!」と地雷を踏んでしまい、思いっきり寅さんに殴られていた。

(『新・男はつらいよ』第四作)


 本人に悪意はなく、「善意の第三者」として登場するのだが、いつもタイミングが悪いのだ。

「とらや」に働きに来ていた美人主婦・大原麗子が、長い別居生活のあと正式に離婚したことが分かる。みなは心悲しむ彼女の気持ちを察し、その傷口に触れまいと言葉を選びながら気を遣っていた。そこへ奥の部屋から陽気に歌を歌いながら現れ、

「♪逃ぃげぇたぁ女房にゃ〜っか、どうしたぃ別居中の美人は…」

と本人に直球を投げつけてしまい周囲を凍り付かせてもいた。

(『噂の寅次郎』第二十二作)

 失言の中にこそ本音がある。その場に流れる微妙な空気を体現させる道化師のような役割を担っていた。

 

 梅太郎と寅さんは「ケンカ友達」だ。

 ケンカするほど仲がいいという典型で、取っ組み合いになってもすぐ仲直りする。下町の気っ風のいい気性を持ち、喜怒哀楽が激しい人情家で、唯一寅さんと同じ土俵に立てる人物だった。

 この立ち位置はもともと「おいちゃん」の役割だった。初代おいちゃん・森川信はヒョウヒョウとした風貌で、枯れたユーモアで寅次郎にやり返し、本気でケンカをしながらも笑いをとるドタバタ劇の名優だった。

 ところが、森川信は(『寅次郎恋歌』第八作)を最後に他界してしまう。あとを受けた二代目おいちゃん・松村達雄は、気っ風はいいのだが分別くさく、困った甥を嘆くだけで、寅さんとは少し距離があった。

 また、(『寅次郎子守唄』第十四作)からの三代目おいちゃん・下條正巳は、善良で寅さんを思いやる気持ちは強いのだが、同じ目線でやりあうようなキャラクターではなかった。

 そんな背景もあり、森川信亡きあとの「コメディリリーフ」として、梅太郎の比重が高まってくる。


 梅太郎は毎日仕事に追われ、奥さんからはいつも小言を言われている。寅さんが家庭を持たず正業に就かず、やくざな商売しながら自由に旅して回る姿を羨ましく思ったりもする。

「オレも一生に一度そんな熱烈な恋愛がしてみてぇなぁ。あんな工場なんかほっぽっちゃって、好きな女と手に手をとってさ、世界の果てまで逃げ出してえなぁ」

(『寅次郎忘れな草』第十一作)

 その一方で、いい年をして定職もなく家庭も持たず、ブラブラして世間から後ろ指を指される寅さんの姿を見てふと我に返る。会社の経営は苦しいけども、フーテンな生き様よりは、地に足をつけた「実業家」である自分の立場はありがいと改めて感じとる。

「たとえ零細企業でもオレは社長だぞ、おまえはなんだ、文無しのフーテンじゃないか!」

(『旅と女と寅次郎』第三十一作)


 まっすぐに生きればきっといいことがあるに違いない。そんな淡い期待を心の隅に抱えながら毎日を懸命に過ごしているのだ。

 だが、寅さんが旅先で知り合った美女を連れて帰ると、耐えに耐えていた理性の日常に風穴が開く。勝手気ままに暮らし、高嶺の花の美女と恋愛している姿に激しい嫉妬心が沸き起こる。昼過ぎに起き、ブラブラしながら面白おかしく暮らしている寅さんの姿を見てため息をつく。そんな陰気な表情を見て寅さんは梅太郎をからかい、ケンカが始まってしまう。

「いいかっ寅!てめえなんかにな、中小企業の経営者の苦労がわかってたまるか!」

(『寅次郎わが道をゆく』第二十一作)

 

 梅太郎とは家族同様の付き合いだが、「とらや」の中では唯一の他人だ。団らんの途中寅さんからは、

「あっ社長、これから重大な話があるんでね、身内の者だけで面会わせたいと思って…」

と言われてしまう。

「分かったよ、どうせオレは他人みたいなもんだよ」

と返しながら疎外感を味わうこともあった。

(『寅次郎紙風船』第二十八作)

 ただ、その身内でないという無責任な立場のため、寅さんの恋愛事情にはヤジウマ根性を持っているところがある。身のほど知らずな美女に惚れて失恋する顛末を、「ニュートラルな傍観者」として楽しんでいるようでもあった。

 不景気が続き、銀行での融資を断られて帰ってくるや、

「あぁダメだダメだ、何かいいことないかぁ、寅さんまだフラれねえのかなぁ」

と本人が居るのに気づかずボヤいてしまう。 すかさず博がフォローするのだが、

「何しろあんまり不況が酷いんでつい口が滑ったんです。社長も社長ですよ、兄さんまだフラれてやしないじゃないですか!」

と自分も口を滑らせていた。

(『寅次郎わが道をゆく』第二十一作)

 寅さんが若い男女(中村雅俊・大竹しのぶ)を引き合わせ、ふたりの仲を取り持ったときには酒を飲みながら、

「ついに寅さんが現役を引退してコーチに就任したんだよ!」

「現役のときはダメでもコーチになったらよくなったという話もありますしね」

と博まで追い打ちをかけていた。

(『寅次郎頑張れ!』第二十作)


 身内にとっては、寅さんがフラれるのは、自分の甥や兄の幸せがまたひとつ遠のいていくという悲しいことだが、梅太郎にとっては、自分の置かれた不遇な境遇がわずかに浮かび上がる幸せな瞬間なのだ。

 これが「とらや」一家と、その円周外にいる梅太郎との寅さんに対する立場の決定的な違いだ。

 しかし、そうは言っても梅太郎にとって寅さんは古い「友達」であり憎めない。それに「とらや」の身内たちはもっと愛すべき存在だ。寅さんが幸せになることは、みなを喜ばせることにつながる。

 寅さんが見合いをするとなると、熱心に世話し走り回っていた。寅さんが結婚を決意したひとに会いに行くことになったときには、山陰までわざわざ一緒に出かけ、そのあと失恋した寅さんとヤケ酒につきあったこともあった。

(『寅次郎恋やつれ』第十三作)

 口悪くケンカしても心の底では優しさがあふれ、人一倍情にもろい人間なのだ。


 梅太郎の会社は小さな印刷工場だ。その社屋の二階が従業員の寮になっている。数人の社員たちは、現場の主任技師である博を中心に勤勉な仕事ぶりを見せ、日々の業務を黙々とこなしている。休日には寮でギターを弾いたり、寅さんの連れてくるマドンナを見に来たりと、実像に近い若者の姿がそこにある。

 梅太郎は職場に現れるとみなに労いの言葉をかける。社員たちもそれを気持ちよく受けとめている。みんな社長を慕っているようだ。お祝いごとやボーナスを支給日には定時前の業務終了宣言をしたり、懸案だった手形が落ちたときなどは満面のえびす顔で職場に現れ、「今日はごちそうするよ」と社員たちに宣言したりと上機嫌な姿も見せる。

 そんなときの梅太郎は実にいい笑顔だ。職場の雰囲気も明るい。


 社員が元気に働く条件のひとつとして「信頼できる上司」の存在が挙げられる。

 働く上で一番大事なのはモチベーションだ。このひとのためにという「意気に感ず」気持ちが持てれば、どんなつらい仕事でも頑張れる。

 人が働くということは社会性の再認識でもある。

 十数年前、定年退職になった職場の上司がこんな別れの挨拶をしたことがあった。

「働くというのは、傍を楽にさせるということなんです!」

 ひとは自分のためだけに仕事を続けることはできない。自分が苦労することで周りに居るひとの役に立つ、そんな振興の気概を持つことが自らを奮い立たせるという話をしていた。

 長くサラリーマン生活を続けていると、生きる上でのずるさが身についてしまう。人当たりが悪くなったり、顔に険が刷り込まれたり、ひとに対しての思いやりが蔑ろになってしまったりすることがある。

 ところが、梅太郎は仕事で切羽詰まり大慌てしていても、どこか人間としての「ゆとり」が感じられる。それは自分自身が常日頃から自分の弱さかっこ悪さを素直にさらけ出し、正直でにこやかに社員と接しているため、その社員からの思いやりが自然と自分に返ってきているからなのだと思う。

 会社の経費を自分の遊興費に回して豪遊することもなく、若い従業員のことを親身になって考え、会社を維持するために必死で資金繰りに走り回る。

 凡庸に見えても、人柄が作り上げた「求心力」が人心掌握につながっている。目先のことばかり追求し、社員を使い捨てするような「遠心力」しか持ち合わせてない社長とは比較にならない。また、表面はいかにも相手のためであるかのように偽って、実際は自分の利益をはかるような、「御為倒し」を言うこともない。


《泥臭さの中にかっこよさがある。

  人品骨柄に人間性が現われている。》


 暖かみのある人柄に社員たちは絆されていく。現場のリーダーである博は、父親の遺産が入ったとき、それをオフセット印刷の購入資金として会社に投資した。独立して自分の会社を持とうと考えていたが、その夢を諦め社長のために尽くす決意をした。

(『口笛を吹く寅次郎』第三十二作)

 下町中小企業の社長を思わせる短く刈り込んだ髪型で、太鼓腹とまんまる顔をした見た目は、キャラクターとの振れ幅が小さく、受け入れ安いのも親しみが持てる。

 明るく振る舞ってはいたが、とても淋しく悲しい軽口をたたくことも多かった。

「上を見てもきりがない、下を見て暮らさないと」

(『柴又慕情』第九作)


 正業に就き実社会の厳しさを体現している梅太郎も、虚業の中に身を置き本能のままに生きる寅さんも、本質は同じ人情家で根底は変わらない。

 日々の生活に四苦八苦している梅太郎の姿は大衆の「写し身」であり、惚れた腫れたとのたまわっている寅さんの苦悩は市井人の「羨望」でもある。

 自由人として生きることで、家庭を持つこともなく、恋愛し失恋する悩みなどは高々「(モテない)男はつらいよ」で、ある意味幸せなことなのかもしれない。

 梅太郎の生きる世界での苦労こそ「(堅気の)男はつらいよ」なのだ。


 この作品が今も人気なのは、寅さんの失恋が「喜劇」だからだ。

 渥美清の風貌とキザな言動とのギャップにおかしみを感じるからなのだが、実は梅太郎の現実の気苦労を対比させることで、観客はこの失恋の悲哀に流されることなく、遠巻きに見ることができたからだとも言える。

 梅太郎の悩む姿が、寅さんの失恋をより滑稽にし、笑いへと押し上げている。

 寅さんと梅太郎は切っても切れない関係なのだ。


 梅太郎の社長像は、古き良き「昭和の日本」における中小企業の姿を見る。

 平成の時代になり会社の在り方も様変わりした。終身雇用・年功序列は崩壊し、会社は株主のものという考えが蔓延るようになった。

 世の中から「梅太郎」がいなくなったときが、日本の良き企業文化が消えるときなのかもしれない。



 太宰久雄(だざい・ひさお)              


 大正十二年十二月二十六日、東京市浅草区(現・東京都台東区浅草)の海苔問屋の息子として生まれた。タコ社長役で見られた髪型は、父・久吉をモデルにしたもので、当時の浅草の海苔問屋の商人たちの間で流行っていた髪形であると言われている。

 渥美清が亡くなった翌々年、平成十年十一月二十日に胃がんのため死去した。享年七十四歳。葬儀・告別式は故人の遺志で行わなかった。

 胃がん宣告後に自筆の遺言を残している。

『葬式無用。弔問供物辞すること。生者は死者のため煩わらさるべからず。平成九年二月二十六日 太宰久雄』

 山田洋次監督は最後にこう語っていた。

「体調が悪いことはかなり前から知っていました。何度も俳優を引退したいと申し出られたのを、引き留め、引き留め、『男はつらいよ』シリーズ四十八作まで頑張ってもらいました。渥美清さんが亡くなってからはだれにも会おうとせず、見舞いも厳しく断っておられました。どのような思いで死を迎えられたのかを想像し、粛然と襟を正す思いです」



 初出「白雲」第35号(2013年1月10日発行)





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